「おーむ」のヒロシ氏の思い出
これは小岩でフリー・ジャズの飲み屋兼、ライブハウスをやっていたヒロシ氏の思い出を綴ったものである。
私のライブ活動で数あるライブハウスの内、荻窪の「グッドマン」を母とするなら、このヒロシの「おーむ」は厳格な父親的な位置にあった。またその常連は私にとって、キビシイ兄貴・姉貴であり、心優しいファンであった。

<出会い>
 
もう随分前の(というよりも昔という表現の方が適切か?)ことだが、私が荻窪の「グッドマン」のマスター、鎌田雄一氏と一緒に「リンボ・トリオ」をやっていた頃だ。だから・・・20年チョイ前のことになる。当時の私は、演奏ができる場所(ライブハウスや公園)を求めて、あっちこっちのライブハウスに出演交渉をしていた時期だった。そんな時期、風の噂に小岩にアリー・ジャズをやらせてくれる店があると聞き、「おーむ」を訪れたのが最初だった。

 最初の出演交渉は電話でやり、初めての出演は鎌田雄一氏(ソプラノ・サックス)と、たぶん(ハッキリ記憶に無い)野島健太郎(キーボード)との「リンボトリオ」だったと思う。このバンドは掛値無しに、本当の、ホンマの、超フリージャズ・バンドで、バンド・リーダーの鎌田氏の超・柔軟・自由思考によって、なにものにも囚われない、完璧なフリー・ジャズ・バンドだった。そう言う意味で私の鎌田氏から学んだ部分の比重は相当に大きかった。

 その日の出演(というほどのモンじゃないが・・・)のギャランティーは、な、なんと!9000円。これはそれまでやってきたライブのギャランティーとしては、破格の大ギャランティーであった。それまでは数百円やせいぜい1000-2000円程度でしかなかったので(ということはガソリン代等でいつも赤字)、相当に驚いた。
「ジャズをなめたらイカンよ。ジャズのチャージは高いんだよ!」 
ヒロシさんは客の前で悪びれずにそう言った。そして彼のファンであり、親派である常連もそれをヨシとしていた。

「のなかチャンは原田さん(piano)なんかとも演ってんの?」
ドラムセットを片付けている時、ヒロシさんに言われた。
「はい。あとは『人間国宝』っいう自分のバンドもやってます」
「なにそれ?」
「サックスの川下直弘とベースの不破大輔とで、大騒ぎの馬鹿バントもやってます」
「じゃ次はソレいってみようよ」
ということで、我が「人間国宝」が、ヒロシさんの「おーむ」に初出演するということに相成ったのであった。

<人間国宝=ジンコク=の「おーむ」初登場!>
 そこで「おーむ」でのジンコク(人国)で初めてのライブと相成った。それが何年の何月何日かは日記帳に書いてあるので、調べれば分かるのだが、面倒なのでそれはやめとく。
この時のメンバーが川下直弘(サックス)、不破大輔(ベース)、坊や待遇の近藤直司(サックス)だ。トランペットの吉田哲司は居たかどうか忘れた。
 詳細は面倒なので省くが、ここの客の勢いったらなかった。
この店は、イジワルで吸音作用があるのか、幾ら叩いても音が反響しないで吸われてしまうので、パワードラムも相当にしんどい。モタモタ吹いていたり、叩いていたりすると、馴染みの客から怒号や叱責が飛んでくるのだ。
「オリャー!」
「ダーッ!」
と、管楽器のアサガオに顔を突っ込んで、サックスの音よりもデカイ音を出そうと怒鳴る。これじゃ近藤も川下もタマラナイ。当然演奏は「鶴の恩返し」の「おつう」状態で、身命を削っての大騒ぎとなってしまった。当然、演奏後のオイラは店の外の路上で倒れ込んでしまった。

 この時もギャラはひとり1万円ほどになった。ヒロシは我々の演奏に、それなりの代価を払ってくれ、演奏を認めてくれた。
「のなかチャン、またやろう!」
ということで、その次のライブ予定を決めてしまったのであった。

<初めての騒音苦情にヒロシさんもホクホク>
 最初のライブの夜の演奏の最中、ヒロシの店に近隣から「ウルサイ」という苦情が寄せられたと言う。
ヒロシの店は狭いながらもライブ演奏をかれこれ10年以上もやっていたらしい。その間には一度も苦情は無かったと言う。ただし、当時より10年程前に、開店のこけら落としで、11人編成の誰かのバンド(名前は忘れた)をやった時に苦情が来たことがあったらしいが、我々の演奏で実に10年ぶりに騒音の苦情が来たと言うのだ。しかも我々はたったの4人編成。
「いやぁ〜ウレシイねぇ。ウルサイって苦情が来ちゃったよぉ。こんな苦情が来るとジャズ屋の店だってーのを実感するねぇ。あ〜うれしいうれしい♪」
と喜んでいた。

<「おーむ」での演奏は実力テスト>
 以降、ジンコクは変則的ではあるが、2ヶ月に1度の割でライブをやっていた。
だが、この店でライブは全く気を抜けなかった。ちょっとでも楽をしようとすると叱責が飛んでくる。まるで刃の上でドラムを叩くかのような、命がけのライブであった。私はこの店でのライブはある意味「実力テスト」的に要素があると思っていた。自分が、または自分たちが、どうやりたいとか、どうやってみたいとかいうことを演奏で表現すると、その結果をヒロシとその仲間たちが、怒号と拍手で採点してくれた。この店で合格点をもらえれば、それはもうどこのステージに立っても合格するというおお墨付きでもあった。

