思い出の旅/真の師匠は山形のミッキー


思い出の旅/真の師匠は山形のミッキー/1
2009/2月23日

<思い出の旅>
 人は何気ない時に、「ふっ」と過去にタイムスリップする時がある。今朝、台所でインスタント・コーヒーを作ろうとして、コップにコーピの粉と砂糖とクリープを入れ、お湯を注いでる瞬間、あのミッキーとの若き日々がフッと脳裏をかすめた。

(今はよぅ、飲みたい時に暖かいコーヒーを飲めてよぅ、食べたい時に食べたい物を食べられてよぅ、ドラムも叩きたい時に叩けるが、あの頃はなぁ・・・飲みたい時に飲み物は無く、食べたい時に食べ物も無く、叩きたい時にも叩けなかったもんなぁ・・・)

 1にドラム、2もドラム、3・4もドラムで5もドラム。
そんな若き日々があって、『継続は無駄』だという結果を知った現在がある。あの頃、こんな風になっちまう、という現在が分かっていたなら、オイラは果たしてあれほどドラムに精進していただろうか?

 ま、ここいらが人生の面白いところで、最終結果はどーせ死ぬんだが、それを言っちゃあオシマイだから、その死ぬまでに何をやるか、ってことが人生の醍醐味であるワケだ。


<老人の話---「そうかなぁ」>
 先週見たジャッキー・チェンのDVDの中に、中国の古老の話が出ていた。内容は殆ど忘れたが、以下のよう。

 ある村の若者が、運良く馬を貰った(それとも当選した)。若者は喜んでその幸運を古老に話した。
古老曰く、『そうかなぁ・・・』
 その若者がその馬から落馬した。その不運を古老に話した。
古老曰く、『そうかなぁ・・・』
 戦争が始まって若者たちは徴兵されたが、馬から落ちた若者は兵役を逃れ、その幸運を古老に話した。
古老曰く、『そうかなぁ・・・』
 若者たちは戦争で武功を収めたが、戦争に行かなかった若者にはソレが無いので、その不運を若者は嘆いた。
古老曰く、『そうかなぁ・・・』

 ま、その古老というのが、別に道端の石っころでも木片でもいいのだが、要するに人生はなるようになるべ。ケセラセラ先のことなど、だーれにもワカリマセン、ということなのである。


<真の師匠はミッキーなのだ>
・・・というワケで、ワシは若き日々のミッキーとの思い出の旅に出るのじゃあ。
つづく





思い出の旅/真の師匠は山形のミッキー/2
2009/2月24日

<ジャズ喫茶でバイト>
 JR蒲田駅の何口かは知らんが、川崎から自転車を漕いで近い方の駅前に名前も確かではないが、『デルブ?』とかいった名のジャズ喫茶があった。
 当時のジャズ喫茶は会話も出来ないくらいにガンガンにジャズのレコードをかけて、ジャズを聴かせる趣向で、客の側も1杯のコーヒーで2時間も3時間も粘るのが、ジャズの通だと言われていたものだ。

 そこでオイラは店の前に張られている「アルバイト募集」の広告を見てバイトを始めることになった。時給は忘れたが、たしか140円か170円くらい。それでもジャズのレコードは死ぬほど聴けるし、1食付いていたのが何よりも魅力だった。
 当時の同僚に長野県出身のナントカ喜八郎という青年がいたが、大分県出身のオイラとしては、長野県なんてのは、まぁなんとも遠い県に感じた。その古臭い名前の喜八郎クンは、当時としては珍しい金髪だった。他にも2人いたが名前は忘れた。


<出会い>
そんな頃、出合ったのが常連客だった痩せぎすの青年。派手な青年で、赤と緑の横縞模様のTシャツに襟首と裾の周りは黒だった(のちのちオイラはこのシャツを貰って長年愛用した)。髪型はコケシ頭のようで、愛嬌に前歯が少し出ていた。その印象がミッキー・マウスに似ていたことから、『じゃあ、キミの名をミッキーと呼ぼう』と、オイラは勝手に命名してしまった。

