2018年12月筆  のなか悟空

写真は1958年(昭和33年)頃。父が57才の頃。
このタバコの乾燥蔵を建てたのが、父の生涯最大のイベントであった。

■親父は自殺だったのか?@
 写真は1958年ごろ。多葉子の乾燥倉を立てて得意満面の親父。
 親父はパンツを履いていなかった。フンドシもしていなかった。生涯フルチンだったわけだ。その理由は(察するに)経済的理由もさることながら、左腰部分にあった肉まん大の瘤。たぶん下着を着用しても、下着が安定しなかったからだろう。
 歌うのが好きで、寝るとき以外はいつも歌っていた。近隣で祭りがあれば、田植えや稲刈りを放っぽり出して、櫓の上で歌いに行っていた。最低の祭り親父だったらしい。そういう意味で家族や仕事を放り出して、海外にドラムを持って出かける俺に遺伝子は受け継がれている。



■親父は自殺だったのか?A
 戸籍謄本を見て驚いた。
親父は4男だったのだ。では他の男の兄弟は???−−−−それは明治初期の農家に於ける、過激な農作業や栄養失調で、死産や、未熟児出産で、みんな死んだらしい。そこで戸籍上は4男でも生き残っていた親父が長男に該当したわけだ。それだけ当時の赤貧の農家は想像を絶する過酷さだったようだ。

 その親父の母親は(若くして)夭折。
親父の親父(祖父)は農家の人手不足から後妻を娶ることになる。そして後妻は3人の娘たちを生んで育てた。
 後は想像通り、小説の筋書きにもよくある、先妻の子は(親父)は奴隷の如くコキ使われ、学校は尋常小学校(小4年まで)でオシマイ。以来、死ぬまで土にまみれて働いた。かたや妹たちは蝶よ花よと育てられた。

★そんな私は長塚節の「土」をこよなく愛する。もう数回読んだ。読むごとに故郷の悲しい物語を回顧している。



■親父は自殺だったのか?B
 写真は部落民でも被差別部落でもない。れっきとした私が育った家だ。初老の女は母。抱いているのは私より8歳年下の姪っ子。姪っ子が3歳として当時の私は11歳。後ろの家屋の前面の黒板にABCと練習している文字は私の字だ。横の藁屋根は牛小屋。牛は農家にとっては無くなてはならない家畜だった。
 
 それはさて置き、全戸数27戸の私の部落は昔に大火に見舞われて2戸だけが焼け残ったらしい。そのうちの1戸が私の家だ。古い中でもトコトン古い。だから近所や親せきの古老でさえも、いつこの家が建ったのか誰も知らなかった。

 ただ、一昨年83才で亡くなった長兄の話では、この家に明治の新政府軍との戦いに敗れた薩摩の落ち武者が立ち寄ったさい、当時の祖祖母は握り飯を渡したとの話を聞いたから、明治の2−3年にはこの家は既に建っていたことになる。

 さて、本文は親父の自殺?疑惑の話。
明治30年、こんなオンボロ農家の貧乏百姓の子として生まれ、母を早くに亡くし、小学校もそこそこに中退し、継母に奴隷同様にコキ使われた。継母の子は娘ばかりが3人、蝶よ花よと育てられた、というのは前回までの話。




■親父は絶食自殺だったのか?C
 小学校中退、、、というか昔は尋常小学校初等科は4年時まででオシマイ。ひとまず読み書きができれば良かったのだ。貧乏人の子弟は家業を受け継ぐのが、大昔からのしきたりであった。
 親父も例に漏れず尋常小学校の4年を終えて、ただひたすら農作業に従事せざるを得なかった。なぜなら、、、実母を早くに亡くし、継母が来て新たに娘を3人産んだからである。

 学問は無かった。
根っからのドン百姓であった。ただ、字だけは弘法大師級だった。だから村でもなんかの折には、代筆の依頼が多々あった。
 
 祭りの櫓の上で歌うだけが楽しみ。それを除いたら人生で何も楽しみは無かっただろう。とにかくいつも歌っていた。家で歌うと妻(つまり私の母)に叱られるから、農作業のため家を一歩出ると、クワを担いだまま、鉈を担いだまま、コブシを回してウナリ始めたのをいつも目にした。




