永遠の孤高 故・高木元輝氏の思い出話


不肖、のなか悟空がかつて故・高木元輝氏と演奏した日々の想い出を綴りました。

<2003年5/27日>

 なにげなくドラマーの豊住芳三郎氏のホームページを開くと、高木元輝追悼ライブの文字を発見。驚いて豊住氏に電話するが連絡がつかなかった。とりあえず高木氏の奥さんにお悔やみを言おうとダイヤルするが、電話口に出たのは高木氏とは全然無縁の横浜市民だった。1年ほど前に電話番号を取得したというから、随分前に高木氏はこの番号を手放していたと思われる。
 そのあと副島氏に連絡して高木氏は2002年の12月に没した旨を確認した。私が埼玉県に住んでいるのと、ミュージシャンとして横の繋がりの無い生活をしているのとで、他のプレヤーとの連絡が疎遠になっているのは否めない。私にとってフリージャズ・プレヤーとしての高木元輝は永遠に不倒の巨木的な存在である。そこで私が故・高木氏と故・ダニー・デイビス(サックス・フルート)と共に演奏活動をした思い出を語り、追悼すると共に、高木氏のファンの方々のためにもいい思い出話になればと思いページを立ちあげることにした。感じたことををありのままに書いているので、高木氏のファンの方々には気になる部分もあるかもしれないが、それをも含めて巨匠・高木氏への私の追悼の意であることを承認していただきたい。現時点ではザッ駆け足で書くので雑なところもあるかもしれないが、おいおい訂正していきたいと思う。

<1973〜4年/高円寺のAS SOON ASにて>
 私が上京して初めて見た生のライブが、バンドの先輩に連れて行ってもらった高円寺の「as soon as」での「沖至(tp)トリオ」だった。沖至のトランペットは朝顔をバケツに入れたまんまでブクブクと吹く。サックス、といっても殆どサックスを吹かずオモチャの笛を必死の形相で吹き続けていたのが高木元輝。ドラムはジョー水木だった。そんなフリーなジャズの演奏が当時の私に理解は出来なかったが、彼らの演奏に対する情熱には大いに同調し、彼らを尊敬したものだ。

<1980年夏 高木氏に電話>
私が荻窪の「グッドマン」あたりでライブを始めて数年たったころだった。
当時、高名な先輩の胸を借りて演奏したいという血気盛んな時期だった。まだ面識の無い(今も無いが)坂田明や山下洋輔に電話したりしたのもこの時期だ。坂田や山下からは体よく断られてしまったが、電話口の向こうの高木氏は違った。彼は乾いた声で『条件は?』といった。若かった私は一瞬(あれっ?おカネのことかなぁ・・・やっぱりプロなんだなぁ・・・)と、素朴な感想を抱いた。そこで歯切れの悪い答えだが、「お金が無いんです・・・」と答え、話は立ち消えになってしまった。

<1983年冬、新宿中央公園に高木氏が現れる>
 前項から数年以内の頃だ。
私は「グッドマン」で、マスターの鎌田氏と「リンボ・トリオ」を、「アケタの店」では、原田依幸らと「絶倫本舗」を、「おーむ」では自己のバンド「人間国宝」を始めた時期と前後する。当時、私は自分の情熱のはけ口はもっとほかに求めていたが、出れるライブハウスの数が限られていた。それでもっとドラムを叩きたくて、新宿の中央公園や池袋の西口公園、代々木公園、秋ケ瀬公園でも野外演奏をやっていた。ことに新宿の中央公園では毎月1度か2度、5年近くも続けたのである。
 そんなある日の事、どこで噂を聞きつけたのか、あの高木元輝御大が私らが演奏する新宿中央公園に来てくれて、ベンチの座って我々の演奏を聞いていてくれたらしい。演奏後に彼と会話をしたのだが、この時が初めてだった。私としては高名な彼がわざわざ足を運んでくれた事に大感激をしたものだ。

<1984年2月1日、南浦和「ポテトハウス」のこけら落し>
 
南浦和に「ポテトハウス」なるライブハウスが誕生したのは、この日だ。
以降、2001年の9月のオーナーの小黒氏が逝去する数年前までロック系のライブハウスとして、埼玉でロック少年たちを育てた(小黒氏はロックは嫌いだったが)。そんなライブハウスのこけら落しに「高木元輝」と○○アーケストラに在籍していた「ダニー・デイビス(As・Fl)」と私のトリオだったというのは、奇な事ではある。