 ミッキーの話によると、彼はドラムを叩いているらしい。で、オイラは年下の少年をあやすような口ぶりで聞いた。
『じゃあキミ、2つ打ち出来る?』-----この2つ打ちというのは、ドラムの基礎の基礎で、且つ厳密には最も難しい技なのである。それをオイラは音楽学校に通いながら、担当教授から厳しい指導を受けている最中だったのだ。
『ああ、出来るよ』
ミッキー青年は自分の膝の上で事も無くそれをやってのけた。驚いたのはオイラだ。
『じゃあ右手でレガートを刻みながら、左手で勝手に入れるのは?』
恐れながらミッキーくん、いともカンタンに左手で自由に音符を入れている。このころ音楽学校と平行してドラム教室に通いながら、今そのテクニックの習得中の真っ只中にいるオイラが、驚いたのは言うまでも無い。
『ミ、ミッキー、いやミッキー先生!教えてくれぇ!』
オイラはそのミッキー先生に取りすがって頭を下げた。

つづく




思い出の旅/真の師匠は山形のミッキー/3
2009/2/25

初めてのプロバンド
 ミッキーと急速に親しくなったオイラは、彼が既にキャバレーのメインバンドで叩いていると知った時は驚いた。当時はキャバレーやクラブでの演奏がバンドマンの職場だったのだが、それはそれは音楽職人の腕の見せどころだったのである。

 通常のキャバレーには編成が7‐8人から十数人の「メインバンド」があり、毎夜開催される歌手やダンサーのショータイムでのバック演奏を勤めていた。片やそのメインバンドの休憩時間をもうひとつのバンド、「チェンジバンド」というのがあり、それがコンボ編成のジャズをやっていたり、ラスコとある種の侮蔑を込めて呼ばれていた「コーラスバンド」があった。メインバンドやコンボバンドをやるバンドマンには、そこそこの経験とテクニックがあったが、ラスコバンドはテクニックよりも歌とルックスを売りにしていたからである。

『俺さぁ、高校ん時から山形のキャバレーに出入りしていてよぅ、そこのメインバンドのドラムの人からいろいろ教わったんたよ。でよ、高校ん時からバンドで叩かしてもらってたからさぁ』
『へぇ〜、すっげぇ〜!』
ガリガリのはずのミッキーが、この時は一回り大きく見えた。
『まずはよぅ、ラスコバンドで修行すんだな。俺が紹介してやっからよぅ』

 −−−−−というわけで、ミッキーが叩いているキャバレーのビルのにある別の階のクラブでのラスコバンドを紹介してもらった−−−まだ音楽学校でドラムを習っている最中で、プロのバンドマンの経験は全く無い−−−という触れ込みでの紹介だった。


ミッキーは若きドラム聖人
 ラスコバンドは主として歌謡コーラスが多い。合間にラテンのマンボやルンバをやって客とホステスを踊らせたりもする。むろん何でもかんでも初めてのオイラは、ラテンのリズムは教則本やレコードでは知っていたが、本番叩きはとんとダメ。これもミッキーから教わり、ミッキーがステージで叩いている叩き方を、ステージの脇やミッキーの脇に客から見えないように座って学んだ。その時のミッキーは本当にオイラにとっては雲の上の人、若きドラム聖人、憧れのドラマーだったのである。
 当時、22歳の若輩で、キャバレーのメインバンドを叩いているドラマーは、「東京で石を投げればバンドマンとカメラマンに当たる」と言われて時代とはいえ、じっさいその数は少なかったことだろう。


プロのバンドで大目玉!
 で、だ−−−。いよいよオイラもラスコに少し慣れて1週間もした頃か?ラテンの曲で「ピアノロ」という曲がある。その曲がどういうわけか途中で6拍のドラムのソロがある。4拍ならやりやすいのだが、6拍ってのはどうも中途半端でイカン。

 ならば−−−と、オイラが考えたのは、6拍のソロが与えられたのなら、その拍の中でどう叩こうがドラマーの自由−−そう解釈した。なんせ上京して初めて聴いたバンドが沖至トリオ(沖至/高木元輝/ジョー水木or豊住芳三郎)で、2番目に聞いたバンドが山下洋輔3だったから、知識と能書きだけはいっちょ前だったのである。

 それでやったのが「ぐぃぃぃぃ〜ん」と、スネアの皮の上にバチを立て、それをもう1本のバチでスリスリスリスしちまったのである。
(こりゃナウイじゃん、フリージャズっぽいぜ)と自己満足した途端----
『こらっ!』
と、バンマスに叱責されちまったい。それもそのはず、フロアーでラテンを踊っていた客とホステスがバンドの方を向いて呆れている。もちろん踊りの足は止まっていた。

