これまでのバイトを全て思い出しつつコンパクトに網羅
思えばいろんなバイトを経験してきた。暇に任せて思い出しながら書いていこう。これはあくまで自分史的な記録であって、他人に読まれるために面白おかしくという意図は無い。もちろん面白おかしく手を加えることはやぶさかではない。


@悟空、小4で朝刊太郎−−の巻
A中2で肉屋の養子に
B土方は17歳で=男の操を喪失の危機!
C高3で肉屋のバイト
D三交代に泣いた19歳の春
E大阪梅田のジャズ喫茶のウエイターは21歳
F自由が丘のジャズ喫茶は22歳
G蒲田のジャズ喫茶は22歳
H初めてのバンドマンは蒲田で
I目蒲線の喫茶店で洗い物
J大井競馬の駐車禁止ガードマン
K池袋のパチンコ屋
13/川口オートのガードマン
14/朝霞西友の花屋さん
15/与野で漬物の訪問販売
16/通信添削の配達
17/朝霞自分でドラム教室
18/朝霞で自分でピアノ教師
19/宮で陸送
20/大宮で厨房
21/大宮で呼び込み
22/大宮でピアノの弾き語り
23/野田でドラムの叩き語り
24/柏でドラムの叩き語り
25/池袋で路上販売
26/六本木でアクセサリー販売
27/西川口で路上販売
28/横浜のクラブでアクセサリー売り
29/松本でアクセサリー売り
30/首都圏でバンドマン
31/新潟でバンドマン
32/荻窪でライブ
33/陸前高田の除夜の鐘
34/浦和で重機の運転
35/大宮でピアノ運送
36/大宮でピアノクリーニング
37/大宮で解体屋
38/所沢でゴミの分別
39/初めてのバチあたり
40/ライターの道
41/上尾で発砲スチロール
42/浦和で重機の修理
43/便利屋開店
44/ピアノ運送開店
45/大宮でフィリピンパブの店長@
46/大宮でフィリピンパブの店長A
47/中国パブの店長
48/浦和ロジャースの八百屋
49/朝霞自衛隊の音楽隊
まだまだあるかも・・・。


@悟空、小4で朝刊太郎−−の巻
 ♪ボクのあだ名を知ってるかい。朝刊太郎というんだぜ♪
この歌を知ってる人は相当に古い部類の入る、団塊の世代の人々と言わねばなるまい。
 オイラの4−5歳上の上級生は小学校高学年で新聞配達をして、月に一度「少年画報」を買っていた。当時130円。別冊付録が5−6冊もあった。当時はこのスタイルが当たり前だったのだ。少し遅れて「日の丸」が110円になったのも記憶している。新聞は地元の大新聞、大分合同新聞だ。肝心の新聞配達(朝夕刊)の給与(月1度)は500円だった。なんとも物価の推移に驚くばかりだ(仮にマンガ代を10倍として1300円としても、月給はたったの5000円でしかなかったのか・・・)。
 当時の上級生はその「少年画報」を村の子供たちに読ましてくれるのだが、それは彼に追従しおもねる子供にしか読ましてくれなかった。そこでオイラなどは彼は元より彼の弟の機嫌さえも損ねないように、気を使いながら読ましてもらったのを覚えている。

