私がドラマーを目指すきっかけとなった
故・大友真幸(Trp)先輩とジャズの思い出

 オイラがドラマーとして(と言っても食えちゃいないが)今あるのは、東京に上京してくるきっかけとなった大友氏は、無くてはならない存在であった。
ここに思い出話を含め、大友氏を偲び゜ながら感謝したい。

<鐘ガ淵化学工業(株)での出会い>
 私が大分の工業高校を化学科を卒業して最初に就職した会社が、鐘ガ淵化学工業(株)という大企業で(S44年当時の資本金で50-60億円だった=カネミ倉庫やカネカロンで有名)、そこの兵庫県高砂工場電解課に配属になった。そこでは巨大プラントで苛性ソーダや塩化カリウムなどを製造していた。

 当時の私は、高校時代にハマったドラムを叩くため、初任給をはたいてドラムセットを買い(パールのピンク色のバレンシア・モデル=当時もっとも安い=とは言え初任給の4万円とほぼ同じだった)、高砂工場の外にある音楽部活用の一軒家で、勤務時間外は殆ど入り浸りでドラムの練習に精を出していた。この当時はもっぱらグループサウンドが全盛の時代で、「寺内タケシとブルージーンズ」を聴いたり、ジミー竹内のドラムシリーズ、原田寛治のドラムドラムドラムのシリーズをLPレコードが擦り切れるほど聴いていたものだ。

 そんな頃、同期なのか数年先輩なのかは知らないが、大卒の(私は高卒)の大友某が私の練習している一軒屋(ここは従業員専用の倶楽部として利用されるのが前提だが、もっぱらドラムの練習やバンドの練習にしか使われてなかった)に、たまに現れては「ジャズ」なるもののトランペットを吹いていた。この当時の私はジャズなど知らなかった。ましてや学歴コンプレックスのある私が、三交代勤務でフラフラになっていたにも拘わらず、昼勤務だけの大卒が長髪をなびかせて(当時長髪は流行してはいたが、ちゃんとした大卒は髪など伸ばしてはいなかった)トランペットを吹いている姿は、当時の私にとってはイヤな奴以外の何物でもなかった。
 だが、彼の言う事は何をとってもいちいち尤もな事だった。中でも「グル-プサウンドなんてダメだょ。ジャズじゃなきゃあ。野中クン、まず最初はルイ・アームストロングってのを聞いてみな」と言われたことだ。当時ドラムやレコードなどの出費でピーピしていた私だが、さっそく市内に一軒だけあるレコード店へ行き、店頭にあったそのルイ・アームスチロングなるレコードを買って来たのだった。

 大友氏に言われて買った、ルイ・アームストロングは、私には特別な刺激は与えてくれなかった。当時、高砂市ではレコード店は楽器屋を兼ねた1軒しかなく、そこのレコード棚に置かれたレコードは限られてはいたが、その大友氏の言うところのジャズなるものに対する未知なるものへの興味からが、棚にあったマックスローチの「ウイ・インシスト」を私は手に取った。
 このレコードについては改めて述べるまでも無く有名なレコードではあったが、当時の私には知るべくもない。このアルバムから受けた私のショックは並みの言葉では言い表せない。まだドラムなどろくすっぽ分からないレベルではあったが、ドラムの無限の可能性について後頭部をひっ叩かれるほどのショツクを受けた−−−と、同時にこのジャズなるものを信奉する大友氏という人の、とてつもなく巨大な未知の存在について畏敬の念を払わずにはおれなかった。

<奇妙なコンサート>
 私がカネカ(鐘カ淵化学工業株式会社の通称)に入社して、まだ1年は経ってはいなかっただろう。ある寒い時期のことだった・・・と思う−−というのも、大友氏はいつも茶色のハイネックのセーターを着ていたからだ。彼に誘われてか、それとも偶然に行ったのか、例の練習場で大友氏は数人の彼の仲間たちと小さな演奏会をやっていた。確かかれは「合成ゴム課」だったと思うが、その課員か若い女性の新入社員も何人か居た。男子校を出て、男だけの職場に居た私は、ここで大友氏に少なからずジェラシーを憶えた。それは正直な話、大友氏に対する学歴コンプレックスに加え、新たな負い目を負ったのも否めない事実だった。]
 その演奏の内容とは−−?
これこそオイラがかつて聞いたことのない代物だった。今で言う「フリージャズ」のカテゴリーに入るものだろうが、当時のオイラは痛く感銘を受けた。それは今でもその時の曲の出足の憶えいるほどだ。その時のトランペットを吹いていた大友先輩が、とてつもなく輝いていて、神々しいほどにカッコよく見えたものだった。
 演奏を終えた大友氏は言った。
「今の曲は『雪の朝』ってんだョ」
(う・・・ん、そう言えばそんな感じがしないでもないが)
ジャズという未知なる奇妙な音楽に魅せられ始めた時であった・・・。そして大友氏はどこまでもカッコ良かった。