 後でミッキーにこの話をしたら大苦笑。
『だからょ、6拍ってのはこうやるのよ。音楽ってさぁ、その音楽が流れてるワケだからその流れを断ち切っちゃあイカンのょ』
ナルホド・・・ミッキーは口でフレーズを言いながら、6拍を幾通りでも叩くことが出来たのであった。

つづく



思い出の旅/真の師匠は山形のミッキー/4
3月1日(日)

<コーラス・バンドを首になって・・・>
 ミッキーに紹介してもらった鎌田のクラブでのコーラス・バンドは、契約が終わって別の店に変わった。ふつうならバンドのメンバー全員が次の店に行くのだが、当時のオイラはあまりに初心者だからという理由で、その月の末でお払い箱に。プロになったと喜んでいたのも束の間。たったの半月のプロドラマーで終わった。

 それに懲りてオイラはますます練習に励んだ。
片やミッキーは相変わらずそのビルにあるキャバレーで、バリバリにメインバンドでドラマーを努め、毎晩のショータイムもそつなくこなしていた。
 オイラはといえば、いつもミッキーの脇に座ってドラムを見ているのは店からのクレームもある。客の少ない1スタージ目だけは隣に座って勉強させてもらったが、後のステージは舞台の袖の陰からミッキーのドラムを羨望の眼で見つめていた。


<ミッキーに紹介してもらったタンゴバンド>
 そういう日が何日か続いたある日、コーラスバンドの入っていた同ビルのクラブにタンゴバンドが入っていたのだが、ドラムの欠員があった。そこでミッキーの紹介により、欠員補充というカタチで、オイラが臨時雇いになった。

 『タンゴのリズムなんてチョロイよ』と、ナメていたオイラだが、なかなか持って教則本のタンゴリズムは簡単なのだが、実際の合奏となるとその単純さゆえのノリの難しさはあった。しかもリーダーの爺さんはバリバリのアコーディオン弾きでタンゴ畑出身。それにクラリネットはバリバリの国立音大卒の学士様。たしか天地真理と音楽高校が一緒だったとか。そこで毎晩毎晩、毎ステージ毎ステージごとに、うだうだと小言を言われながらも勉強させてもらった。
 それでもイヤじゃあなかった。だってメシよりも好きなドラムを叩いてカネを貰えるなんて、オイラは夢の世界にいるような楽しい日々だった。

 そのタンゴバンドは1ヶ月ほどで鎌田のクラブを終え、次は銀座のクラブへ行くと言う。嬉しいことに初心者のオイラも連れて行ってくれるとの事。晴れてオイラも、歌謡曲の歌詞にも出てくる、あの銀座で初めてドラムを叩けるのである。

 その銀座で3ヶ月だったか6ヶ月だったか、小じんまりとしたバンドの控え室にあるテレビでは、和田あきことデストロイヤーがお笑い番組をやっていたから、もう既に30年ほども前のことになる。


<当時のミッキーは>
 彼は飽きてしまったのか鎌田のメインバンドを辞め(バンドマンの常として、ひとつのバンドに長くとどまらず、あちこちのバンドで修行を積むのが若い者たちの慣わしだった)、拾いのバンド(各地での専属バンドが休みの日に、そこへ入って演奏したり、歌手のバックバンドとして地方へツアーへ同行する仕事=経験と能力が無ければ勤まらないレベルもギャラも高い仕事)を始めていた。

 たまにミッキーに会ってドラム談義に花を咲かす時、
『いやぁ、この前、由紀さおりの伴奏でよぅ、ドラムさんもうチョット軽く叩いてくださぁい、なって言われちゃってよぅ』
など言う。由紀さおりといえばオイラもファンの一人。そんな憧れの歌手の伴奏を勤めるなんて、やっぱミッキーってスゴイ!オイラの勤めているタンゴバンドとはレベルの違う話を聞いたりした。

(きっといつかはオイラもミッキーのようになるぞぅ!)
そう心に誓いながら練習に練習を重ねていたが、まだまだ道のりは遠かった。

つづく・・・。



2531.思い出の旅/真の師匠は山形のミッキー/5

名前:のなか悟空 日付:3月4日(水) 19時25分

<実は富樫雅彦の弟子>
俺とミッキーは一心同体のようにいつも一緒に居た。
話といえばバンドとドラムの話だけで、女の話などは一度も出たことはなかった。主としてミッキーがバンドやドラムの全ての細かいことを教えてくれた。俺には難しかった教則本のリズムパターンだって、ミッキーは難なくこなせたからそれには尊敬の念を抱いて教わった。

