人生は半分後ろ向き前進じゃ

主旨 
ニンゲンも長いことやっていると、猪突猛進だけで前進するだけじゃなく、たまには後ろを振り返りつつ人生を咀嚼するのもいいものだと思う時もある。
よって、たまに日記を掘り返し、昔のことを思い出しながら記録してみようと思ったちゅーワケ。



3113.人生半分後ろ向き/1

 アラカンおやじとして、過去を身辺整理しつつも、捨てきれない日記などをアップ公開して、人生を前向きに猛進するだけではなく、半分は後ろを振り返って生きていきたい。名付けて『後ろ向きの前進』。一度ならず2度も焼き捨てようと思った日記だが、ライブ関係を主として公開しょう。20年前のジンコク日記、ライブ日記も出て来て懐かしい。思い出を公開・共有して、灰にしょう。



3119.人生半分後ろ向き/1-1 返信 引用

名前:のなか悟空 日付:2010/1/15(金) 22:26
■アラカンおやじだもん。人生を前向きに猛進するだけではなく、捨てきれない過去を日記などを整理しつつ、半分は後ろを振り返って咀嚼しながら生きていきたい。名付けて『後ろ向きの前進』。

<1987.11/22東京大学学園祭>の日記より抜粋
★ サックスの近藤直司に今度、東大の学園祭で演奏する旨を告げると、
『えっ?東洋大ですか?』だと−−−。
『ちがうよ、東大だよ』
『東海大ですか?』
東海大の出身の近藤には、東大と言ってもピンと来ないか、冗談だと思ったようだ。
『違うってば。東京大学だよ』
というと、信じられないという返事が帰って来た。ウチら『人間国宝』は、学園祭などにはトント縁が無いのに、いきなり東京大学だもんね。高卒のオイラには、とてつも無いことに思えてしまう。

 アジア・アフリカ研究会から招かれて、2時間のスライドとトークの後、ジンコクで30分ばかし演奏することになった。何の曲をやるかもなーんも決めていなかったが、セッティングの最中に近所の校舎からチャラチャラしたせせっこましいバンドの音が聞こえてきたので、
『おめーら、まだワカランのか。黙らっしゃい!』
とばかり、我々の座右の銘のようなナンバー『血血闘』を、一発ブチかますことにした。

★『オレ達ゃバカを売っんだから、バカという面ではオメーら東大生より利口だぜ!どかーん!!!』
その瞬間、他の校舎の窓を一斉に閉める学生の姿が見えた。俺のライブは客が少ないのが通例だが、東大の階段教室とて例外じゃない。果たして−−−ワシらの5つ星の激辛演奏を最後まで聴ける骨のある奴は、何人いるか?

 少ない聴衆の中に、俺の運命の鬼人、情報センター出版局のH局長の姿があった。後で知ったことだが、H局長は先日オイラが持ち込んだ「アジア横断ドラム旅」の原稿をテイよく断ろうとして、その口実を探しに来ていたらしい。

つづく



3135.人生半分後ろ向き/1-2 返信 引用

名前:のなか悟空 日付:2010/1/20(水) 9:2

3119の「人生半分後ろ向き/1-1」の続き

■近藤直司よ 死んでくれ
 俺と不破はブッ飛ばす−−−。
近藤はノーマイクでノタうち回るが、その音は俺の音にかき消されて殆ど聴こえない。たぶん多数の観客には殆ど聴こえないことだろう。だが−−−こで俺がボリュームを下げれば、精一杯叩くのを潔しとする俺のドラムが、精一杯じゃなく精ゼロ杯か、精マイニス杯になっちまう。
 
 たかだかバンドの音のバランスが良くなるだけの話だ。
だいたいバンドなんて100有れば100バンドとも音のバランスがいいに決まってる。たまにバランスがメチャクチャのバンドが有ったっていいじゃないか。