 上級生が中学生になり集団就職をして社会人になると、朝刊の配達を辞めた。次は誰がやるのか?まだ小学校4年生だったが、オイラが名乗りを上げた。月給は相変わらず1ヶ月に500円。部数はたったの13軒配達すればいいだけだったが、配達する地区(というより村と言った方がいいだろう)は、八熊村、竹部村、持丸村の3村に渡る。その道のりは5-6キロ以上は楽にあるだろう。山間部の寒村ばかりだったから、子供の足にはきつかったのを覚えている。
 朝刊は、まだ暗いうちに家族にせかされて眠い眼を擦りながら家を出て、2-3キロ先の街中にある専売所まで新聞を取りに行って、それから3村を回った。夏ならまだしも冬季の朝は起きるのがつらかったし、貧乏な家庭だったのでちゃんとした防寒具さえ持っていなかった。いやもオイラだけではなくそういう時代だったのだ。
 着たきりすずめの薄着の上着に、満足な靴下さえも無かった。靴下はいつも踵かつま先に穴が開いていた。厚手の靴下が欲しいところだが、そういったものは贅沢な叶わぬ夢だと思い込んでいたため、欲しいとさえも思わなかった。丸刈りだが防寒の帽子も無く、鼻水を垂らしても手袋も無く、小脇に新聞の束を挟んで両手にかじかんだ手を入れて小走りで配っていたものだ。
 夕刊は学校が引けると専売所に立ち寄って13部の夕刊を数えた。ランドセルを背負って(と、普通は言うが、オイラは小3ですでにランドセルは壊れて無かった。そのため風呂敷包みに学用品を入れて通学していたのだった・・・貧しい時代だったのである)小脇に夕刊を持っての配達だった。
 だが、最初の一軒から次の一軒までは道のりがある。しかもどの村も校区内だったので、同級生や知り合いでいっぱいだった。ついつい誘われて一緒に遊んでしまうということも再三再四あった。
 冬の日は短い。ついつい遊びに夢中になったオイラは、辺りが暗くなってしまうのも忘れて遊びに夢中になってしまうこともあった。朝の暗さは夜明けを待つだけでいいが、夕方の暗さはますます夜に近づいていってしまう。実は恐がりのオイラは、暗くなってしまうとオバケが恐くなってしまうという欠点がある。
そこで新聞配達をまだ終えていないのに帰れなくなってしまったオイラは、当時の有線電話で連絡を取ってもらって、家族に迎えに来てもらったことが何度かあった。オバケはオイラに何も危害は加えなかったが、農作業を終えて疲れた父母が迎えに来た後は、きつーいゲンコツを貰ったものだ。
 それでもたまに帰れなくなるまで遊ぶ誘惑には勝てなかった。そんな時ふと考え付いたのが、大声で歌いながら帰るということ。
♪赤い野の花 あの子と摘めば 空でツバメが宙返り 宙返り♪
そんな歌を歌った北原賢治も、もうこの世の人ではなくなってしまった・・・。
 オイラの甘酸っぱい初めてのアルバイトの記憶である。ところで500円で何を買ったのか?マンガは買ったことはないが、オモチャの拳銃を好んで買った記憶がある。子供にしてはたいへんな労働の代価にバカな物を買うと、これまたオヤジにゲンコツを貰った記憶がある。
 いずれにせよ、最初のアルバイトの記憶は、恐いことと痛いことしか覚えていない。

A中2で肉屋の養子に・・・まるで次郎物語
<8人兄弟の末っ子>
 オイラは8人兄弟の末っ子だ。実に一番上とは20-22歳ほど離れている。実は離れ過ぎていて正確には知らないのだ。それでも2番目とは19歳離れているので、その程度ではないかと思うのである。
 当時の家族の人数は両親と、7人兄弟(一番上は社会人になっていた)と、長男の嫁とを合わせて10人居た。いつも湯浴み出来るほどの大なべに、大分名産の「だんご汁(チャンコ鍋のようなもの)」を作り、毎晩食べていたのを覚えている。
さて、10人家族で現金収入が長男の日雇いだけだと、食うに事欠く。実家は農業だったので食べる物は現金なしでも食べるには食べられたが、メニューが貧しい。現金で買える魚は月一度だけ。肉は年に一度、タバコ納め(タバコを作っていたので、それを年に一度納品していた)の日だけ。まさに魚も肉も食卓では争奪合戦の様相を呈していた。そのため主食といえば麦(当時の農家は米を現金化していたため自分たちは食べられなかった)と「だんご汁」だけだった。学校帰りに生で芋をかじったり、生のニンジンや生のマメ、生のナスをかじったりするほど、常に腹を空かせていた。
 兄弟が多いため着る服はぜーんぶ上の兄と姉たちのお下がりだ。シャツもブラウスも右前ボタンであろうと左前ボタンであろうと、エリが女物の丸エリであろうと、もう男物だとか女物だとか言ってる余裕はない。とにかく肌を隠す物を身につけないことにはどーにもならない状況だった。雨の日には長靴はおろか、傘さえもない。上の兄たちは傘が無いのは当たり前で、ハダシで通学していたことを覚えている。
 今でこそ世界各国を旅できるようになったが、あの時期のオイラの家の経済状況は、タイ北部の山岳民族のレベルに該当するのではないかと思う。