<ケンカの仲裁>
 私は初月給をはたいてドラムセットを買ったのだが、廉価なドラムセットだっただけに、シンバルはパール製のブリキ板だった。だが、くだんの練習場には持ち主不明のジルジャンのシンバルがあって、それを私が使ったり大友氏のバンドのドラマー、○△氏が使ったりしていた。○△氏は私よりは2年ほど先輩だったが、内気で地味なドラムを叩くので(いま思えば控えめなシンバルレガートを中心に叩いていた)、私としてはあまり好きなタイプではなかった。いやむしろライバル意識をもって練習をしていた。私も彼も三交代勤務だったため、二人の練習時間が重なる事は滅多に無かった。万一重なったとしても、私が先に練習をしていれば控えめな彼は遠慮した。私はといえば、彼が先に練習していたとしても、彼を無視して私はドラムをデカイ音で叩いて練習を始めたものだ。そう言う意味では、私はトコトン突っ張っていたものだ。

 だが、ライバル意識を燃やしていた我々があるとき衝突した。
細かな理由は忘れたが、例のジルジャンのシンバルを殆ど私が占有していた事で、その先輩の○△氏からクレームがついたことである。場所は社員量の食堂での事だ。
「のなか君、あのシンバルは自分のじゃ無いんだから、使った後はちゃんと外して置かないといけないよ」
みたいなことを忠告された。先輩の忠告だし、当たり前の事なのだが、突っ張っていた私は素直になれなかった。
「知らねぇよ。そんなこと。アンタと違ってオレは毎日練習してんだから、そんな事ぁ気にしてらんねぇよ」
みたいなことを答えた。
 その時だった。○△氏の鉄建がいきなり私の左頬に飛んで来た。そこで私は反射的に彼に組み付き、取っ組み合いになった。だが、場所が場所だけに周りにいた諸先輩に止められてしまった。 
 重ねて言う。私はツッパリで、きかん気で、負けず嫌いだった。ましてや人前でパンチを食らうなどということは、例えそれが先輩であろうと、私にはハラに据えかねた。
「刺してやる!」
逆恨みもいいところだが、当時の私は実際そう思った。寮の自分の部屋へ取って返すと、机の引出しから刃物を取り出して、○△氏の部屋へ血相を代えて怒鳴り込んだ。
「オレは人前で殴られた。納得出来ねぇ。今すぐ手前ぇを刺し殺す!」
まるでチンピラだが、これが若き日の私の気性だった。
「まぁ、まぁ、野中クン、○△クンも反省しているから、そういったことはやめにしょうよ。お互いにドラムをやってんだからさ。上手くなる事だけを考えるんだよ」−−−みたいな事を言って諭された。さもあらん。
 

<寝食を忘れて憑かれたように練習をするが、大友氏は東京へ>
 以来、私は会社での勤務時間以外は、その練習場に引き篭もってドラム漬け状態で練習した。
当時は自己流だったが、それはそれで上手くなったと自分では自惚れていたものだ。正に、井の中の蛙状態だった。
 そんな頃、大友氏は私に言った。
「ボクは春には会社を辞めて、東京の音楽学校へ行くんだよ」
この言葉は大分県出身の田舎モンには衝撃的な発言だった。大分から兵庫県の会社に出て来て、会社の中ではドラムが上手くなったと天狗になっていた井の中の蛙にとって、「トウキョウ」という言葉は恐怖にも近いほどの憧憬があった。だが、悲しいかな私には預金がゼロだった。社員寮を出て上京し、音楽学校への 入学金を払うなどという途方も無い金額は、当時のオイラにはどう転んでも捻出できなかった。
 そこで大友氏の行くという音楽学校を尋ねて、一年遅れでオイラも上京すべく、貯金をすることを決意した。東京などまるで知らない田舎モンでも、大友氏が居てくれれば心強かったからだ。