 小黒氏自身はテナー・サックスを奏し、以前は日本の有名ビッグバンドで吹いていた経験がある。弟の「小黒和憲(かずのりAs)」は、国内の第一線で演奏していた。だがこの時点ではニユーヨークに移り住んで数年が経過していた頃だ。その小黒和憲がこの「こけら落とし」に現れた。小黒氏の両親も来てくれた。小黒氏の友人が1人、そして奥さん。結局、「ポテトハウス」の「こけら落とし」には奏者は「高木元輝3」の我々3人と、客は小黒氏のファミリーが5人、客が1人の合計6にんと
いう寂しさだった。
 この日の演奏は、まるまる100パーセントのフリーを演奏した。
聞く側の小黒兄弟は喜んでくれていた。流石に高木元輝。フリー・ジャズの第一線を疾駆しつづける貫禄は、私などには犯しがたいものがあったのを憶えている。

・たったの1回だけ言った高木氏の自慢話
どこで聞いたか記憶は定かではないが、確かこの頃だったと思う。
「ボクはね。70年代の世界人名辞典の音楽の部門で、日本人が3人だけ載ってる中で、そのうちの1人なんだょ」
「へぇ〜、スゴイですねぇ〜!」
「他はね、指揮者の小沢征二と○○(忘れた。確かナベサダか?)だけなんだょ」
「へぇ〜スゴイなぁ〜!」
そんなスゴイ有名人に誘われ、一緒に演奏できる栄誉を、単純に誇らしく思ったものだ。


<1984年2月18日>山形市の駅前ギャラリー
 1984といえばまだ私が33歳。フリージャズを始めて5-6年しか経ってない若輩者だった。それなのに高木氏やダニー・デイビスと山形に旅3人で行けるなんて最高にハッピーだった。というのも私は山形県に行ったのはこの時が初めてだったからだ。とはいうものの、現在まで2度目に山形県を訪れた事はない。どうやら最初で最後のようだ。
 この時は粉雪の舞う山形市の駅からそう遠くない場所にある2階のギャラリーでライブが行われた。大小さまざまな油絵が壁に掛けられ展示されていたのを記憶している。演奏の内容がどうで、どう終わったのかは余りに昔の事なので忘れてしまった。それでも緊張した雰囲気で3人が演奏できたのは覚えている。2/1日のポテトハウス以来、たったの2度目の演奏だった。

 演奏の打ち上げは近所の喫茶店だったか、飲み屋だったかで行われた。たしか高木氏は酒を飲まず、そして私も飲まず、ダニーだけが少しだけ飲んで、場を盛り上げていたような気がする。主催者は高木氏のファンだったから、私は発言を控えていたのだが、やっぱり主催者やそのグループは高木元輝とその支援者といった感じで、いわゆる普通の陽気なジャズファンの集まりではなかったような気がした。ファン中心のひとりに、そこそこハンサムな28-29歳の養豚業者の青年がいたのを覚えている。あれから18ねん、彼にも子供が出来、いい年のオヤジになっているのだろう。

・打ち上げの席で先にホテルに帰ってしまった高木氏
 
この打ち上げは全く盛り上がらなかった。まぁ打ち上げだからって盛りあがらにゃならんということも無い。もともと私自身も酒を飲んで大騒ぎをするのが好きじゃない。そんな余力が残っているんなら、そのぶんステージで出し尽くせばいいと言うのが私の信条だ。
 ところで、高木氏はこの打ち上げが始まってから1時間もしないうちくらいに(いかんせん昔の事だ。確実な記憶は無いが)、主催者に中座したいことを告げた。主催者は「ええっ!」というような顔をしていたが、他ならぬアーティストの高木氏のことである。打ち上げと言う観念も凡人とは異なると判断したのだろう。ホテルまで送っていくことを申し出た。私とダニーはそのまんま残って飲食を続けた・・・ような気がする(ハッキリ覚えていない)。

 これまでの経験から、だいたい接待を受ける側の人間から(しかも主賓)から、中座を申し出るというのは常識では有り得ない。だが、ここは高木さん、常識の通じない高根に鎮座しておられる(これは嫌味じゃない)。ワシら凡人の理解の外にあるのだ。自分の感性に素直であり続けるのは芸術家の原点である。そういう意味で情とか義理とかに左右されない高木氏に、改めて一種異様な畏敬の念を抱いたものだ。

 
高木元輝3は全部汽車で移動し、ドラムも汽車で運んだ。だが、この山形でどこに宿泊したのかも、残念だが記憶に無い。

<1984年2月19日>福島市
私のスケジュール帳には「福島市」とだけあるが、恐らく「パスタン」ではないかと思う。が、ハッキリした記憶が無い。残念だ。
ただ、あそこの老ママは(当時60代半ばか?)存命だったような気がする。今はどうかは知らない。

<1984年4月7日>いわき市フィレンツェ
ダニー・デイビスのオシャレ
ここで覚えているのは、ダニー・デイビスが帽子を3種類も持って来たこと。それだけじゃなく、靴も3足バッグに入ってたのには驚いた。ワシらはいつも音を考え、音以外のことはあんまり関心なかったが、ダニーはアメリカ人で黒人だからこんなにオシャレなのかな?と重度のカルチャーショックを受けた。

