ちょっとホロリな話/のなか悟空/2013-05-08たち上げ


5761.ちょっとホロリな話/その1/ナイロビ 返信 引用

名前:のなか悟空 日付:5月8日(水) 12時54分

 以下の話はたぶん自分のHPのどこかに書いてあると思うが、どこに書いたか忘れたので新たに書く。

■高みから低みに
 ナイロビの安宿で過ごしていたある日、アジアら流れてきた古物を売っている露天で上衣を買ったので、それまで着ていたもっと古い古着の処分しょうと思った。

 そこでふと窓の下を見たら、ボロをまとった大・中・小の男児たち。年の頃は12・10・8歳くらいの3人。自分の着ていたトレーナーは少し大きいとは思ったが、彼らの着ているものよりはだいぶマシではある。そこで大の子にあげようと、上から声をかけててあげるよとの声をかけた。むろん彼らにとっては大歓迎。

 トレーナーを受け取った大は、さっそく自分の着ていたボロを脱いで私の古着に袖を通した。で、それまで着ていたボロは捨てるのかな?と思いきや、それを中の子にあげた。中の子は大の子から貰ったボロ着て、今ままで着ていたボロを捨てるのかと思いきや、それを小に与えたのだ。小の子は嬉々としてそれまで着ていたボロを脱ぎ捨て、中の子から貰ったボロを着たのである。

 私はこの光景に唖然とすると同時に感動を覚えた。それはこんにち日本国内で空虚に叫ばれている「資源と環境の保護」。我々はエチケットやマナーに外れない程度に適当に相槌を打ってはいるが、殆ど実践をしていないのが実情。それがここナイロビの路地裏の子供たちは衣・食・住の衣を、身を以てやらざるを得な状況に置かれているのである。それはとりもなおさず、半世紀前の自分自身の姿を彷彿とさせた。

■半世紀前の自分
 7人兄弟の末。それが私。
6人もの兄や姉、そしていとこ達の古着で育ったのが、半世紀前の自分だった。その習慣から今だに衣類を捨てるのをヨシとしない私は、穴があいても着るし、ボロになっても着る。それは愛着があると同時に、体に馴染んでしまっているから、衣類が体の一部のようになってしまって着やすいから。ま、なんのことはない。ただのケチなだけなんだけれども。




5763.ちょっとホロリな話/その2/横浜鶴見 返信 引用

名前:のなか悟空 日付:5月9日(木) 10時33分

 これもHPのどこかに書いたかもしれないが、どこに書いたか失念したのでもぅいっちょ。

■鶴見駅前のイベントで
 もぅ30年近くも前の話。
とあるジャズのサックスの先輩からの依頼で、横浜の鶴見駅前のイベントで「人間国宝」が演奏することになった。当時のメンバーは不破・近藤だったか、山内・永田だったかは忘れた。ドラムは俺。

 昼日中、しかも鶴見駅前だなんていうメジャーな場所にステージのやぐらまで組んでもらって、なんだか裏稼業の人間国宝としては勿体無いほどのステージだったが、ワシらの演奏は昼間の一般大衆に迎合することなく、ぶっ飛ばしのぶっ叩き演奏を披露したwww。

 ふふ、これでまた仕事減らしたんだろうし、紹介してくれた先輩サックス奏者の顔を潰したかも知れぬが、それはそれで仕方ない。精一杯演奏するのがワシらの使命なのである。


なんだよぅ!ションベンまでチビってよぅ・・・
 ワシらが演奏を終えると、ステージの下で待っていてくれた車椅子の兄さんがいた。どうやらその動きから筋ジストロフィーを患っていると見て取れた。

 彼は不自然に手を差し出しながら、不自由な発音でワシに喋りかけた。
「と、とっても・・・よがっだでぇすぅ・・・」
ワシは彼の手を握ってお礼を言いつつ、ふと彼の股間をみたら、つい先ほど失禁したであろう跡が残っている。
「お、おいおい、ションベンもらしてんのぉー、小便くらいトイレに行ってくりゃいいのにぃ・・・」
「だ、だってぇ。演奏がよがったがらぁ、いげながったんですぅ」

 俺は思わず涙がこぼれた。
100万の味方を得たと思ったよ。ワシらのお馬鹿な暴走演奏は、こういった人たちに支えられているんだ。改めて彼の手を力強く握り返し、彼を抱擁した。
ありがとう・・・。



