ライブ活動30年。今だから言える、ジャズ喫茶への「大恩」と「怨念」


最初に

 オイラのように30年近くライブ活動をやっていると、一宿一飯の大恩を受けたジャズ喫茶もあるが、コノヤローと拳を振り上げたくなるような店もある。オイラのような崖っぷちに立った人間には、後も先も無い。今さら「アンタは大嫌いだ」と言ってしまって、出れなくなったとしてもどうということは無い。あの頃の怒りと感謝を新たにしてみる。
 バカヤローな店は、願わくば潰れてしまっているか、死んでしまっているのを祈るばかりだ。まだ存在している店があるとすればそれも意外だが、営業を続けていられるということは客が特別に奇特な人たちか、当時の経営者が人格のプログラムを入れ替えとしか思えない。いずれにせよ会ったら殴ってやりたい連中だ。
 


殴ってやろうかと思った店
大阪府茨城市「コル」

<事の発端>

 1984年の春のことだ。当時の「人間国宝」は「のなか悟空Dr」、「川下直弘Sax」、「不破大輔Bass」、「吉田哲司Trp」でやっていた。まだメンバーの平均年齢は30歳前後で、ばりばりに燃えている一番元気な時期だった。

 そのころ我が人間国宝バンドは関西ツアーを計画した。
当時、ジャズ批評社で刊行していた『ジャズ日本列島』で、大阪府の茨城市にある「コル」をチェックした。その店は月に一度、第4日曜日にライブをやれると書かれてあったからだ。オイラは上京する前に、同じく大阪府の高槻市の兄の家に居候をして梅田にあるジャズ喫茶などでアルバイトをしていたこともある。茨城市が隣の市だということもあって、親しみもあり一度くらいは顔も出したことがある。

 さて、関西ツアーを計画するに当たり、第4日曜しかライブを出来ない「コル」をまず軸として、ライブの交渉をすることにした。当時のマスター(今も同じ人かは知らない)は乗り気ではなかったがオイラはプッシュして、どうにか予定月の第4日曜日に「人間国宝」のライブを入れてもらうよう約束を取り付けることに成功した。
 
 話が決まるまでのオイラの努力は大変なものだった。
当時昼間はガードマン、夜はクラブでのバンドマン、そしてライブ活動は荻窪の「グッドマン」や西荻窪の「アケタの店」を拠点にやっていた。当時はケータイ電話も無かったため、ポケットに10円玉をどっさり詰め込んで公衆電話に入り、バンドの演奏の合間合間にあっちこっちのライブハウスに出演交渉をするのである。
 「コル」の場合もそうだった。そうしてやっと第4日曜のライブの約束を取り付けると、それを核として他の大阪府下(岸和田の「シンバル」、「ブルーノート」)などの交渉に当たり、名古屋の「ラッシュ・ライフ」や、九州の長崎や熊本、宮崎のライブハウスとの交渉に入った。
 
 このツアーでさんざん交渉をしたものの、我々のライブ予定が組まれたのは4店だけだった。それはそれで新参者の我々にしては上出来だった。というのも「人間国宝」のギャランティーは公称10万円だったからである。たしかコルとのギャランティーの約束はその半分の5万円ほどだったと記憶している。


<勝手な都合>
 やっとこさ仕事を取り、やっとこさを組んで、ツアーを開始しようと細かな旅したくをしながら、数日前に日程確認の電話をコルにしたら返って来た返事は非情なものだった。
「ちょうど大きいのをやることになったから、キャンセルしてくれる?」
「えっ?どーいうことですか?」
「近藤利則は京大の出身なんだけどさぁ。のなか君たちの予定していた第4日曜日に近藤利則をやることになったんだよ。」
「じゃあボクらは大きくないと?」
「いや、そういうワケじゃないんだけどね・・・」
後は取り付く島も無かった。