<翌年上京>
 翌年、年が明けると私は早々に退社た。預金額は音楽学校への入学金と、月割りの月謝の1か月分、そして東京で安アパートを借りるだけの金額をギリギリで貯め込んでいた。それからひとまず大阪に居る兄貴の所へ居候を決め、そこを拠点にして上京し、音楽学校を受験することにしたのだ。
 
 音楽学校の受験は、恥はかいたもののナントカ合格した。ところが大友氏は既にその音楽学校を中退していいて、既にプロのバンドで吹いていた。彼によると、『利潤追求だけしか考えてないようなレベルの低いその学校では、学ぶことなど何も無い』と、言い切っていた。ナルホド、今思えばそういうこともあるかも知れないと思われる材料も多々ある。だが、当時の私には学ぶ事は山積していた。

<伊勢崎町へ散策に>
 まだ私が音楽学校に在学中の頃だった。
詳細な時期は忘れたが、横浜の伊勢崎町で大友氏と私と、その時に上京していた(退社していたのかどうかは不明)○△氏と3人で散策した。街を歩く大友氏の都会なれした姿を私は憧れを抱いて後に従った。
 大友氏は相変わらず野性的な長髪をなびかせて颯爽と歩いた。服装はストレートかラッパ(今はベルボトムと言う)のGパンに例のハイネックのセーターだった。ある高層ホテルのエレベーターを3人で利用した時、エレベーターの中ではBGMで軽いジャズが流れていた。
「おっ、流石はヨコハマだね。ゴキゲンなズージャが流れてるね」
と、大友氏は言った。
 そんなセリフが似合う大友氏に、私はまたまた憧れたものだった。


<あれから10年・・・そして30年>
 あれから一度も会う事無く、10年ほど経った頃だった。私は32歳、結婚して子供もいた。大友氏は36歳位だろう。
私もどうにか都内のライブハウスで、演奏活動が出来るようなレベルになってきた。もちろんドラム一筋で来たため、食うや食わずの生活を続けてきたのは言うまでも無い。
 ふと気になっていた大友氏の事を思い出し、彼が結婚して所帯を持っていた兵庫県へ年賀ハガキのようなものを出した。内容は、大友氏のおかげでジャズを目指してきて苦節10年、こんな私でもナントカ人前でカネを取ってジャズを演奏できるまでになりました。というようなものだった−−−返事は来た。詳細な内容は覚えてはいないが、『兵庫県の地元の学校などで後進の育成に当たっている。それでも自らはプレヤーとしての夢を諦めたわけではなく、チャンスがあれば上京してまた吹きたい』−−−そんな内容だったのを憶えている。

 それから・・・数年に一度だが年賀状を出したり、本を書いたりした時には知らせの案内状を出したりした。
それについては、たまにだが大友氏からのハガキが届いた。私が(かつての後輩が)東京で頑張って、それなりに結果を出している事を喜んでくれていた。私としても兵庫県の鐘ガ淵化学は、苦しい青春の1ページだった。その当時に同じ会社に在籍していた、ミュージシャンを目指した者として、そして、そう私を導いてくれたきっかけを与えてくれた人として、大友氏にそれを報告するのは純粋に嬉しかった。

 そういった報告を年賀状や案内状等を兼ねて、数年に一度ほど出してはいた。
平成15年の3月の事だった。私が52歳、大友氏は私より4歳年上だ。こんな内容の返信が届いた。

『 拝啓お元気でなによりです。
返事が遅くなってしまいましたが、実は先週
退院したばかりで・・・・。100日間の闘癌入院で、
これから2年間、そして5年間の通院・入院診療となりそうです。
 子育ても終わり、再度プレヤーとしてのトレーニングを始めた
矢先の入院だったので、残念だったが、気長に2年先を目標に
やっていく積りです。
 元気になったら東京方面での再会を楽しみに・・・』


<訃報>
 平成15年の9月、大友氏の奥様からの訃報が届いた。
大友氏は最後の最後まで、プレヤーとしての再起を夢見ていたのだった。
それは私にくれた最後のハガキからも分かる。

元気になったら東京方面での再会を楽しみに・・・

大友さん、私は貴方を目標に音楽を演ってきました。貴方が生命の火が尽きようとするその瞬間まで、ジャズプレヤーとして再起をしようと努力していた事を、誇りに思います。いつまでも私の先輩で、そして目標でいて下さい。

  合掌・・・。

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