★マニラ/足が不自由な路上生活の少女/写真・のなか悟空



5794.ちよっとホロリな話/その3/福祉施設 返信 引用

名前:のなか悟空 日付:6月5日(水) 10時20分

■赤とんぼに涙する
 30数年前の話だ。知ってる人に誘われてボランティアの真似事をした時期があった。車椅子を押したり、福祉施設を訪れて善人の振りをしていた。

 もちろん当時の仕事は今と変わらずドラマー。相変わらずビンボーだったけどね。ジャズは高尚なものでテクニックを極めた者たちだけが演奏するものだとばかり、日々の練習には余念が無かったころだ。したがって歌謡曲やポップスは眼中になかった。

 そんなおり、たまたま車椅子を押して訪れたのが埼玉のとある福祉施設。そこでたまたま耳にしたのが、「赤とんぼ」----福祉施設の隅でオンボロのオルガンの前で、不自由な四肢を不器用に動かしながら、且つ、ままならない自らの1-2本の指で、「♪夕焼け 小焼ぇの~♪」とやっていたのだ。

 がーーん!!
ワシは後頭部を殴られたような衝撃を受けて、滂沱と涙を流した。この人の前では、いかにテクニックのあるジャズマンが超人的な技巧を駆使したとしても、単なるエクササイズにか聞こえまい。

 そうだったのか・・・
練習練習とテクニックだけを追求していた俺が間違っていた。大事な大事な何かを置き忘れた演奏が一体なんになるんだ!そう自らを大反省した。

 以降、ワシはテクニックや理論の追及を第一とせず、魂に響く演奏ができるようになればなぁと想い続けてきた。

★写真は以前も出したことがある。マニラのカリエド駅前。気温40度ほどだろう。アンモニア臭のの漂う雑踏に日かせな1日座っておもちゃの楽器を吹くオヤジ。誰かこのオヤジ以上に、心に響く演奏が出来るヤツいるだろうか?



5797.今だから言える話/元祖・人間国宝を天国で聴いた人 返信 引用

名前:のなか悟空 日付:6月7日(金) 9時31分
★今だから言える話/元祖・人間国宝を天国で聴いた人 
 御存知、ワシらのライブは客が少ない。ザマーミロって言うくらい少ない。だが去る4/25の「元祖・人間国宝」のピットインでは、不破くんが渋さでチラシを撒いてくれたおかげで、満席にすることができた。

 さて、そのピットイン・ライブを心待ちにしていた関東北部G県のとある女性がいた。その人は10年近く前から、遠方ゆえに1ステージだけ聴いて帰るというスタイルで時々人間国宝のライブに顔を出してくれていた。

 記憶にあるところでは3年くらい前の吉祥寺。ある病に侵されているとは言いながら、外見的には全くその兆候は見られなかった。
「いやぁ、今日のファッションはそこいらのギャルみたいですねぇ。後ろから見るとまだ20台に見えますよぅ」−−−と軽口を叩いて褒めてあげたものだ。
 その次が横浜の「エアジン」。
遠方だから1ステージだけ聴いて帰って行った。
 その次が去年の秋のころの新宿ピットイン。人間国宝に吉田隆一がゲストの時だ。
病気が進行したのか、彼女は杖をついて来てくれていた。この時も遠方ゆえに1ステージだけのお客さんだった。
「送って行ってあげられるといいんだけどね。俺もライブが終わったらフラフラだから、送れなくてすみません」と後姿を見送った。

 その後、病状を尋ねたり、近況を報告したりをメールでやっていたのだが、去年は杖が1本だけだったのが、今年の春の頃には杖を2本つかねば歩けないほどになってしまっているとの話だった。それでもフェイスプックを始めて近況を知らせていたから、少なからず病状は小康状態だろうと安心はしていた。

 「今度の4/25のピットインは、這ってでも聴きに行きたいです。それまで頑張ります」とのこと。私の方も25年ぶりの「元祖・人間国宝」では25年の全てをぶつけて大噴火するつもりでいたから、是非とも来て欲しかった。もしも、もしも、杖が2本以上必要な時には、3人もいるという息子さんの肩を借りてでも来てくれると思っていた。

 が−−−4/25の数日前、電話が鳴った。
「G県のYですが・・・」と中年男性の声。
私はその声だけで、全てを悟った。その先は聞きたくなかった。
「妻は・・・(嗚咽)。楽しみにしていたのですが…(嗚咽)」。
もしや・・・との思いがあったが、敢えてこちらからは連絡を入れなかった。だって先週はフェイス・ブックを更新していたんだから。まだきっと元気なんだ。きっと病院から抜け出せないのだ、と自分には言い聞かせていたのだ。