 当時、彼は不定期で故・富樫雅彦氏について習っていたらしく、子とあるごとに富樫氏の教えてくれた内容について話してくれ、教えてくれた。今もそうだが、当時の富樫雅彦といえば雲の上の人。そんな人に師事しているミッキー(柴崎クン)ってほんとに志ニ(しじ=本名)だね。
 今でも印象に残る富樫氏が教えてくれたというブラシ・ワークでの4ビートの方法。これは画期的で○秘だ。


<冷蔵庫がクーラーの3畳アパート>
 ミッキーは池袋のサンシャインの近くの3畳のアパートに住んでいた。といっても当時はサンシャインを建設中で、高さは5‐6階建てくらいだったろうか?『今建ててるビルは随分高いんだってよ』とミッキーが言っていたが、サンシャインビルなどといって完成したのはその何年も後のことだった。

 当時、オイラもミッキーも滅多に風呂に入らなかった。オイラは付きに1回のペースだったが、ミッキーだって同じくらいだったろう。なんせ風呂屋に行く時間が勿体無いのと、カネが勿体無かった。そんな暇とカネがあったら、とにかくバチを握って練習をしていたのだ。

 そんな不精なミッキー住む3畳間は、小さな流しがあるだけで汚い布団を敷きっ放し。家具は拾ってきたか貰ってきたかの大きな冷蔵庫と、同じく拾ってきたような洋服ダンスがあった。

 布団は布団でもカーペットを兼ねた敷物同然で、当然ぺっちゃんこ。枕は頭の油でツルッツル、抜けた長い髪の毛がぺっちゃんこの枕にいくつも絡まっていた。冷蔵庫はあるが中に何かが入っているという訳ではなく、夏の熱い時期にドアを開けてとクーラー代わり使っていた。
 極めつけは流し。30センチ物差しで計れるほどのちっちゃな流しで、ミッキーはこれを料理や洗面に使うのではなく、もっぱら小用のための便器として使っていたようだ。現にオイラもミッキーの留守の時に泊まったが、共同トイレに行くのが面倒で、小用に使わせてもらったことが何度もあった。


<着たきりスズメ>
 ミッキーの拾ってきたか貰ってきたかの洋服ダンスの中には、ネクタイが1‐2本と着古したブレザーが1着だけ。1本だけであろうGパンを着替えたのを見たことは無い。これは無論オイラだって同じ。ミッキーとオイラの違いは、オイラがパンツなどの下着をたまに洗濯するのに比べ、ミッキーはパンツをはくだけ履いて着捨てにしていたらしいことである。ま、当時の若さにしてはバンドでいいギャラを稼いでいたから、これくらいの贅沢は出来て当たり前だった。


<ドロボー騒ぎ>
 こんな「男おいどん(当時のマンガ)」の住むような3畳間のアパートでも、ドロボーが入ったことがあるらしい。おなじ3畳間に住む住人たちが、何かしらを盗まれていると騒いでいた時、ミッキーがアパートに帰ってくると、『何か盗まれたものは無いか』とみんなに聞かれたらしい。

 どっこい、ミッキーの3畳間のカギはいつも掛けてない。金目の物が全く無いのでカギを掛ける必要が無いのだ。それこそドロボーさんが入ったところで取っていく物といえば、それこそ「独り相撲」くらいしかあるまい。せいぜいツバでも吐いて行くか、ちっちやな流し台で小便をするくらいしか無かったろう。

ま、何だかやと思い出すままに綴ってみたが、ワシらも若かった時分はお互いに日本一のドラマーを夢見て、日々メシよりも夢を喰らい、風呂で身体を磨くより、ドラムのテクニックを磨くことに明け暮れていたのであった。
 




2542.思い出の旅/真の師匠は山形のミッキー/6 返信 引用

名前:のなか悟空 日付:2009/3月15日(日) 19時34分

<出会ってから3〜4年後に>
 山形の尾花沢市近くの出身のミッキーを、月謝を払わないで済む師と仰ぎ、朝に夕にドラムを教わりドラム談義で青春の日々を過ごしていた。そんな頃、オイラは1年間だけ自衛隊の音楽隊に入って、特別国家公務員として勤めたが、その融通の利かない音楽性に疑問と矛盾を感じて除隊。再び巷のドラマーとなった。そしてまたミッキーとの親交の日々が始まったのである。それは蒲田のジャズ喫茶で、初めて出会ってから3〜4年ほど。オイラもなんとかプロのバンドで叩ける程度の腕前になっていた。