エレベーターの中での逸話1
この話がいわき市だったのか言われると自信が無いが、多分いわき市だったような気がする。
たまたまオイラと高木氏がエレベーターに乗ってた時、2-3人の小学校3-4年生が乗り込んできた。私は子供が好きだし、いつも構っていたいタイプなので、彼らを見て目で笑っていた。その時の高木氏は、子供を見て舌打ちをすると、下を向いてうつむいてしまった。子供達が次の階あたりで下りると、高木氏は言った。
「ボクはね。子供が嫌いなんだょ」
「えっ?そーですか?どーして?」
「彼らの無邪気さがね、何でも許されるものだと思い込んで行動してるでしょ?それがダメなんだょ」
「ふ〜ん・・・」
その時に思った。
(この人、よっぽど変わった人なんだなぁ・・・)
私としては世の中の皆が子供を好きだと思っていたので、驚いてしまった。

・エレベーターの中での逸話2
確か同じエレベーターの中だったと思う。高木氏がポツンと言った。
「ボクは精が強すぎるんだょ」
まさかフリー・ジャズ界の巨匠が、こんなことをいきなり言い出すとは予想外だった。
ボクは「あっ、そーなんスかぁ・・・」と言うしかなかった。
「でね、タンポポの根っこをね、乾燥させてお茶にして飲んでるんだょ」
「へぇ〜、そーなんスかぁ・・・」。またしてもオイラは同じ答をしてしまった。
オイラなんて精が強いのは元々だし、それを減らそうなんて考えもしない俗物だから、高木氏のこの発言には驚いた。
(そっかぁ〜、この人にとっては「性が強い」ということも、音楽の妨げになるのかぁ・・・。ワシなんか精が強い事を誇っているのに・・・)
まるで聖人の師に対して、まるっきり存物のまんまの私であった。

・演奏
 演奏の詳しい内容は覚えては居ないが、たしか2ステージ目の事だ。
私は客へのサービスの積りもあり、客の耳元で聴かせてやろうと、ドラムやシンバルをを抱えたまま客席の中を動き回って客の耳に近づけて叩いていた。これはふりー・ジャズのステージではそう珍しい行為ではない。客も喜んでいるし、いいコミュニケーションのひとつだと私は思っている。そんな私を見たダニーデイビスも同じことをやりだした。ダニーとて以前はサンラ・アーケストラのメンバーである。こんな事はお手のものだろう。私とダニーは時々視線合わせては、このフリーな空間を、フリーな音で操る事を楽しんでいた。
 ところが高木氏は違った−−−高木氏には、客のサービスのために音を出す、などといった世俗にまみれたような観念は最初から持ち合わせては居なかった。かれは黙々とステージに立ち、自らの音の中に埋没していた。高木氏をご存知の方は思い出されることだろう。氏がサックスを咥えて、一心不乱にサックスとそして自らと格闘しているを−−−。私もダニーもまだまだ若輩者だった・・・。
 
<1984年4月8日>ジュノセママ これは何市?福島市?盛岡市?
記憶に無い。

<1984年4月10日>盛岡市パモジャ
・演奏についての思い出
 1ステージ目は高木氏とダニー・デイビスと私の3人でフリーをやった。
2ステージ目に高木氏は我々2人に言った。
「次はソロを1人ずつやろうよ。最初はダニー、次にのなか君、そしてボクね」
ということで始まった。
「あっそうそう、のなかクン、ちっちゃい音でね」
と、このツアーの間中いい続けている注文を付け加えるのを忘れなかった。だが私は「大きい音=思いっきり叩く演奏」が、私の個性である。ちっちゃい音では私のポリシーに反した。いくら大御所の高木氏の注文とは言え、これだけは聞くわけにはいかなかった。それでも「ハイ」と素直に返事だけはした。
 ダニーのソロは難なく終わった。次は私の番だった。
ドラムの前に座った時点で、私はもう高木氏の注文を忘れてしまっていた。小さい音があるから大きい音がある。大きい音があるから小さい音が生きる。メロディーの無いドラムはメリハリと音のダイナミックレンジで演奏するしかないのだ。そこで私はサワサワの所はサワサワに、ガンガンの所はガンガンに叩いた。いやろしろガンガンが殆どだったかも知れない。
 パモジャという店は狭い店だった。
20-30人も入れば一杯になってしまう店で、次のソロ演奏を控えている高木氏の座る場所は無かった。それで高木氏は運悪く私のバスドラムの前に座るしかなかったのだった。私は例によって思いっきりバチを振るってぶっ叩いていたのだが、ふと目の前の高木氏を見ると、彼は怯えた子羊のように両方の指で耳を塞ぎづーっと丸まったまんまになっていた。
(高木さん、ゴメンナサイ!)
私は心の中で高木氏に両手を合わせて謝った。それでも自分のドラミングのポリシーは曲げられなかったのだった。
今はただ、懐かしい思い出のひとコマである。