 情熱だけでライブの予定を組み込んでもらったこっちもこっちだが、それを受け入れ了承した時点で我々のバンドの予定が組み立てられていったのだ。いったん組みあがった予定というものは、たとえそれが関西と九州でたったの4店舗とはいえ、我々若いバンドとしては、倒れて已まずというほどの意気込みがあった。それが直前でキャンセルされた悔しさは、想像に余りある。しかも今度『大きいのを』をやるから、という理由だからこそ余計に腹が立つ。

 不運はそれだけではなかった。
コルだけならまだしも、九州の長崎でも店に着いたとたん、玄関口でキャンセルされてまったのである(後述)。


<オオカミさんの「ピュー!」で吹き飛ばす?>
 オイラはそのご埼玉に住んでいたが、兄のいた高槻市にたまに帰っていた。散歩がてらに茨城市ので足を伸ばし、コルの前に立った。それはまるで「3匹の子豚」に出てくる中の兄弟、フーちゃんの木の家のように粗末な建物である。マスターを見かけたらブン殴ってやろうか、それとも店をぶっ壊してやろうかと拳を握り締めた。
(火ぃ点けたろかい?)
それほどの怨恨さえ抱いたものだ。
(ワシら無名のジャズマンは、気楽にキャンセルされちまう悲しい存在なんやなぁ・・・。今に見とれ。東京で有名になったるかななぁ・・・。)

 あれから20年・・・オイラも川下直弘も不破大輔も吉田哲司もそこそこのジャズマンになった。オイラ以外はコルに対する怨念はなにもないだろうが、オイラはあの事件を絶対に忘れることは無い。

 あの当時のマスターは生きているのか、死んでいるのかは知らない。生きていれば改めて真摯なお詫びをしてくれるか、一発ブン殴らせて欲しい。
 ネットで検索すると現在でもライブを続けているらしいが、現在出演しているミュージシャンたちには一切の恨みつらみも無いので念のため。もちろん近藤利則氏にも。
 


長崎県のライブハウス「?」
<玄関先で断わられる>
 上記にある大阪の茨城市と同じツアーでのことだ。
ツアーに出発する前日、確認のために電話を入れた。この時点では予定通りライブを出来るはずであった。
我々が大阪府岸和田の「シンバル」の演奏を終えると、仕事の取れなかった中国地方をするーして、遠路はるばる長崎県まで行き、そのライブハウスの玄関前までたどり着いた。
ところがとどうだ!

「悪いけど都合でライブを出来なくなったんですよ」
店主と思われる女が言った。
「えっ?」
オイラは疲れと憤りで二の句が告げなかった。
女店主は多くを語らず、『とにかく引き取って欲しい』と取り付くシマもない。仕方なく我々はその店の玄関前から退いたが、後にも先にもこんなに惨めで情けない屈辱を味わったのは初めてだった。

 オイラだってメンバー3人を連れ、全て一般道でトロトロと走ってきたのである。ガソリン代もかかればメシ代もかかる。遊びでライブ・ツアーを組んだわけでは無い。その間の休業補償とまでは言わないにしろ、当日キャンセルである。せめて約束した金額の全額か、せめて半額でも支払ってもらわなくては困る。そのことをこの店を紹介してくれたミュージシャン(Kクン)を介して抗議すると、当初は『約束した金額の半額、4万円を支払う』ということで合意した。

 埼玉に帰ってから、何度かそのライブハウスに電話でキャンセル料の支払いを要求したが、「金が無い」ということで支払いを渋られ、それさえも「さらに半額にしてくれ」と値切り交渉をしてきた。こちらとしても全く貰えないよりはマシか、との判断により、妥結額を2万まで下げて泣いた。

 ところが・・・その店はその2万円でさえ、小一年ほど経つというのにいっこうに支払ってくれる様子がなかった。それをその店を紹介してくれたミュージシャンKクンに言うと、Kクンは『交渉してみる』ということで、電話かそれともたまたま長崎に行ったついでか、交渉をしてくれた。その結果、やっと約束の2万円を貰うことが出来たのである。ツアーが終了して既に1年以上経過してからのことだった。