 ボクシングというスポーツは、ほんの数キロの体重差でランクが幾つも違っている。プロレスにだって大まかな体重別がある。だが相撲には体重差が100キロ以上あっても、相撲協会は何とも言わない。
 何故か−−−?
小兵力士が小兵力士にしか出せない技で勝っちまうことが有るからである。あの巨漢の小錦が小兵力士に何度も倒されるのを見るとナットクできる。

 じゃあ、こで近藤はどうすればいいのか−−−?
話はカンタンだ。「死ねばいい」のだ。音なんか聞こえなくったって、死ぬほど吹きまくればいいのだ。
 一寸の虫にも五分の魂というが、一寸の虫が10分の魂どころか、20分も30分も出しちゃって、破裂して死んじゃえばいいのだ。それくらいしないと人の横っツラを張り倒すほどの感動は与えられないのだ。

 5年以上も一緒にやっている近藤はそれをよく知っている。聴こえる、聴こえないの問題ではなく、吹くという事に命をかける。

つづく




3141.人生半分後ろ向き/1-3 返信 引用

名前:のなか悟空 日付:2010/1/23(土) 17:15

3135.人生半分後ろ向き/1-2の続き

■数ヶ月を30分に凝縮−−−。
 それは不破とて同様である。顔面に苦痛とも歓喜ともわからん表情が、こねくり回す粘土細工のように不規則に現れ、大気中の酸素をより渇望して、心肺機能が極限状態で格闘しているようだ。

 俺は迷彩ファッションに自作のピーターパンのようなシカ皮のベスト。毛皮の下にシャツを着ていたが、毛皮がビチャビチャになるほど大汗をかきながら、数ヶ月にも及ぶアジア大陸横断ドラム旅の感動を僅か30分の演奏の中に凝縮させるかのように、叩いて叩いて、叩きまくった。


■ワシらの演奏は◎◎か××しか存在しない−−−。
 もし我々の演奏を聴いて感動するとしたら、タダモンではない。
普通のニンゲンには解らない。バカにもモチロン解らない。バカもバカ徹底的に大馬鹿者か、天才のような知能と感受性、そして人生の辛酸と地獄の責め苦を味わった奴にしか解らないのだ。

 それゆえ演奏の評価は、中途ハンパな○や△は存在しない。いや、こっちから願い下げだ。ワシらの演奏は◎◎か、はたまた××しか存在しなくてケッコーなのである。




3142.人生半分後ろ向き/1-4 返信 引用

名前:のなか悟空 日付:2010/1/23(土) 18:35
3141.人生半分後ろ向き/1-3の続き

■東京大学での学園祭ライブでH編集局長は−−−。
 情報センター出版局のH局長は、テイよくオイラのアジア大陸横断ドラム旅の口頭企画を断ろうとして、学園祭のライブを聴きに来ていたらしい−−−H局長は演奏終了後にとっとと帰ったもんだから、(やっぱワシの旅は本にゃならんか・・・)と、諦めたのだが・・・結果は全く逆だった。

 『旅のことでも何でもいいから今、悟空さんが思っていることを書き殴ってきてくれませんか?』と言われ、さっそく県営住宅の窮屈な部屋で、粗大ごみの日に拾って来た机にかじりついたのである。そのイデタチたるや・・・続きを書こうと思ったが、このシリーズはここでオワリ。笑。






3116.人生半分後ろ向き/2
<1987.12/31-1988.1/2の日記より抜粋>
 <1987.12/31-1988.1/2の日記より抜粋>
 普段バイトをしている警備会社で、工事現場にて年末年始のフルタイム留守番警備を請け負う。目的は来るべきアフリカ旅行のための軍資金貯蓄のため。オンボロ1BOXカーにドラム・セットと寝具、原稿用紙、本、カップ麺数日分を積み込んで工事現場の事務所に篭る。妻子は妻の実家へ栄養補給に帰省している。

 事務所には机もある。
「バチ当たり」の原稿を書き、本を読み、ドラムを叩く。腹が減ったらカップ麺だ。だれからも束縛されず自由な時間を過ごす。だが−−−12/31もいよいよ後数時間というころ、大宮の氷川神社参道沿いの工事現場には、現場のトタンの塀越しに一般市民の新年宮参りの喧騒が響いてきた。

 ゲタの音、若い女性たちの嬌声、陽気な話し声、等々・・・。
オイラは車の中の応急の寝床で一人寝をしながら、コブシを握り締めて寂しさに耐えた。
(きっといつかは、オイラにも春は来る。来年の正月はアフリカ、キリマンジャロ山で迎えるのだ!)

