多田雄幸氏の思い出

永遠の無欲な少年

多田雄幸さんは仏様/1 返信 引用

名前:のなか悟空 日付:2010/1/18(月) 8:31
 沢木耕太郎の『馬車は走る』の2度目を読んでいる−−−ずっと昔、古本屋で買ったものだと思うが、今で2度目だ。数人の人物にスポットを当てて、沢木得意のインタビューしたものだ。

 その中に多田雄幸さんが出てくる。
多田さんは私にとって他人ではない。幾度も食事に誘われたり、飲みに行ったりしたこともある。ライブにも来てくれたこともある。泊りに行ったこともある。

 なんと!20年前、『アフリカに行くんじゃお金かかるでしょう』と、初対面で10万円ももらった。だから他人じゃないなどといった手前勝手な話じゃなく、あの人は本当に仏様のような人だった。

 素晴らしい滅私の人だった。争いも競争も好まなかった。私利私欲も無かった。あんな素晴らしい人をたまには思い出し、多田さんの人徳に近付きたいと思う生臭な私なのである。これはいずれ改めて述べる。





3131.多田雄幸氏の思い出-2 返信 引用

名前:のなか悟空 日付:2010/1/18(月) 8:35

永遠の無欲な少年
<出会い>
 突然の出会いは、昭和63年の冬だったか、『アフリカ壮行ライブ』と銘打って、ピット・インで始めてのライブを、副島輝人氏の企画でやらせてもらった時のことだ(この状況はオイラの『アフリカ音楽探検記』に詳細をかいてあるような気がする)。

 さて、その時にライブに来てくれたのが多田雄幸氏。
当時、彼は世田谷区で個人タクシーの運転手をやっていたらしいのだが、ジャズが好きで車内でジャズを流していたという。そういった時にたまたま客で乗り合わせたのが副島輝人氏で、一発で意気投合し、オイラのライブがピットインであるのを聞いて、駆けつけてくれたのである。

 私は限りなく植村直己氏を尊敬している。そんな話も副島氏に聞いたのだろう。たまたま植村直己氏の友人だった多田氏は、植村氏をサポートして北極圏まで出かけたほどの間柄だったそうだ。『冒険には金がかかるから』。そう言ってアフリカ壮行ライブを終えた私に、現金で10万円もの大金をくれた。これにゃ驚いた!押し返すこともせず、素直に懐に入れてしまったオイラだが、そんな分かりきった見栄やウソなどと無縁な多田氏の笑顔が、オイラを素直にさせたのだと思う。





多田雄幸氏の思い出-3 返信 引用

名前:のなか悟空 日付:2010/1/21(木) 7:31
■たまには多田さんのことを思して、自らを正さねば。あんなに無欲で名誉欲の無い人はそううそう居ない。まるで仏様みたいだったもんなぁ。

■多田さんに誘われて、何度か多田さんの知っている飲食屋さんに行ったことがあるが、会話中に頻繁に出てくる放送禁止用語のオ○ンコ。これにゃああたりをはばかってしまうが、多田さんの場合はイヤらしさがないし罪が無い。
 だってさ、世の中、動植物全ての生き物でオ○ンコのキライな生き物は居ないわけだから、それを聞いて腹を立てる人はいないはずなのである。ま、モットモである。事実、アフリカのある種のサルはソレを挨拶代わりにして、種族内の安定したコミュニケーションを図っている。

 多田さんの場合に限り、例え放送禁止用語を連発しても、けっしてイヤらしくないし、生々しくない。もしオイラが連発したら『口角泡を飛ばす』が、泡じゃないモノを飛ばしかねない目で見られてしまうが、多田さんの場合は枯れているキャラなので、ちーっともヤらしく感じないのだ。
 また、そういった用語を頻繁に使用することで、対話の相手との警戒感や垣根を取り払ってしまうという、ざっくばらんな親近感が生まれるといわれるのも事実。

 だからオイラは多田さんが好きだった。
もし多田さんが生きていてくれれたら、オイラの人生はだいぶ変わっていたであろう事は事実。仏様のような多田さんの人脈は、タダならぬものがあったからである。かといってその人脈目当ての姑息な打算があったわけじゃない。

つづく



多田雄幸氏の思い出-4 返信 引用

名前:のなか悟空 日付:2010/1/21(木) 17:47
■たまには多田さんのことを思して、自らを正さねば。あんなに無欲で名誉欲の無い人はそううそう居ない。まるで仏様みたいだったもんなぁ。

■多田さんが植村直己の北極点行きのサポート隊だったことはあまり知られていないが、多田さんと植村氏は信頼関係にあったらしい。そのことは植村氏を尊敬し、彼の著作を全部読んでいた私としては意外だったし、多田さんがまたより近い存在に思えた。