・盛岡のホテルでの目覚し時計の話。
 
ある盛岡市内の高級ビジネスホテルで、高木氏と同部屋で宿泊する事になった。
高木氏は下らない世俗の会話をしない人なので、私は多少ぎこちない思いもする事がある。
この夜−−−。
二人でベッドを並べて寝ていたのだが、どうにも高木氏は寝付きが良くないようだった。
「野中クン、このベッドの枕元にある時計って止められないのかなぁ・・・」
「そりゃ無理でしょう。これはベッドに備え付けの物だもん」
「じゃボク、ホテルに聞いてみるわ」
そう言った彼はフロントに電話した。
「あのう・・・このベッドの時計、気になって眠れないんですが、止めて貰うことできませんか?」
「あっそーですか。ダメですか・・・」

私は傍で失笑していたが、ベッドの時計が止められないのは当たり前の事。それでもその音が気になるというのは、些細な音にもこだわりを持つ、高木氏ならではである。どこまでも純粋な人なのである。幼児のように純な人なのである。

ドラム教本についての意見
宿泊していたホテルで私が今はやりのドラム教則本を見ていた時のことだ。
「なに野中クンそんなもの読んでるの?」

「はぁ、一応なんでも勉強しょうと思って・・・」
「ダメだょそんな本を読んでちゃあ。だって全部同じことしか書いてないじゃないの」

「ええ、まぁ・・・」
と、私は恐縮したものだ。
それでも当時はスティーブ・ガットが流行っていたものだから、別にガットが好きでは無かったとしても、彼のしていることが出来なくて嫌いなのと、出来てキライなのじゃ全く話は違う。私はガットのテクニックを出来た上でキライになりたかったのであった。でもそこいらは高木氏には分かるまい。私はなにも反論はしなかった。もし今、若いドラマーが同じような教則本を持っていたとしたら私はどう言うだろう。バカバカしいから止めろと言うか、人の出来る事は一応マスターすべきだと言うか・・・たぶん後者だろう。

・駅まで何も持ってくれなかった高木氏

 
高木氏とのツアーは全部汽車での移動だった。高木氏はアルトとソプラノのサックスを、ダニーはアルトとフルートを持っていた。私はバスドラムケースの大きくて重い物を2ケとスネアやタムのケースを運んでいた。もちろん着替えなどが入ったリュックサックにを背中に背負っている。パッと見はちょっとした引越しのようでもある。私は台車にドラムケースを乗っけて押すのだが、地面が平らな場所ならまだいいとしても、デコボコだったり階段だったり地下道だったりすると、テキメンに困った。だから移動は情けないほど辛かった。
 こんな時、私ら3人はながーい一列縦隊になった。私の荷物にちーっとも構わない高木氏。私の事が心配で振り返り振り返りするダニー。そして台車の荷物のバランスを気しながらあたふたと台車を押す私。
 自分の楽器は自分で運ぶ。これはミュージシャンの基本だが、それにしてもドラムはひとつじゃないからタイヘンだ。ダニーはスネアーのケースを持ってはくれたが、高木氏は何一つ持ってくれること無く、サッサと先に歩いていったものだ。これはこれで私は高木氏に対して恨みは無かった。

<仙人の境地>
あの人は常人じゃない。この世の人の付き合いだとか、情にがんじがらめには縁も興味も無い純粋な人なのだ。彼の頭の中は、フリーの音楽にことしかない幼児のような純粋の感性をしているのだろう。恐らく彼の頭脳の中は、フリーなメロディーが溢れ返っているに違いない
 高木氏のそういった誰にも真似できない純粋な
部分は、オイラのような世俗のアカにまみれた人間は見習うべき事が多々有る。
フリージャズのミュージシャンやったら、他の事を考えたらあかん。フリー・ジャズのことだけ考えてたらいいんや。出世欲や金銭欲、性的な欲求などはぜーへんぶ忘れて、仙人のような境地にならんといかん。それは論理的には理解していても、出来そうに無いはなしだ。いや、オイラにはぜーったいに出来ない。それだからこそ高木氏の高き境地は永遠に不動である。

<天国でも永遠に>
 高木さん、貴方は天国でも相変わらず幼児のように、天真爛漫にサックスを演奏しているのでしょうね。オイラなどは世俗のアカにまみれまくっちゃいるんですが、もし私も後で天国に行くことがあったら、また一緒にフリーをやってくださいね。相変わらず悟らないバカでかい音で叩くかも知れませんが、その時はまたカンベンしてください。
高木さん永遠に・・・合掌。


トップページ
http://homepage2.nifty.com/nonakagoku/goku/