 翌朝、元旦早々、工事現場でドラムの叩き初め。
トタンの柵で囲まれた外では、参拝客がひきも切らない様子。現場でどんな音がしょうが、誰も気にしないからカンケーねぇ。工事現場内でドラムを叩きゃ、ドロボーだって来るワケない。

 いい仕事してるねぇ・・・正月返上で来るべき時に備えて労働に汗を流す−−−『欲しがりません、アフリカに行くまでは・・・』。
昼勤務=6300円×3、夜勤8700円×3、合計45000円ナーリ。


 



3117.人生半分後ろ向き/3 返信 引用

名前:のなか悟空 日付:2010/1/11(月) 22:27

<1988.1/17=大和市の足穂ライブ>
 ジンコクのいつもの3人+ゲスト。ゲストには全く記憶が無いし、我々いつもの3人の演奏もなんとなくパッとしなかったので、翌週の「オーム」ではフンドシのヒモを〆てかかろうと話し合った。
 
 オイラはまず打ち上げなどは参加しないのだが、年明け早々のライブということもあってか、それとも美形の若い女性も打ち上げに参加していたというのもあってか、酒が弱いくせについつい飲み過ぎて酔っ払ちまった。

 気分が悪くなってトイレに嘔吐に行くこと2度。その時、目撃したのはメンバーの1人も酔って嘔吐していた時、その美女に優しく介抱されていた。オイラだって苦しくて嘔吐しているのに、その美女はちっとも構っちゃくれへんかった。
 それでなくても泣き上戸のオイラは、右手を喉に突っ込んで吐きながらも、悲しくて涙が出っちゃったね。ツライね、3枚目。まるでフーテンのトラさんかい

 その夜は酔って帰れず、翌朝まで店の倉庫にあった布団を被って寝たが、起きた時はダニだか何だかに食われて痒いのなんの。その痕は3月まで残っていたほどだ。新年早々のツイテないライブだったのね。とほほ。




3118.人生半分後ろ向き/4 返信 引用

名前:のなか悟空 日付:2010/1/12(火) 15:15

<1988.1/24=「おーむ」ライブと、いい人は優しいのよね>
 「おーむ」でのライブはワシらの実力テイトだと常々公言している。店主のヒロシ初め猛者の常連客たちが突っ込みどころはないかと、虎視眈々とワシらを狙っているからだ。
 だが、本日の客層はといえば、T大教授のM氏が2人で、情報センター出版局のH局長が部下2名と、そしてジャズ批評家の副島先生、さらに「おーむ」常連の猛者たち。狭い店内は立ち見の様相を呈していた。

 かといって・・・ヒロシや常連や副島氏はよりハードな演奏を要求するし、H局長以下のサラリー・マンには多少手加減した演奏をせねば理解できまい。よって硬軟織り交ぜた演奏をすべしと肝に命じ、現在が最高の状態にある不破&近藤とのトリオで局地戦争のようにぶっ飛ばした−−−まるでPTA参観の児童のようなキモチで演奏したのだった。ふぅ〜っ。


 演奏終了後、千葉県K市の美女から「会いたい」との電話連絡があり、K嬢が待っていると言う小岩の「デニーズ」までいそいそと迎えに行き、小一時間ダベる。実に2年振りである。それでもまだまだ話は尽きず、随分遠回りながら(俺は大宮)千葉のK市まで送って行くということに。
 余談だがK市までの沿道には色とりどりのラブホ街が林立している。オイラはそれらをチラチラと横目に見ながらも、言い出したい一言を言えずに、ハンドルを握っていた・・・。