<ミッキー先生のトラを>
 そんな頃、ミッキーの入っていた拾いのバンド(歌手の伴奏やキャバレーなどのピンチヒッターのバンド=何でも並以上にそつなくこなせる腕前が必要)のドラムのトラ(エキストラのこと=バンド用語では代役の意味)をミッキーから頼まれた。ハッキリした記憶は無いが、彼が病気だったか、ダブルブッキングだったかは定かではない。

 そのバンドはゲーハ(ハゲ)のバンマスに、ゲーハでツラカ(カツラ)を被ったサックス奏者、そしてギターの編成ながら腕前が良かったので、どこでも引く手あまたのバンドだった。その時はビータ(旅=地方公演)で秋田に2週間ほど行くというのだが、そこにオイラが入ってちゃんと叩けんの?

 だが、いいも悪いもミッキー本人がビータに行けないため、気心の知れたオイラを紹介したわけだ。だが、バンドなんてーのは、いくら気心が知れていてもテクニックや経験で他のメンバーに遜色が有り過ぎても困る。そこはミッキーが他のメンバーに頼み込んで、オイラを代理で行かせたというわけなのだ。


<勉強になりマシタ>
 たったの2週間の秋田のビータだったが、オイラには相当に勉強になった。生まれて初めて東北地方に旅できたこと。生まれて初めて東北弁(ずうずう弁)を聞いたこと。「秋田美人」の産地には、たった1人しか秋田美人を見かけなかったこと。
 
 バンドでは−−−
バンマスがカウントを出して曲に入るテンポが、ワシだけ微妙に違う!こりゃエライこっちゃが、大変なことだ。そこいらの初歩の初歩からバンマスに注意された−−−であるから、後は推して知るべし。勉強になったのである。


<秋田美人の思い出@>
 そのバンドの旅先は秋田市内のマンモス・キャバレーで、一流の歌手が出演していたから知ってる人は知ってるだろうが、30年以上も昔の話なので時効ということでカンベン願おう。

 さて、バンドの控え室とホステスさんたちの控え室は近かったのか、話をする機会は何度かあった。が−−−その秋田弁っちゅーか、ずうずう弁っちゅーのが、まーったく理解できなかった。それでも美人・不美人は言葉の壁を越えて分かる。特にバニー・ガールで超美人を見かけたが、言葉が2割ほどしか理解できない。お互いに友達になりたくて文通をすることになった。

 帰京した後も何度か文通をした。手紙では内容はよーく分かる。が、電話が掛かってくると会話は成り立たなかった。笑い声意外は、何を言ってるのか皆目分からないのだ。東京へ来たいとの意志は言葉の感じで理解できたが、あとはサッパリ。よって電話は2‐3度、文通も3‐4回でオシマイ。残念〜!今思えば、編みタイツのバニー・ガールのスタイルが良く、顔は秋野揚子を若くしてもっと優しい風にした子だった・・・それでも当時のオイラにとって、ドラムの魅力に比べれば異性なんぞはゴミほどの価値でしかった。残念!
 




2579.思い出の旅/真の師匠は山形のミッキー/7 返信 引用

名前:のなか悟空 日付:2009-3月28日(土) 16時29分

<禁断の味?>

 実際、ミッキーがオイラにドラムのアドバイスを続けてくれたのは22歳から25歳くらいまでの3年間。この時期に並行して芸大の先生に3年ほど習い、もうひとつ並行してヤマハのドラムスクールなんぞにも通っていたから、オイラとしては最も海綿のように技術を吸収する時期だったのだろうから、ミッキーから教わった成果は限りなく大きかった。しかも月謝はゼロだったのだから。

 さて、前回の『真の師匠は山形のミッキー/6』で、ミッキーのトラ(エキストラ=代理)で秋田にビータ(旅)行った時、偶然だか違った意味でのバンドマン生活に大きな回心があったのである。それは・・・今だから言える『禁断の味?』だったのである。