 今思えば・・・果たしてその2万円は本当に店が払ったのか、それとも紹介した手前、ライブの約束が破綻しキャンセル料を払わないようなバカな店を紹介した自分を恥じて、そのKクンが自腹を切ってくれたのか・・・とも思える。

 当時のスケジュール帳を見ると、残念ながらその店のある市の名と店の名前は、怒りに任せて塗り潰してあり、判読不能だ。したがって店の名前は分からなくなってしまった。

 こういったいい加減でデタラメなライブハウスの経営者に限って、『ジャズがどーのこーの』と能書きを垂れ、いっちょ前に屁理屈をこね回しているから堪らない。こいつらはいっけんジャズの発展や浸透に関与して音楽文化の担い手のような面をしてはいるが、こいつらこそジャズマン達を潰し、足を引っ張っている連中に他ならない。





一期一会の大恩がある

岸和田市の「シンバル」
<上記の続きのツアーにて> 
 この時のツアーでやらしてもらったのが、大阪は
岸和田市の「シンバル」だった。
メンバーはオイラと川下直弘、不破大輔、吉田哲司だ。ギャラは10万円。

 当日演奏を始め、1曲目を終えると経営者からクレームが付いた。
『すいません。音量を下げてください。このマンションは階上が全部住居になっていて、近隣がウルサイんですよ。その筋の人たちも結構住んでいるもんですから・・・』。
というので、已む無くオイラはスティツクをブラシに持ち替えて、1ステージを終了した。

 それでも季刊の<ジャズ日本列島>には、あの山下洋介氏も演奏したことがあると書いてあった。だとすれば我々の音だってOKなのでは?とも思ったが、ここでも経営者に
『すみません悟空さん、ブラシでも音が大きいのでもっと音量を下げてください
と言われた。
 こうなってしまっては、我々としてはツノをもがれたカブトムシ状態である。我々のバンド、人間国宝のいいところを何も出せずライブをやらざるを得なかった。オイラは全てブラシで、しかもさらに弱音で、不破大輔は生ベースで、吉田哲司はトランペットにミュートを付けて演奏した。それこそ高級ホテルのラウンジで演奏する黒服状態だ。我々は演奏しながらも肝心のギャラを貰えるかどうかが不安で、お互いに捨てられた子猫のような顔を見合わせながら困惑しきった演奏を展開していた。

 嬉しいことにこの店は、簡単だが(失礼!)打ち上げもやってくれた。メニューは簡素な焼きソバと飲み物が少々。それはそれでその好意に感謝した。その時に見せてもらったのが、山下洋輔がやった後の打ち上げの写真。ついついオイラはその打ち上げのテーブルの席の上にある、華やかな料理の数々に目を奪われた。かたやこっちは焼きソバだ。これには他のメンバーたちも口にこそ出さなかったが、同じ思いであったろう。仕方ない。我々は無名なのだ。集客で出来ないのだ。

 それでも嬉しいことにこの「シンバル」
さんは、我々のためにホテルも用意してくれていた。といっても近所のラブホテルの1部屋に4人で泊まったが・・・。それはいい。それはこちらの条件として、『寝れるところがあればどこでも構わない』という条件だったからだ。むしろ我々にとっては嬉しかった。
 ところが我々が心配なのは、約束したギャラを
貰えるかということだった。それでオイラは言った。
『大丈夫。もし約束のギャラが貰えなかったら、店にあったウッドベースとレコードを10万円分引き上げる。』

茨城市の「コル」に数日前にキャンセルを食らい、オイラの心も荒れていた。

 ところが翌朝、ホテルを出て店に行き、次の演奏地の九州に行くための挨拶をしに伺うと、経営者から封筒に入った約束の10万円を頂いた。オイラたちの心配は単なる杞憂に過ぎなかった。我々は大いに喜んだのだった。