 ワシらのライブは客が少ない。
けどな、こんな人たちに支えられているんだよ。命がけで音を出しているから、聴きに来る人も命と引き換えなんだよ。
 Yさんのフェイスブックは、4月からの更新は無い。ずっと4/25の1週間前のままだ。彼女の命が、4/25を目標に支えられて生きていたのなら、私の心も4/25の前の気持ちを維持し続けて、これからも演奏をするのだ。

 



5810.ちょっとホロリな話/その4 返信 引用

名前:のなか悟空 日付:6月11日(火) 22時24分

■ろうあ者のサッカー応援
 最近はサッカーの応援にも、ろうあ者のグループがいて、「手話応援」というのをやっているそうだ。

「だって選手にゃ聞こえねぇだろうし、選手は見ないだろうよwww」
と言ってしまってはオシマイ。ろうあ者はその場で他の応援者たちと一丸となって、自分たちにできる形の応援をしながら、間接的に競技に参加しているのである。


■会津若松でろうあ者の客が
 これは以前書いたが、どこに書いたか失念したのでまた書く。
昔、30年ほど前、元祖人間国宝で、不破・川下と3人で会津若松にライブに行った。例によってめちゃくちゃでガンガンなぶっ飛ばし演奏をした。

 演奏終了後にマスターが招待していたという、ろうあ者のグループを紹介された。彼らが言うには、「とってもよかったですぅ~」とのこと。

 そこでオイラは無神経に言った。
「だってマスター、彼等にゃ聞こえんでしょう?」。
ところがどっこい。違うらしい。
 彼らは演奏の場、空気、そして爆音が伝える空気の振動と、地面からの振動、それとワシらの必死の形相。それで音楽が「聞こえた」、「鑑賞できた」。そして「感激した」というのである。

 なるほど。
それは言えるわな。なにも音楽は耳だけで聞く必要はない。足から聞いたって、ほっぺで聞いたって、目玉で聞いたっていいのだ。ある意味、耳が聞こえるって、不自由なものなんだね。

 そんな彼らの前には、瑣末な音楽理論もなにも不要。要はやる気、伝えようとするハートが、大事なのだ。音楽はかく有るべし。「目からウロコ」の音楽の聴き方である。

★写真は近所であったTBSラジオの毒蝮三太夫。好きだ。


5815.ちょっとホロリな話/その5 返信 引用

名前:のなか悟空 日付:6月13日(木) 9時39分
<ウガンダの乞食、盲人、カリンバ奏者>
 首都カンパラの中心街を歩いていたら、道端でプラコップを前に置いて、カリンバを演奏している盲人の親父がいた。人々は彼を無視して彼の脇を足早に通り過ぎる。

 俺だって同じ河原乞食のミュージシャン。
俺が親父に話しかけたら、親父は言った。

「もうかれこれ何十年もカリンバを演奏してるんだよ。アフリカをずっとツアーしてやって来たのさ」
(ツアー?アフリカを?だって親父、目が見えんじゃないか。どう見たって親父は乞食だぜ)
とは内心思ったものの、この道何十年もこうやって、音楽だけで食べている親父に敬意を表して空き缶に金を入れて、写真を撮らせてもらった。

写真に写るのを意識した親父は心なしか胸を張って、ひときわカリンバを大きく演奏した(とはいえ・・・しょせんカリンバはつま先で弾くだけだから、音はちっゃい)。親父はひとしきり弾くと、空き缶の中の札を内ポケットの中にしまった。

 ウガンダには紙幣だけで硬貨が無い。それでも親父は手触りでその金額が分かるのだ。盲人プレヤー恐るべし!
あれから15-16年、あのオヤジはまだ生きてるだろうか…。


2016-11-18

<キャベツの想い出>
 23年前、中南米10ケ国のドラム武者修行を終えての帰途、俺はコスタリカに居た。行きと違って帰りはドラムもリヤカーも売り払ったので気楽ではあった。だが6か月にわたるハードな旅と、人種差別で俺の心はヨレヨレのボロ雑巾のようだった。
 コスタリカの格安木賃宿は1泊が数百円、市場に行って「チーノ(中国人=差別用語)」と声を投げつけられながらキャベツを1個買った。そのキャベツで木賃宿の2畳ほどの部屋で、キャンプセットを使って飯を炊き、ミソ汁を作り、リオで買った梅干しを食べた。そんな侘しい日本食が癒しだった。

 メキシコまでの飛行機待ちで1週間ほど滞在したが、日本語に飢えていた俺は、日本領事館の図書館で本を借りて、舐めるように日本語の文章を読んでいた。

 そんな時の孤独を癒したのが、このキャベツ。みそ汁に入れても美味しくもなんともないが、あの旅の孤独を思い出すために、俺はたまにキャベツのみそ汁を作っている。