 多田さんは私がアフリカ横断のドラム旅を終えたことを知ると、文芸春秋社のNumberの編集長を紹介してくれ、おかげでメジャー誌のカラーページに何ページもの特集を組んでくれた。
 さらに驚いたことは当時の編集長のS氏は植村氏の盟友で、やはり北極点行きのサポート隊員(長?)だったというのだった。後にS氏は週刊文春の編集長となり、私のトラクター日本列島の写真も掲載してもらったこともある。
 
しかも−−−そのS編集長には、彼の後輩であるKトラクター会社のスタッフを紹介され、その人を窓口にしてKトラクターから「トラクター日本列島縦断」の後援を受けることになったのだ。

 こう考えると多田氏という人の恩恵は計り知れないものがあった。そんな彼のこと、そしてS編集長、そしてKトラクターの人たちを、時には思い出し感謝をしなければならないと思う。人間は前ばっかし向いていては見えなくなってしまう部分もある。それが最近、やっと分かってきた。

つづく



3143.多田雄幸氏の思い出-5 返信 引用

名前:のなか悟空 日付:2010/1/23(土) 19:9
■たまには多田さんのことを思して、自らを正さねば。あんなに無欲で名誉欲の無い人には会ったことが無い。
まるで仏様みたいだったもんなぁ。

■『多田さん、コンちゃんがあるよ・・・』
 多田さんの知り合いの都内にある料理屋さんに何人かで行き、帰りの終電が無くなったので、世田谷にある多田さんのアパートに泊ったことがある。普通の木造アパートの2階だったような記憶がある。部屋は2間ほどはあったか?

 多田さんの見かけも質素だが、部屋も質素。二科展で入賞したこともあるという多田さんのである。絵もそこそこスゴイのかと思ったら、見せてもらった絵は意味不明の抽象画だった。ただしそれが二科展に出品した作品かどうかは記憶に無いが、多田さんがジャズが好きだというその自由なココロの中の一隅を見たような気がした。

 なんせ多田さんは頭が柔らかい。
絵だってジャズだって、頭が固けりゃあ出来ない。柔らかアタマで何でも柔軟に対応し、理解できる柔軟性が必要なのだ。それにたださんは無欲のスパイスを振り掛けるから、凡人には出来ない。

 で−−−、オイラは喉が渇いたから・・・と、台所に立ったら・・・ナント!蛇口に使用済みのコンちゃんが吊るしてあるではないか!ま、いい。多田さんだからこれも愛嬌。笑っていられる。だって多田さんだって男だもの。オナニくらいするでしょうよ。
 ただその年齢だ。
当時幾つだったのだろうか?50歳近かったと思うが、(多田さんはいつまでも元気だぁ)という感想を持った。でもさ、自分だってそろそろ還暦が近い。正直、いまだってたまに・・・笑。

 普通なら見ないことにするのかも知れないが、オイラは蛇口に掛けて
あるソレを指摘した。
『多田さん、こんなところにコンちゃんがあるよ・・・』
『あっ、それ?また使うから洗って干してんですよ』
『なにも洗ってまで使わなくても・・・』
『勿体無いですからねぇ』
『でも・・・自分ひとりでするんでしょ?』
『まぁ、そうですけどねぇ。笑』

 こんな些細なことひとつとっても、多田さんの人間性が分かる。たださんはそんなことをさほど気にする様子も無く、コンちゃくの使い古しを洗ったものを、蛇口ではなく部屋の窓辺に掛けた−−−流石は仏様の多田さんは違う!

 ここで名誉ある多田さんのことをケナした記述だと眉間にシワを寄せるなかれ!これも多田さん、アレも多田さん、全て尊敬する多田さんなのである。


■植村直己だって、ねぇ。
 だってさ、エベレスト登頂の植村さんだって、著書の中で登頂時(多分キャンプ)のテントの中でオナったと正直に書いてある。当時の若き植村さんなら有り得て当たり前。標高8000メートル超のテントの中でするなんて、流石は世界のウエムラでしょうよ。ねぇ。

 また植村さんはナイロビでの初体験を著書に書いてある。
オイラも何度か行った事のあるナイロビのバーで、現地のマラヤさん(スワヒリ語)との初体験は決してイヤらしいものではなかった。若き日の思い出のヒトコマとして正直に書かれてある。オイラなどは感動したものだ。で、オイラも尊敬する植村さんと同じことをした。キンマンジャロ山登頂と、マラヤさんとも一夜。




3159.多田雄幸氏の思い出-6 返信 引用

名前:のなか悟空 日付:2月2日(火) 8時12分
■たまには多田さんのことを思して、自らを正さねば。あんなに無欲で名誉欲の無い人には会ったことが無い。まるで仏様みたいだったもんなぁ。

■多田さん・・・なにやってんの!?
 前回Dの後、私らはコーヒーを飲んでいたのだが、多田さんが先に風呂に入る段取りになった。私は居間に居ながら風呂場に入っている多田さんにドア越しに大声で語りかけていたのだが、何分か経つと全く返事が無くなった。
「おやっ?」

 オイラはことさら大きな声で多田さんの名を呼んだが返事が無い。
「多田さん!」「多田さん!」
さらに風呂のドアの外まで行って呼んだ。
「多田さ〜ん!!」
それでも返事が無い。もしかして倒れちまったのか!?オイラは躊躇なく風呂場のドアを開けた−−−そこには浴槽に入ったまま沈んでしまっている多田さんの姿があった。ヤベエ!!