 ミュージシャンたるもの、ジンセイの酸いも甘いも噛み分けらるようになって、初めて音に深みが出ると言われている。それがまずオンナという洗礼であった−−−それまでのオイラは、1にドラム、2にドラム、3,4もドラムで5もドラムというようなドラム人生一辺倒の生活だったが、山形でオイラはチョットだけ変わった。その理由とは・・・。


<年上の女(ヒト)>
 むかしむかし森進一の曲にあった、年上の女−−−−実は秋田のバンドの旅先のキャバレーには寮があった。その寮で朝夕の洗顔や洗濯時に挨拶を交わす仲になった子持ちの人がいた。年齢は当時のオイラよりは1‐2歳上だったから、26-27歳の人だった。とりあえず独身らしく、子連れで寮に住んでいた。

 気が合ったのか虫が合ったのかは知らんが、秋田市の城址公園へ子連れで散歩したり、子連れで飯屋に行ったりしているうちに、オイラはある夜、バンドの部屋を抜け出して彼女の部屋へ忍んで来るよう誘われ、二人は大人のカンケーに、なるべくしてなるようになってしまった。

 現在では、このバンドの旅が、ミッキーが与えてくれた『ドラムの最終章のレッスン』だと、手前味噌に解釈している。あの旅でオイラも男女の仲の機微が理解できるようになり、演奏するドラムにも深〜い味わいが、お蔭様で出せるようになったのである。詳細を語れば抱腹絶倒の物語ではあるが、掲示板という役目柄、放送コードぎりぎりの単語が多過ぎて語れないのが残念ではある。



2580.思い出の旅/真の師匠は山形のミッキー/8 返信 引用

名前:のなか悟空 日付:3月28日(土) 18時31分

<それぞれの道へ・・・>
 秋田の旅以来、ひとまずそこそこのバンドのドラマーが勤まるという自信を得たオイラは、積極的に自分でいろいろな編成のバンドを渡り歩き、さまざまな経験を積み上げていった。

 その頃でもミッキーとは連絡を取り合ってはいたが、オイラは埼玉の朝霞市、ミツキーは相変わらず池袋の3畳住まい。お互いにバンドマンをやっていたということもあって、会う回数が自然と少なくなってきていた。それでも電話はしょっちゅうしていて、長すぎる朝まで生(ナマ)電話で、お互いの眠気を覚ますために掛け声を掛け合いながらもドラム談義を続けていた。

長話に疲れてオイラがコックリ、コックリを始めると
『おい、おーい!のなかぁ〜!起きろよ、眠るんじゃねぇ!』
長話に疲れてオイラがコックリ、コックリを始めると
『おい、おーい!ミッキ〜!起きろよ、眠るんじゃねぇ!』
こうして朝まで喋り続けたこともしょっちゅうだった。


<それからさらに・・・>
 オイラが新潟にバンドで旅の仕事に行ったのが26歳。そこでまたまた人生の酸いも甘いも噛み分けたドラムを叩けるように、というか、珍しく彼女なるものをこしらえて帰って来てからというもの・・・ワシらの間はついつい疎遠になっていってしまったのである。

 あれからオイラはバンドマンの仕事以外に、荻窪の『グッドマン』を手始めにライブを始め、またアルバイトでガードマンや運転手や諸事諸々のバイトを始めて時間に追われる人生を疾駆してきた。もうすっかりミッキーの事を忘れてしまっていたのだが、ホームページやこの掲示板を始めるようになって、かつての師匠、ミッキーを探す術を見出したのである。


<ついに昨年30振りの再会>
 去年だったか・・・山形のライブハウスから、ミッキーなる中年オヤジがいるとのメールを受けた。それにはドラムを叩いている写真が添付してあり、薄くなった頭髪に長髪のカツラを被せたなら、かつてのミッキーそのものであった。

 嗚呼!ミッキー、我が師匠!
今やドラムは趣味でやっているというが、その背中を丸めてバチを握る仕草は昔そのもの。かつて二人で寸暇を惜しんでドラムの練習に明け暮れた青春時代がまざまざと蘇った・・・。

つづく・・・。




2582.思い出の旅/真の師匠は山形のミッキー/9 返信 引用

名前:のなか悟空 日付:2009/3月29日(日) 9時14分

<30年ぶりの再会>
 ミッキーが声を掛けてくれた山形でのドラムイベント。
足代は出たが、ケチなオイラは往復ともひたすら一般道を走った。それでも片道がたったの6‐7時間だから大した事ではない。