<アフリカ壮行ライブ=新宿ピット・イン>
 この時のライブの模様は、オイラの著書「アフリカ音楽探検記」に詳しく書いてある。が、そのおかげで暫く「新宿ピットイン」へは出られなかった。
私らは正統派ジャズの新宿のピット・インには縁の無いアウトロー集団だったが、副島輝人氏の口利きで、いきなりピット・インの夜の部へデビューした。それは御存知、「アフリカ壮行ライブ」というもので、私がいよいよ憧れのアフリカへドラムセットを携えて、殴りこみに行く前に、日本国内で壮行イベントをやろうというものだった。

 そのためには小岩のヒロシさんの店では狭すぎた。
そこでヒロシは小岩軍団を引き連れて、彼自身も当時のピットインへ「殴り込み?」に来た、来てくれたのであった。そこでも惨状はここでは述べまい。これも「アフノカ音楽探検記」に詳しい。いずれにせよ、私もヒロシさんもおーむ軍団も、へろへろに倒れるほど討ち死にしたのであった・・・。

<アフリカのドラム旅から帰国>
 そして数ヵ月後、私はアフリカでキリマンジャロ山頂でドラムを叩くために高山病と戦ったり、ザイールではでウイルス性の赤痢と戦ったりして、帰国した。この時点で私はそれまでの「のなか悟空」とは、一線を画すドラマーに生まれ変わったと自分にも思えた。アフリカの大地に自分のドラムを据えて、行く先々で演奏して歩いた事は、私のドラム人生の血となり肉となった。

 帰国後の最初のおーむのライブでの時だ。
「のなかチャン、アフリカはどうだった?」
ヒロシさんがオイラに尋ねた。
「良かったよ」
オイラはそれだけしか答えなかった。あとは演奏で全て答えてやる。そんな気持ちがあった。

演奏の後、ヒロシさんが言った。
「のなかチャン、良かったねぇ。さっきのなかチャンが言った『良かったよ』の中に、アフリカの旅が全て集約されているとオレは見ていたんだよ」
ヒロシさんはアフリカドラム旅の成果を我が事のように喜んでくれた。私も恩返しできたようで嬉しかった。

<のなかチャンは考えたらダメだょ>
 以降、相変わらずがんがんライブ活動をやっては居たが、私にもスランプ(まるでスポーツのようだが)はあった。そんな時にも「実力テスト」的なおーむでのライブはやっていた。スランプの時はオイラにりに考え、も思考を巡らし、逡巡していたが、出ている音はイマイチだったらしい。そこでヒロシさんは言った。
「のなかチャンは考えたらダメなんだよ」
さもあらん。私のドラムは感性に任せて、ブッ叩いている瞬間が一番本領を発揮できるのかも知れない。

<中南米・アマゾン帰国ライブ>
 これは確か平成4年の春ころだ。調べれば分かるが面倒だ。
平成3年の年にオイラはまたまたドラムセットをリヤカーに乗っけて、中南米10ヶ国をドラム武者修行をした。このことはオイラの「アマゾン音楽探検記」に詳しいので、ここでは省略する。
 この旅の帰国ライブは流行の湾岸の有名な所でやった。後で客に聞くと音のバランスがメチャメチャで「ワーン」と唸り声のような音しか聞こえなかったらしいが、それはそれでいい。どーせワシらの音は録れないんじゃ。
 この時はトタン板を使って振り回した。ところが素手でトタン板を持ったもんだから、手の平をスッパリ切ってしまって、手の平が血だらけになってしまった。痛いの、痛くないのって。たまたまこっちを振り向いたギターのハル宮沢にみせたら、彼は意外な出来事に驚いていた。「ヒョウタンから駒」ならぬ、「手の平から血」だったので、予想外だったのだろう。

<訃報の電話>
 それから何ヶ月か経ったころだ。昼間におーむ軍団のアサちゃんから電話があった。
突然の訃報だった。彼女は電話口で泣いていた。そんな事があるものか・・・ヒロシさんはまだ40半ば前ではないか。突然の事で自分の耳を疑った。全身の力が抜けて涙がほとばしり出た。私はここで自分の音楽をサポートしてくれる最大の支持者を失った。ガックリだ・・・。暫く放心状態だった。

<血染めのすスティックと形見別けのダンベル>
 ヒロシさんの葬儀には多くのミュージシャンが集っていた。
もちろんジンコクのメンバーも行った。私はヒロシさんの棺の前に、ライブの折りにトタン板で切って出血した手で握った「血染めのスティック」を捧げた。
「ワシはこれからも血染めでドラムを叩くぞい。ヒロシさん、見ててくれよな」
そんな気持ちだった。

 おーむ軍団からの私が貰った形見別けは、ヒロシさんの使っていたダンベルだ。どうやら軍団はこのダンベルが私に一番相ふさわしいと選んでくれたのである。それともうひとつは長袖のヨコシマ模様のポロシャツだ(ま、私がヨコシマな人間だということでは無いと思うが)。

 元気が無くなった時や、落ち込んだ時は、たまにこのヨコシマな、否、ヨコシマのポロシャツを着用する時もある。そんな時、ヒロシさんに励まされてるようで元気が出る。
「のなかチャンは考えたらダメだよ」
考えない(果たしてホメられてるんだろうか?)ドラムをガンガン叩かなきゃあ!

ヒロシさん、いつまでも忘れませんぜ・・・合掌!



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