 K嬢はこまごまと道案内をしつつ、いよいよ降りる段取りになった。
「あれっ、もう降りちゃうの?そ、そんな殺生な・・・」
「今日はダメなの。明日朝7時から仕事なの。また連絡するから・・・ねっ」
そう言ってホッペにお別れのチューを。
「うん・・・」
オイラは聞き分けのいい子供のようにコクンと頷いた。
「いい人って優しいのよね・・・」
K嬢はうつむき加減にそう言い残すと、ミニスカートの裾を気にしながら助手席から豊満なヒップをずらして降りた。
「バイバイ」
K嬢が手を振りながら長い髪の後姿を見せると、オイラも反射的にバイバイを−−−その後の柏から大宮までのぐるぅ〜と16号を遠回りした道のりの遠かったこと、遠かったこと・・・。

■後日談⇒そのごK嬢からは全く音信不通。風の噂でケッコンしたと聞いた。




3145.人生半分後ろ向き/5 返信 引用

名前:のなか悟空 日付:1月27日(水) 10時34分
■アラカンおやじだもん。人生を前向きに猛進するだけではなく、捨てきれない過去を日記などを整理しつつ、半分は後ろを振り返って咀嚼しながら生きていきたい。名付けて『後ろ向きの前進』。

■1988-3/5 ライブ日程取り
@茨城のA店
 10年近く前にグンドマンのマスターとやっていた「リンボトリオ」で出させてもらったことがある。以来10年・・・毎年交渉をしているが毎年毎年「いずれ・・・」という返答を受けつつ10年が経過してしまった。そこの10年間、私自身の「やる気」は少しも衰えるどころか、ドラムを担いでアジア大陸を横断したくらいだから、むしろやる気に溢れすぎていたほどだ。

 だが・・・誰も「アナタのこと知らないから」という返答で、今回もスルー・パス。よほど私の印象が悪かったのか、それとも「リンボ・トリオ」の評価が悪かったのか・・・私が10年近くに渡ってプッシュしてきた「やる気」と「熱意」は評価してくれないのか・・・いったい何考えとんじゃい!という怒りもあったが、気持ちを押し殺して受話器を置いた。


A埼玉のS店
 この店もそう遠くない県内にある。数年前からプッシュしてはいるものの、マスターは『いずれシルクロードの話を聞かせしてください』とは言ったものの、3ヶ月くらい先までは予定が一杯とのこと。結局はヤンワリと断られていると解釈して受話器を置く。

B高円寺のJ
 一度は店に足を運び、電話で問い合わせをした際には、「カセットを送ってください」ということだったので送った。以降、何度か「カセットを聴いたか」と電話連絡を入れたが、ずっと「まだ聴いてない」といわれ続けたため、出してくれる意志が無いものと思い、出演交渉を諦めた。私と不破と川下のトリオだった人間国宝・・・どこに出ても恥ずかしくない演奏が出来るバンドだったのに・・・。

結局は@もAもBの店も私の電話帳の項を塗りつぶした。

■ライブを取る困難さはずっとトラウマになって残っている。だからワシはライブを取るのが苦手だ。




3160.人生半分後ろ向き/6 返信 引用

名前:のなか悟空 日付:2月3日(水) 8時37分
■アラカンおやじだもん。人生を前向きに猛進するだけではなく、捨てきれない過去を日記などを整理しつつ、半分は後ろを振り返って咀嚼しながら生きていきたい。名付けて『後ろ向きの前進』。

■1988-3/13の日記より/北海道へ行きたし
 今朝、北海道のライブハウスに何軒か電話をした。
紋別の「スガイ」では、提示した額を「安いね」 と言ってくれたが、他の店ではギャラを聞く前に「今、キツイです」と言うのが殆どで、問題にならなかった。特にひどかったのは「コーヒー屋 嵯峨」で、「今ウチは忙しいので。ガチャ!」と取り付くシマも無かった。