 
経営者サイドから見れば、大して客も集められないバンドを呼んだことで後悔はしているかも知れない。だがジャズマンを育てるということに於いて、大いに貢献してくれたたという、ひとつの仁義というものを感じた。ジャズはやる方も赤字だが、育てる側も赤字なのだ。そういう意味でジャズ屋の風上における大した経営者さんだと、いまでも感謝している。
 
 おかげで当時のメンバーだった者たちも、今ではそこそこのミュージシャンに育っている。特に不破大輔は有名になった。こういったこともひとえに、「シンバル」さんたちによって育てられたのだと大いに恩義を感じている。今のオイラで良ければ、格安で演奏に出かけ、恩返しをしたいものである。




名古屋の「ハックフィン」

その理由
 オイラが<東海道ドラムソロツアー>と銘打ち、オンボロの軽のワンボックスで東海道を下田の<チェシャーキャット(トランペットの庄田氏経営)=後日庄田氏とのデュオ『辻説法LPを自費出版』>を皮切りに、ジャズ批評社の「ジャズ日本列島」を片手に、演奏の出来そうな店では飛び込みで演奏をしに行ったことがある。あれは25年ほど前のことか。ツアーの条件は『基本的にギャラは不要。ただしお客がいればチャージバックで欲しい』という、河原乞食のようなスタイルだった。
 その時に名古屋の千種区?にあった「ハックヒン」という店では、飛び入り参加に快く応じてくれた。当夜の編成はバンオリンの男性しか記憶に無い。あと1−2人の楽器が有ったように思える。お客さんは7−8人来ていたようだ。

 演奏後、オイラは自分の軽のワンボックスの中に泊まる積りでいた。だって勝手に飛び込みしたのだから、食べるの寝るのといったことは自己責任である。ところがこのハックヒンの女性経営者は、演奏後に簡単な食事を出してくれ、またオイラ独りが寝るためにわざわざホテルを取ってくれたのである。それはラブホテルだったような気もするが、そんなことはカンケーない。この女性経営者の気持ちに感謝の言葉もないほど嬉しかった。

 こんなソロツアーを勝手にしても、それに快く応じてくれた「ハックヒン」のような店が有ったからこそ、オイラのような流れ者のドラマーが、頑張って叩いていけた。ハックヒンのママさんは記憶しているかどうかは知らないが、オイラの中では永久に感謝し続けている。もちろん何かのイベントがあれば、ギャラなどは問題外。恩返しに駆けつけたいと思う。



岐阜の「U-5」
その理由
 上記、<東海道ドラムソロツアー>と同じ時、岐阜の柳ケ瀬が近いという、たしか・・・「Uー5」という店でも、飛び込みのライブに応じてくれた。マスターは若干のカーリーヘアーで長身、そしてプロレスファンの(当時)34-35歳?の男性だった。私もソロをやったが、その夜はサックスの柳川氏(現在もフリーのインプロで活動中のようだ)とのデュオをセッティングしてくれた。客も集めてくれていて、たしか満員に近い状態の前で演奏できた。もちろん演奏終了後には、打ち上げもやってくれた。

 この夜、数千円ほどののチャージバックのギャラを貰ったような気もする。しかもマスターの自宅に泊めていただき、 食事まで頂いた。この夜のことで忘れないのは、マスターの自宅に当時流行っていた『フロレススーパースター列伝(梶原一騎原作)』のマンガ本シリーズが全巻そろっていて、オイラは一睡もせずに朝までそれを読んでしまったことだ。しかも翌朝も食事をご馳走になって、次なる旅の大阪を目指して軽カーで旅立った。

 こういったマスターに支えられて、あれから既に25年ほどもドラムを叩き続けて来れたのである。自分だけの頑張りだけじゃなかった。そういう意味でたまには立ちどまり、振り返って感謝することを忘れてはいけない。何かあったらいつでも駆けつけて、ドラムで恩返しする積りである。