<口減らしで養子に>
 中学1年の1学期が終わった日だった―――。
家に帰ってみると当時は珍しかった自家用車が家の前にあり、母親とともに恰幅のいい中年の夫婦がオイラを迎えた。母親が言うには彼らは母方の従兄弟に当たり、隣接する市で大きな精肉店を営んでいるという。そこでは毎晩肉を食べられるから、その家に養子に行くようにと言う。
母親にしてみれば手元に置いて食に事欠くよりも、他人の家に出してでもいい物を食べさせたいという思いからなのだろう。これではまるで「口減らし」ではあったが、オイラにしてみればこれまで年に一度しか食べられなかった肉を毎晩食べられるというのでは魅力があった。一も二もなく二つ返事で着の身着のままでそのまま車に乗り込み、隣の市へと養子に行ったのだった。
ところがその夫婦には問題があった―――。ダンナは初老のオヤジだったが、前妻との間にすでに成人した子供が3人もいて、それぞれに精肉店の支店を持たしていた。したがってオイラの義理の母親になるべく女性は一般的に言う「後妻」で、ダンナよりは一回りも年下だった。しかも彼女は先妻の子たちに対して発言権は殆ど無かった。そういった立場の女性の養子になるということはオイラのその家での立場はいったいどうなるのか?オイラは子供心にも敏感に感じたが、その家にオイラの居場所は無かった。それは一週間もその家のトイレ(大用)を知らなかったことからも伺える。
「すみません。ここの家は便所はどこにあるんですか?」
「なに?おまえはまだトイレに行ったことが無かったのか!」
それほどにオイラは借りてきたネコのように、辺りにはばかって生活をしていたのだった。毎晩食卓に肉は上ってはいたが、それを堂々と摘むだけの勇気は無かった。

 中学1年の少年とはいえ、朝の7時前には起床して精肉店を開けた。いや開けただけでは商売は出来ない。店舗を開け、店舗の前に水を撒き、陳列台を拭き中に商品の肉を並べる。そうして学校へ行くのだ。学校を終えるとすぐに帰宅して店に出て販売をする。自転車での配達も担当した。クラブ活動などしたくても出来るわけがない。
 それでも着る物だけは清潔だった。制服は新調してもらったうえ、中学生のくせにワイシャツは1−2度着たら洗濯屋に出してノリの付いたものを着、靴も靴下も他の同級生に見劣りしないものを着せられた。
 勉強は夜の8時から12時までは必ず復習をしていた。テレビやマンガなどは見たことも無い。学業でいい成績を取り、それを義理の両親に見せることがオイラの唯一の喜びだったからだ。精肉店を夜の7時ごろ閉店したとしても、夜遅くなって飲み屋からブロイラーなどの注文が来る。そんな時は勉強中でも、オイラが計量して伝票を書いて自転車で配達をしていた。