 オイラは靴下を履いたまま洗い場に下りて、浴槽に沈んだままの多田さんの身体を掴んで引き上げようとした−−−すると・・・
『ぷはぁ〜!』
と多田さんが海坊主のように水中から頭を出したのである。

「あービックリしたぁ〜。死んでんのかとおもったぁ・・・多田さん、いったいどーしたんですかぁ!」
「いやね、ヨットで海に落っこちたら泳げないですからね。」
「えっ?多田さん、泳げないんですか?」
「いやいや、太平洋の真ん中で少しぐらい泳げてもしょうが無いでしょう。」
「そりゃあ、まぁ・・・」
「こんなことやってもしょうがないんですがね。風呂に入るたび、息を止める訓練をしてるんですよ」
「へぇ〜・・・・スッゲエ・・・」

 その多田さんが潜っていた姿勢とは−−−身体を上向きにして浴槽に入り、両足を伸ばして浴槽の外に出して、上半身を沈めているのである。パッと見は、逆さに沈んでいる状態なのである。私なんぞは山育ちのため、そんなに水に親しんでない。だからそんなキケンな姿勢は取った事が無い。だって鼻や耳に水が入るだろうに・・・・。おー、ヤダヤダ。

 私心が無くて大らかで笑顔を絶やさなかった多田さん。
そんな仏様のような多田さんだったが、見えないところでこういった日々の訓練は欠かさなかったのだ。改めて尊敬した夜だった。






3215.多田雄幸氏の思い出-7 返信 引用

名前:のなか悟空 日付:3月4日(木) 22時13分
■春の夜長、妻子は早寝したし、夜9時を過ぎてのドラムの屋内練習は近所の手前自粛。たまには多田さんのことを思い出して、自らを正さねば。あんなに無欲で名誉欲の無い人には会ったことが無い。まるで仏様みたいだったもんなぁ・・・。

<激励送別会>
■何年前だったか・・・たしかオイラが中南米のドラム旅に出る年だったから、確か19年ほど前のことだ。多田さんがオケラ?世号で世界一周ヨットレースに出場するというので、静岡県の?市の?号という配船になってはいるが観光スポットになっている豪華客船の中で、多田さんの激励送別会があった。

 オイラは小学校の息子を連れて1泊2日で参加。その時はじめて尊敬する故・植村直己氏の奥様に会って挨拶をし、息子ともどもたち記念撮影をした(写真はあるが、読みとってアップするのが面倒なのでしない)。

 送別会では例によって多田さんはしきりに照れながらもアルトサックスで「ハブの港」等の曲を演奏。けっして上手くはないが本人がお気に入りの曲で、世界一周レースの間もヨットの中でも退屈しのぎに吹くらしい。もちろんそのレースのスタート地点であるロサンゼルスまでの太平洋横断にも持って行き船内で吹くのだそうである。


<太平洋横断なのに・・・もう?>
 翌朝のこと。
ジュラルミン色に鈍く光るオケラ?世号の船内を一通り見せてもらった後、多田さんは太平洋を横断すべくみんなに手を振って分かれを入った後、ロスへ向けて荒波の中へ向けて出帆した。

 荒波の−−−というのは、当日は雨こそ降ってはいなかったがドンヨリとした曇天の低気圧で、波が高かったためヨットは荒波にもてあそばれてるみたいに、船首と船尾がシーソーのように上下に揺れていた。
(アレじゃワシらシロウトは一発でゲロちまうわぁ。流石は多田さんだなぁ・・・)と、感心しつつも呆れて見送っていたのだったが・・・・。

 あれぇ???
湾内の高波にもて遊ばれながらもナントカ出帆したと思ったら・・・もう??Uターンして戻ってくるではないの??なんで??
 見送りに人は無線で事情を聞いたのか、『○×を忘れたんだってさ』と笑っていた。その○×が何であるか忘れたが、日常的によく使用する大事なものだったらしい。
『さすがは多田さんらしいね。ははは』
と、みんなで笑ったものだ。


<あの時が本当の別れだったとは・・・>
 その後、また改めてみんなで多田さんの出帆を見送った。一度の送別会で2度出帆する。1粒で2度おいしい多田さんの出航シーンでありました。カッパを着用して、荒波に揉まれながら笹舟のようにだんだんと小さくなっていく多田さんを見送ったのが、本当に最後の意味での見送りにっなてしまうとは、その時だれも思わなかった。

 私は見送りの後、何ヶ月かして中南米のドラム旅に出発しリオのカーニパルに出た足で、多田さんが世界一周ヨットレースの途上に立ち寄るウルグワイのモンテビデオにて、再会を予定していたのだから・・・。