■親父は絶食自殺だったのか?D
 倒れたのは64才
 我が家はビンボーで8人兄弟の胃袋を養うことが出来なかったから、俺は中1(13歳)で隣市の肉屋に丁稚(でっち)に出された。肉屋で働きながら学校へ行けば、せめて肉は食べられるだろうという無学な両親は思いやりだったのだろう。
 13歳の小僧が他人の家で丁稚なんかできるわけがない。さんざんイジメられたが、丁度365日だけ我慢して、実家に帰った。

 それが私が14歳。中学2年の2学期だった。
直後に親父が農作業から帰る途中、農道で倒れたらしく、近所の人に担がれて帰宅した−−−『歩いていたら、暗い穴の中に落ちていくようだった』と、釈明している。以来、百姓から足を洗った。
 だが、家族は誰ひとり父に言うことを信じなかった。どうせナマケ者の父の言うこと。狂言だと疑っていたからである。その証拠に田舎の医者は往診に来ても、父の病名が分からなかったからである。
(ホレみたことか、どーせ仮病だよ)
と家族全員で嗤っていた。




■親父は絶食自殺だったのか?E
 父が畑から帰りに倒れたのが、私が中2の9月。
家族はどうせ仮病だと父を嗤っていた。なぜならどんなに農家の繁忙期でも、田植えも稲刈りもほったらかして、祭りの櫓の上に歌いに行っていたからだ。
 
 だが、、、父はどうやら仮病では無いらしく、あまり動き回るということをしなくなった。自分の寝床も離れの乾燥蔵に拵えて、独りで寝起きをするようになった。

 その頃から目が悪いにもかかわらず、般若信教の綴りを読むようになった。目が悪いので細かい字なんか見えるはずが無いのだ。

 且つ、カナシイことに医者には行けなかった。
だって医者に着て行く服が無いのだ。バンツも無い。普通の服も無い。あるのはドロンコの野良着だけ。それではみっともなくて医者に行けないだろう。
 だから1度だけ医者に来てもらった(半年後に2度目に来てもらった時は臨終の時だった)。病名は、、、胃がん。ほんとかよ?田舎の医者だ。レントゲンも何もない。聴診器を腹に当てての見立てだ。信用なんかできるわけない。

 そんな状況でも家族は全員、父の仮病を疑っ
ていた。たかだか胃がん如きに倒れるはずがあるまいとタカをくくっていたからだ。




■親父は絶食自殺だったのか?F
 父の最後の半年は俺との刃傷沙汰だつた。
流石は鍬でヤクザもんを叩き殺した親父。痩せても枯れても仮病で倒れていても、気合はスルドイ。常に懐に特大の刺身包丁を入れて、誰もいたわってあげない俺たち家族を、刺し殺すと息巻いていた。

 そこで父と俺との一騎打ちが勃発した。
俺は特大の刺身包丁に対抗すべく、裏山に入り、頑丈な木剣をこしらえ、居間に居て睨みをきかせている親父とチャンバラだ。それが学校から帰宅した俺と父との日課になっていた。
『はやく死ねぇ〜この仮病親父〜!』
『うぬぅ〜てめぇこそ刺し殺してくれるわ〜』

 病とはいえ、流石は農作業で鍛え上げられた肉体は、ぶっとい筋金が何本も入っているのだろう。いつ剣術をまなんだのか、まるで塚原卜伝のように、俺の木剣を木の葉のようにあしらった。
 俺だって幼少のころから親父にハンマーで殴られ、カマを投げつけられ、学芸会の前に日に、食事時に笑ったというだけで、ドンブリ鉢を投げつけられて、学芸会を台無しにされた怨念がある。叩き下ろす木剣にも気合が籠っていた。





■親父は絶食自殺だったのか?G
 だが、、、そんな闘いの日々が続いていた、中2の2学期から3学期のころ、親父の病は本当だったのか、離れの寝床から起き上がってくる回数もだんだんと減ってきた。
(もしかして、、、本当に胃がんなのか、、、)
家族はそう思い始めたが、医者に行く服も無ければ、医者に行く金もない。ただひたすら寝ているしか無いのだ。それが貧乏百姓の病に対する受け入れ姿勢。まるで野生動物だよ。

 俺も親父も刺身包丁と木剣で闘うのに疲れ果てた。
いちばん疲れたのは親父かも知れない。さんざん貧乏をして、8人の子供たちを育てたが、誰ひとり親孝行をするでなし、やさしい言葉をかけるでなし。ならば生きていてもしょうがない。とっとと死んだ方がラクだわい、と短気で単細胞な親父が思ったに違いない−−−−そのころから親父の絶食が始まった。