<頭を足蹴にされて・・・>
 その店の三男が嫁をとってから、オイラの生活が変わった。その嫁は当時20だったが田舎者で粗暴な女だった。その女がオイラよりも先に起きた朝は、「はい、起きてぇ〜!」と寝ているオイラの頭を足蹴にして起こした。
 例え貧しい家の子であったとしても、例え食に事欠く家の出だとしても、他人に寝ている頭を足蹴にされて起こされるいわれは無かった。それは子供ながらもオイラの自尊心を著しく傷つけた。今で言うところのトラウマである。このころ以来オイラは米飯を食べられなくとも、肉を年に一度しか食べられなくても、実の父母の元へ帰ろうと思い始めた。肉の配達の折、隣接するオイラの町のはずれに差し掛かると、実の父母や小学校の恩師の顔を思い浮かべて涙をこぼした。
「とうちゃん、かぁちゃん、先生・・・実家に帰ったら勉強をいっぱいいっぱいして偉い人になります」
 オイラが養子に出た中1の1学期の終わりからちょうど一年がたった。中2の1学期を終えた時、オイラは実家に帰る旨を告げて、ひとりバスで帰郷した。実に家族の元に帰ったのは1年ぶりのことだった。
 それから半年後、実家の父が鬼籍に入った。64歳だった。それからオイラの実家はますます貧しくなってしまったのである。


B土方は17歳で=男の操を喪失の危機!
<先輩と一緒に>
 統計的に最も多くの女子高生たちにある種の転機が訪れるのが、高校2年の夏休みだとも言われている。時はずいぶん遡るものの、オイラにも高校2年の夏休みに、ある衝撃的な事件があった。
当時ひとつ年上の高3の先輩が、土方(当時はこう呼称してもなんら問題は無かった)のアルバイトに出ていた。オイラは陸上競技とサッカーをやっていたスポーツ少年だったので体力には自信があった。さっそく先輩に取り入って一緒にアルバイトに出られるよう取り計らってもらった。
 仕事は主として建物の基礎工事とコンクリート打ちだ。オイラの仕事はセメントと砂利に水を混ぜて、手早くスコップでこね回すこと。そして出来上がったねり状態のコンクリートをネコ(通称一輪車)に乗せて、足場板の上を器用に指定された場所に運ぶ仕事だった。
 日当は朝早くから夕方までで700円。当時美味しいチャンポンが食堂で130円だったから、単純に5倍して現在が650円として、日当は3500円・・・決して高くはない日当である。それでも地方の小さな町であり、他にアルバイトも現金収入も無いのであればこの仕事でもオイラにとっては最高の小遣い稼ぎの手段だったのである。

 早朝に起き出して自転車で隣の隣の隣にある、先輩の住んでいる村まで自転車をこぐ。道のりにして5−6キロほどか。当時は最寄りの駅まで毎日往復20キロもの道のりを自転車をこいで通っていたので、5-6キロなどは鼻歌まじりで行けた。先輩の村に行き、先輩とともにオイラたちより5つ6つ年上の黒さん(独身男性)の家に集合する。
 黒ちゃんとは色が黒いため付いたあだ名だが、その体型は日本人というよりはむしろガッシリした黒人のようでもあった。それでもその歩き方は両足のヒザをすり合わせて歩くような奇妙な内股で、それがオイラには気になった。その黒ちゃんの家で待っていると、土方の親方が工事用の道具類を積んで我々を迎えに来るという段取りになっていた。その時間が7時過ぎか。それから我々は小一時間かけて隣の市まで仕事に向かうのだった。
 ネコを押すのは体力の有り余っているオイラにはどうということは無かったが、一度だけやらされたサイロ(牛のエサを冬季に貯蔵しておくもの)内の壁塗りには参った。この仕事はテクニックを要する左官の範疇に入る。舟形をしたコテの上にある程度のコンクリートを乗っけてベタッ!と壁に押し付けて塗るのだが、オイラがどう塗っても押し付けても重力の関係でボタボタと落ちてきてしまうのである。ところが5−6歳上の黒さんのテクニックには驚いた。事もなげに同じことをしているのにも拘わらず、彼が塗ったコンクリはピタッと壁にくっついて落ちてこないのである。仕方が無いのでオイラはもっぱらネコを押して、彼のもとへコンクリを運ぶことに専念した。