 山形のジャズ喫茶の駐車場で待ち合わせ。
30年ぶりに見るミッキーの頭髪は無残。かつて1ヶ月も洗わずにいたベトベトの長髪の面影はまるでナシ。丸刈りにした前頭葉の部分は、過疎な林を思わせる。待て待て、ヤツにも言い分はあろう。オイラだって30年経てば、デブ、ヒゲに白髪が混じっている。

 昼飯の蕎麦屋でミッキーはザル蕎麦を注文した。
(おやっ?食べるのが遅いんじゃねぇの?)
ミッキー師匠、どうやら歯の具合がヨロシクねぇんじゃないの?ま、しゃーない。30年、30年も経っちまったんだからなぁ・・・。

 昔は若かったよなぁ、向こう見ずだったよなぁ、ドラム一筋だったよなぁと、ミッキーのアパートで語り明かす。相変わらずジャズへの憧憬は深くCDやDVDをどっさり持っている。オイラなんぞはジャズのCDやDVDは自分のもんだけ。後は特定のプレヤーの古いカセットが何本かあるだけ−−−結局、音楽が、ジャズが好きなのはミッキー師匠。そして特定の音楽が、特定のドラムが好きなのが、オイラ。

 だから言う−−−。
ジャズをはじめ音楽が上手いのはミッキー。そしてチョット不可解だが、特定の範囲のみのドラムが上手い?のはオイラ。ミッキーの肩書きはドラマーではなく会社員だが、ジャズは知ってるぞう。ジャズは上手いぞぅ。だってオイラにとっては同い年とはいえ、永遠の師匠だからなぁ。


<世界一のドラマー>
 ボクサーの辰吉丈一郎が言ってたよな。
『とうちゃんは世界一強かった』
そう、オイラに取ってミッキーは永遠の師匠、世界一のドラマーなのである−−−と、持ち上げすぎたところで、この連載を終える。じゃ!


■写真等の詳細は、山形のジャズ喫茶「ラグタイム」のHPを見てください。
http://www.catvy.ne.jp/~ragtime/live-event1.htm








2703.思い出の旅/真の師匠は山形のミッキー/10 返信 引用
新技完成の巻−−−
名前:のなか悟空 日付:6月27日(土) 16時51分

 久々にミッキー師匠の話題じゃ。
投稿ナンバー2700での『秘密の技』が出来たので、誰かに知らせたくなった。まずはジャズ批評家の副島(ソエジマ)先生に。

『センセイ!片足でスネアーを叩いて、両手で叩くより速く叩けるようになりました!』−−−これじゃまるで『100メートルを5秒で走れるように成れました』と同義語。『ボクは狂ってないっすよ。本気ですよ!』
 副島先生は余りにも妙な話に、最初は苦笑していたようだが、オイラの理路整然たる説明に、オイラが正常な精神状態を保っていることを確認したようだ。

 次は山形の師匠、ミッキーに電話−−−しかもケータイを持ってドラムのイスに座った。
@いいか、よく聞けよ。左手だけで2種類のロールをやるぞ。
A今度は右足だけでスネアを叩く連打。両手で叩くより速いぞ。
Bじゃあ、それをPPからだんだん大きくするぞ。
Cさぁ、次は右手でメチャ速のレガートだ。そこへ右足で高速の連打とロールじゃ。

そう言いながらケータイの送話口を近づけた。
『どうだ!』
『う・・・・ん・・・』
師匠、聴くだけじゃナットクし兼ねるとみえるが、
『なんだか2人で叩いてるみたいじゃねぇか』
『そうよ。現に今片手はケータイを持っているし、左足は何もしてないぞ。これで左手と左足が自由になりゃあ、それはもう千手観音ょ』
『う・・・ん』
まだ事態をよく飲み込めない様子。

『そいでいつ披露するんだい?』
『そういうことじゃねぇんだよ。オレも長いことドラム叩いてきて、やっとこさ到達した境地なんじゃ。客のためじゃない。他人のためじゃない。自分自身のためにドラム叩いているのょ。』
『まぁ、、な』
『これもひとえに、山形の師匠のお陰だぜ。ここまで来るのにあれから37年もかかったんだモンなぁ・・・(しみじみ・・・)』

 不器用を絵に描いたようなオイラが、40年近くもかかってようやく開眼した、世界初のドラム奏法。いずれ若くて頭の柔らかいドラマーたちが習得することだろう。