熊本の「ジャズ イン ソワレ」
その理由

 1984年の春、当時の「人間国宝」は「のなか悟空Dr」、「川下直弘Sax」、「不破大輔Bass」、「吉田哲司Trp」でやっていた。まだメンバーの平均年齢は30歳前後で、ばりばりに燃えている一番元気な時期だった。そのころ我が人間国宝バンドは関西ツアーを計画し、前記にある岸和田の『シンバル』でライブをさせてもらい、長崎で玄関キャンセルを喰らい、熊本市の『ジャズ・イン・ソワレ』に来た。当時のバンドのギャラは10万円。泊まりはどこでもいいから、寝れる場所を提供してもらうという条件だった。長崎でとんでもない目に遭ったものだから、このソワレでも心配していたが、長崎や大阪府茨城市の『コル』のような、直前の非常識極まるキャンセルは無かった。

 小6の修学旅行以来の熊本では、熊本城を見学した。
12歳当時の記憶は大して無かったが、部分的には忍者返しの石垣を覚えていた。小6修学旅行の熊本城見学のための、熊本城の歌も習った。たしか2番だったが記憶にあった。この歌を口ずさみ、20年以上の昔の先生や同級生を回想した。

もみじのツタが 赤々と 
からむお城の 石垣に
夕日を浴びた イチョウ葉が 
鳥の飛ぶように 散っていく

 この夜のゲストは福岡住まいのブルース(またはフォーク)歌手の山本シンが来てくれた。それでも客は数人ほど。ソワレのママはそれほど金持ちには見えなかったが、それでも客の不入りを顔色に出さず、我々ミュージシャンにもごく普通に接してくれた。それが嬉しかった。
 だから我々も頑張って演奏した。ベースの不破大輔などは演奏が始まって間もないというのに、頑張りすぎて立てたウッドベースの周りをベースを弾きながら回ったものだから、急逝貧血にでもなったのだろう。ゲロを吐きにトイレに駆け込んだ。トランペットの吉田哲司は客も少ないというのに、テーブルの上に立って吹いた。とらかく我々は期待にこたえるべく、トコトン頑張ったのだった。

 夜はどこに寝たか記憶に無い。たぶん店の中に泊まらせてもらったのだろう。当時の我々が若輩モンで、頑張りだけが売り物だったが、それにも何も言わず、ディスカウントもせず、黙って10万円を渡してくれた時には、心から頭を下げた。と同時に、このママさんに後悔させないためにも、これからもガンガン演奏を続けるぞと密かに誓ったものだった。今だから言う。『ママさん、ありがとう!その節は大変お世話になりました。ボクはまだしも、おかげさまで川下直弘も不破大輔も今では有名になっていますよ。みんなママさんたちのおかげでした。』


絶対に忘れない!
寂しかったね。北海道のライブハウス2店
1984年7月の東北・北海道ツアー

 オイラの人間国宝ライブの東北・北海道のライブツアーは、話が決まるまでの手間と努力は大変なものだった。
当時昼間はガードマン、夜はクラブでのバンドマンをやっていた。その暇をみて毎月毎月、コピーした手書きのポスターに、オイラ自身のスケジュールとバンドのスケジュールを書き、それに『いずれは東北・北海道へのライブツアーへ行きたい』との、長々とした手書きの手紙を添えて送った。さらに当時はケータイ電話も無かったため、バンドの演奏の合間合間やガードマンの仕事の合間合間に、ポケットに10円玉をどっさり詰め込んで公衆電話に入り、あっちこっちのライブハウスに出演交渉をしていたのである。