 バイトの話なのだが、仕事内容はここいらでおしまい。衝撃的な体験はあるある夜突然起こった―――。
我々が知り合って数週間、黒ちゃんの提案で黒ちゃんの住む離れ(田舎では青年は別棟に住むことが多い)で「飲み会」をやろうということになった。料理は黒ちゃんが作ってくれるらしい。近隣でも黒ちゃんのマメさは有名で、手料理にしろ洗濯にしろもっぱら「嫁いらず」と評判だった。
 料理もアルコールもタダなのをいいことに、オイラは飲みなれないアルコールをおだてられるままに飲み、黒ちゃんの手作りの料理をたらふく食べた。いつの間にか時間が下がり、ひとつ上の先輩は隣にある自分の家へ帰って寝ると言い出し、オイラは黒ちゃんの離れに泊まることになった。慣れない酒に酔っ払っい、たらふく食ったオイラは全てに満足して夢心地でその場に横になった。

<深夜の初体験!>
 深夜のことだ。真っ暗闇の中でオイラは唇にネットリしたものを感じて目が覚めた―――なんと黒ちゃんは唇をむさぼるように吸っていたのだ。それだけではない。オイラの大事な部分をもモゾモゾとまさぐっていたのだ。これが同性で且つ先輩なだけある。オイラの気持ちいい部分に気持ちいいような摩擦運動を加えていてくれたのである。睡眠中で意識の無かったオイラだったが、その部分だけはオイラよりは先に屹立していた。
 熱い吐息がオイラの耳たぶにかかった。
「どうだい?キモチいいだろう?」
黒ちゃんは耳元で息をかけながら囁いた。同性愛という言葉も知らない。ホモと言う言葉もオカマと言う言葉も知らない田舎者で純朴なオイラは、こんなめくるめく官能の世界があるとは露ほども知らなかった。
「うん。気持ちいい。でも・・・」
オイラは反応する肉体とは別に、まだ僅かながら理性が残っていた。酔っ払いながらも理性の方が勝った。
「悟空ちゃん、ケツボボ(九州地方の方、分かりますよネ)させてくれょ。なぁ・・・」
またまた熱い吐息が身元にかかってきた。
ここで拒否したら筋人質な体格で勝る黒ちゃんに無理矢理押さえ込まれかねない。さこで体力には体力で抗うことをせず、オイラは可愛く拒んで見せた。
「ねぇ、今夜は初めてだから恐いんです。また今度・・・お願い!」
 その夜は事なきを得ずオイラは男の操を死守したわけだが、いらい筋肉質で内股で歩く男には気をつけている。
蛇足ながらオイラはバイトで稼いだ金で、当時はやっていた「鶴岡正義と東京ロマンチカ」に憧れて、鶴岡正義の弾くレキントン・ギターを買ったのだった。
 