■親父は絶食自殺だったのかH
私が中学2年の3学期、父の刺身包丁と私の木剣との戦いに明け暮れていたのも飽きてきた頃、父の悪態も少なくなってきた。
そんな頃だ。
父は薪を拾ってきて、お風呂わかした。そしてお風呂に入り、きれいにヒゲを剃って体を清めた。
以来、一切の食事を口にしなくなった。そして持ち前の悪態もつかなくなった。目が悪いから読めないはずの般若心境を片手に、離れにある乾燥蔵の中にこもるようになった。

それから数日後、あのクソ親父が起きてこないのでさすがの家族も心配になってきたので.離れの乾燥蔵に行くと、父は虫の息だった。
「こりゃ大変じゃー、もう死ぬわい」
慌てて父を母屋に運びこみ、親戚を呼び集めた。




■父は絶食自殺だったのかI

父は明治35年(1,902年生)生まれ。
若い頃には、村の中をすっぽんぽんで走りまわったこともあるらしい。今で言うストリーキングだが、もしかしたら日本で最初のストリーキングだったかもしれない。そういう意味ではカッコイイとさえ思っている。

若い頃に鍬でヤクザもんを殴り殺したと言う話も、それは村のためでもあり義のためであったからヨシとしても、いかにも百姓らしいとさえ思っている。

そんな親父も好き勝手なことをやるだけやって、家族からは見放されているし、友達もいない。今更とっとと死んだとしても誰1人として悲しむ者はない。それに毎日が針の筵である。

生きていたとしても医者にかかる金もない。いやその前に医者に着ていく服が無い。だとしたらこの辺がそろそろ年貢の納めの時かと悟り、自ら食を断ってしまうのも1つの方法だろう。しかも断食は金がかからないから、究極に経済的である。
 これに決めた!
これで生き仏になるんのだ!と無学なるが故に、一徹の結論を出したのかもしれない。

見上げたもんだよ、屋根屋のフンドシ。馬鹿は馬鹿なりにえらい! と気づいたのはつい最近のことだ。




■父は絶食自殺だったのかJ
大正時代か昭和の初期に村の中でストリーキングをやったと言う父は、もしかしたら日本初のストリーキングかもしれない。それはそれでかっこいいとは思っているのだが、もしかしたら戦争に行きたくないために気違いのフリをしたのかもしれない。

そんな変人で前科者の父が、医者に行く金も服もなかったし、家族や親戚からも嫌われていた四面楚歌状況の中、64歳で絶食自殺を図ったと今の私は考える。

そしてそれは見事に完遂された。飲み食いをしなかったわけだから、死ぬまで寝込んだたったの2- 3日間、下の始末も介護の必要もなかったわけだから、全く手のかからない潔い死に方だったと思う。そういう意味では尊敬に値すると私は思うのだ。

臨終の時、枕元に集まれなかった7人の中の兄弟が1人だけいた。それは大阪にいた病弱の兄だった。父はこの兄だけが心残りだったようだ。




■父は絶食自殺だったのかK/赤貧とは
 変人で生き、即身仏で死んだ、親父の臨終の枕元に集まれなかった7人の中の兄弟が1人だけいた。それは大阪にいた病弱の次男だった。父はこの兄だけが心残りだったようだ。

 次男は肺病のため中学の2年までしか、学校に行けなかった。それでも高校受験は校区外の進学校に受かった。だが病弱なためバス通学は不可能で、それどころか離れの倉庫に寝たきりになってしまった。
 それから「もう後は死ぬだけだ」という骨と皮だけの状態になって、父に背負われて医者の車に乗せられる姿だけは記憶している。私が当時4−5歳、兄は16−17歳だった。それから実に10年間、兄は隣市にある療養所に入院し続けたのだった。
 当時、おそらく医療控除も生活保護も何も無かったのだろう。もしあったとしても寒村の無学な両親にそんな知識などあるわけがない。赤貧の中、田畑を売って兄の入院費に当てていたのだ。
 その兄に付いたあだ名が『銭喰いマサ』。
年に数度、隣市の療養所を訪ねるのだが、兄の部屋は探すのが容易だった。それは饐(す)えたように黄色く汚れた日本手ぬぐいを干している部屋が兄の病室の目印だった。替えのタオルさえ無かったのである。


とりあえず終わり
次はたぶん 42歳で亡くなった病弱な兄の話。