 その結果、晴れて東北・北海道のツアーが取れた。
東北で4店、北海道で5店の合計8店を、大して間もおかず最も理想的な形で日程を組むことができた。東北は1984/6/29会津若松の『トム』、1984/6/30福島の『パスタン』、1984/7/2陸前高田の『ジョニー』、1984/7/3盛岡の『パモジャ』、日時不明で弘前の『ユニオン』。北海道では1984/7/5札幌(場所忘れた)、旭川『(たぶん)邪図院志乃』、苫小牧(店名記録なし)、そして室蘭『Dee Dee』だった。
 当時、若さと情熱だけの当時の人間国宝メンバーは、オイラと川下直弘(サックス)、不破大輔(ベース)のトリオだ。ギャラんティーはそれぞれの店で10万円、宿は横になればどこでもいいという条件で取った仕事だ。その結果、ゲットしたギャラが83万円(意気に感じてディスカウントした店が2つあった)、経費を引いて皆で均等に配分したが、当時赤貧の我々には想像を絶した金額である。帰りの東北自動車道の休憩所で札束踊りと称し、万冊を上に投げ上げては、舞い落ちてくる万冊見て踊り大笑いをしたものだ。


札束踊りをするワシと不破クン



 さて、このツアーの途中に立ち寄ったのが、ライブも(たまにやるであろうと情報では得ていた)やるジャズ・喫茶、八雲町の『嵯峨』と、岩見沢の『志乃』だった。これらの店には前に述べたように、毎月のようにライブ・スケジュールと手書きの手紙を送っていた。それはこっちの勝手だし、こっちの独りよがりの思い込みだが、当時の私にはこういった店に対し、「醜女の深情け」に似た、一方的な親近感と思い込みがあった。
 はるばる海を越えて、念願の北海道ツアーを達成できたのだ。これまで手紙を送り続け、電話連絡を取り続けてきた。今回はライブを組むことはできなかったが、店に挨拶に立ち寄るのも、ひとつの礼儀だと思っていた。そのためについでとは言いながら、わざわざ場所を探して3人で挨拶に立ち寄ったのである。

 ところが・・・席に座って自己紹介をした我々に対し、店の対応はそっけなく、期待はずれだった。
ま、それはそうかも知れない。こっちの思い込みが過ぎたのだろう。店側とすれば、ライブをやりたいミュージシャンは腐るほど居ることだろうし、それらにいちいち丁寧な対応をしていたのでは疲れちまうのだろう。それとも個々の性分か?私ら3人はなんだか針の筵に座っているような居心地の悪さを感じていた。
 これは私の乞食根性の期待だったが、コーヒー代を支払う際に、
『遠路はるばるご挨拶に来ていただきましてご苦労様。コーヒーの代金は要りませんよ。今後とも頑張ってくださいね。』 
などという言葉を期待したのだが、それは甘かった。愛想も言われず、カッチリと3人分のコーヒー代を取られてしまったのである。ことに岩見沢の方は辛かったね。なにも知らないバイトの女だったのか?
 ま、いずれにせよ、それもこれもビジネスだからしょうがないわな。だが私らの若いジャズマンのやる気を、すっかり削いでしまったことは事実だった。そこで不破と川下に言った。
ここでコーヒー代をカッチリ請求されたのを忘れまいぞ。いつか有名になっても、こういう店では絶対ワシらのギャラは、ディスカウントはしねぇようにしようぜ。』

 ジャズ喫茶と言われた、70年代の生き残りのジャズのライブをやる店は、かつての我々にとって、助力してくれた店が幾つもあった。だがその反面、音楽についてさんざん能書きをこいて、生演奏のチャンスを与えてくれなかった店も多い。

 何年か前、新潟の某ジャズ喫茶が、著作権問題で話題になり、私の掲示板にもそういった問題について理解や協力を求めるような書き込みがあったが、私は拒否した。その店にも若かりし頃、出演交渉をしたことがあったが、あっさり断られてしまった記憶があったからだ。

 (北海道の2つの店を含め)多くは経済的な事情であろうが、そういった店は若かった我々にとって、ジャズ演奏の障害にさえなれ、ツメの先ほども味方とはなり得なかったのだ。