C高3で肉屋のバイト=女性に口も利けなかったシャイなオイラ
<雄牛のような実用自転車>
 中1の2学期から中2の2学期まで丸々1年間、肉屋に養子に行っていたことは言った。経験というものは数年たったとしても、再び肉屋に呼び寄せられてしまうものなのだろうか。高校3年の冬休み、同級生とともにデパ地下にある肉屋で白衣を着ることになった。
若い時期に身体で覚えたことは身体が忘れない。100グラム200グラムのおおよその量をポンと計器に乗せるのはお手のものだった。しかも包装紙でくるくると簡潔に包み、輪ゴムをかける一連の動作は頭よりも先に手先の方が勝手に動いた。
 だが、この時代得意の暗算は必要なかった。以前は100グラム幾ら幾らの肉を110グラムでは?120グラムでは?というのを、肉を包装し終えるまでに暗算が出来ていたが、このころは計りにデジタルで料金が表示されたので、頭の体操をする必要が無かった。
 高校は実家から自転車で片道約10キロを漕ぎ、朝6時40分の汽車に乗っていた。今は無きSL車で途中4つの駅を45分かけて大分市に向かっていた。それにしても・・・相変わらずオイラの家は貧しかった。金持ちの子は自転車通学ではなくバスで駅に向かった。その次に金持ちの子はオートバイで駅に向かった。そしてたその次に金持ちの子はスポーツ自転車を買ってもらって駅まで漕いだ。そしてトコトコン貧乏なオイラは、近所の古老から魚屋の使うような真っ黒い牛のような自転車をタダで貰い、それをギッチンガッチャン言わせながらペダルを漕いで駅に向かっていたものだ。
 行きはいい。みんなそれぞれ別々に駅に向かうわけだから。だが帰りの汽車で一緒になると、駅から我が町までは同じ道を走ることになる。バスとオートバイの連中はとっとと先に帰ってしまう。自転車でもギヤチェンジの付いたスポーツ車は、オイラの自転車などよりは軽いし速い。体力の有り余ってる少年たちが自然発生的に競争を始めてしまうことは恒例になっていたが、それにしてもオイラの実用自転車ではツライ。ことに上り坂ではどんなに必死になって漕いだところで、スポーツ車には叶わない。結局いつも最後尾を大汗かいてペダルを踏んでいたのはオイラだった。
 それでもいいことはある。おかげで脚力が付いて、全校生徒が1200人もいる工業高校での運動会では長距離・長距離の優勝者はいつもオイラだったのである。

<経済格差に嘆く>
 
自転車を漕げば腹が減る。それでなくてもいつも腹を空かせていたオイラだ。肉屋のバイトがあ
れば喜んで行くのは自明の理だ。なぜなら相変わらずオイラの家は貧しく、肉は年に1度ほどしか
食べられなかった。バイトの生徒は従業員価格で肉を買えるからであり、肉屋のオヤジが居ない
時には他のアルバイトが多めに肉を包んでくれたからである(自分で自分の買うものを包んでは
けないという決まりがあった)。
 買った肉をホクホクと持ち帰り、遅い夕食でそれを自分独りで食べのが唯一のオイラの楽しみ
だった。それでも肉は高い牛肉ではなく、価格の安いマトン(マントではない。ヒツジの肉なのだ)を100グラムだけだったが・・・。

 そのころ毎日のように高級牛肉を買いに来る一つ二つ年上ほどのお嬢様がいた。漆黒のロングヘアーに真っ赤なモヘアのセーターが似合い、その色の白さはまるで白雪姫が肉を買いに立ち寄ったようにも思えたほどだ。もちろん絵にかいたような美人である。
オイラといえばたまに100グラム50円のマトンを買うだけが贅沢だというのに、彼女ときたら100グラム200円ほどもするヒレステーキや、高級和牛肉を400グラムほどもこともなげに買っていくのだった。
 ここでオイラはある種の社会的な疑問を感じた。18歳で多感な時期。時は大学紛争の真っ只中だった。「ブルジョア」だとか「労働者階級」だとかいった言葉が飛び交っていた時だ。
「たとえ相手が白雪姫だとはいえ、オイラは贅沢な肉を提供する側の立場に立っていいものか・・・?」
素朴な疑問が湧いてきた。
というよりむしろ彼女の食生活と服装などの容貌に対する、オイラのコンプレックスの裏返しといった方が的を射てるだろう。男子校で質実剛健で通していたオイラは、女性に対しては極端にシャイだったため、常連客の彼女に対してさえ微笑みかけることも出来なかった。
 青年期の純な心は大人になって思うほど安易なものじゃない。硬派なオイラにとって異性に微笑みかけたり口をきいたりということは、たとえそれが「いらっしゃいませ」であっても、「有難うございました」であっても、出来なかったのである。今思えば病的なほど女性に対してシャイだったのである。今のオイラからは考えられないことだ・・・。
 





これから暇をみて書き進めるつもりナノダ。