 嗚呼、よくもこんな店に10年以上も前から資料を送ったり、自費出版のレコードをタダで送ったりしたものだ。ええい、情けないことだ。こっちが思うほど先方は何とも思っちゃいなかったのだ。俺もよくこんな連中のところでやりたくて、何年も費やしたものだ。我ながら情けなくなってくる。ジャズを始めた時点で、既にジャズは敵だったのだ。

 今度計画している東北・北海道ツアーは、下手をすると陸前高田の「ジョニー」と、室蘭だけになるやも知れぬ。それもやむなし。赤字は覚悟の上だ。だったら被害は最小限度に留めた方がいい。「嵯峨」は氷山の一角だが、「伴天連茶屋」など同様のところは沢山ある。どれもこの10年来、俺がプッシュしてきた店なのに反応は冷たい。
 
 やれやれ・・・そそもジャズを始めた時から、ジャズの半分は敵だったのか・・・。ジャズ好きを相手にしていてもしょうがない。むしろこれからは「ジャズ嫌い」を相手にしなければならないのかも・・・。


■この日記から20年以上経過−−−。
「ジャス喫茶」からも「ジャズ好き」からも「シャズ嫌い」からも、相手にされなかったジンセイではある。



3310.半世紀のタイム・トリップ/ああ懐かしや 返信 引用

名前:のなか悟空 日付:5月7日(金) 13時35分

■深夜の強風
 昨夜の風はな、そりゃあタイヘンな大風だったぞぃ。
ひゅ〜、びゅ〜ってな、真冬だったらすっげぇ木枯らしみてぇだったぞい。

 んでな、ワシ、植えたばっかしのスイカの苗とキュウリの苗が気になってな。だって去年も一昨年も突風で苗が何本も折れちまったからなぁ。そいで気になって、気になってな。夜中の1時にのそのそ起き出してよ。長靴はいて畑さ出たんだわさ。

 おお、苗が強風に晒されて細い首ツルがくらくらに揺れてるぞい。このままじゃ朝までもたんぞよ。1本350円もすっからなぁ。折れたら勿体ないわいな。

 そこでかねてから用意してあった半円ドーム状のプラスティックを被せることにしたんじゃ。1個250円位するから風に飛ばされたら勿体無いぞ。それを1つ1つ苗に被せては、帽子が飛ばないように周りに土をかけたんじゃ。そうしてたらな、思い出したわぃ。50年も昔のことをなぁ・・・。


■あれからもう・・・50年も経っちまったのかぃ・・・。
 オイラの実家はな、縄文時代からの百姓で、そりゃあ貧しい水飲み百姓だったんだぞ。家族は10−11人。今流行の大家族物語の上を行くほどの悲惨な生活だったぞぃ。

 それでな、オヤジがタバコ作ってたわけ。タバコの栽培はそりゃあもう、手間がかかって手間がかかって、汚れて汚れて、しんどくてしんどくてな、けども米以外の現金収入といえばタバコしかなかったから、作りたくなくても作るしかなかったんだわな。

 でな、タバコっちゅーのは超デリケートでな、朝の霜にやられると一発で枯れてしまうワケ。霜にやられにくいように若麦の畝の間に移植してあるんじゃが、それでも翌朝の霜注意報がでると、家族とタバコの苗に藁の覆いをかけるんじゃ。

 時期はまだ早春というには早過ぎる季節。日没が速くすぐに日は暮れてしまう。そこを降り始めた夜露に着たきりすずめのズボンの裾を濡らしてな。姉と兄弟げんかをしながら(姉がヅルくてワザとゆっくりやるから)、何反分かの畑をやらにゃならんかったのよ。そいでな、翌朝は学校に行く前に、前夜に覆いを掛けた藁をぜーんぶ外さにゃならんのょ。

 つらかったなぁ・・・けど、懐かしくもあるなぁ・・・。今みたいにビニールの長いハウス状のものがあればな。カンタンなんだろうけどな。無かったからなぁ。

 貧困ってのはオイラの家族だけじゃなかったけどな。みーんな貧しかったけど逞しい時代だったもんなぁ。なんせ、昭和の30年代のハナシだからのぅ・・・。もうとっくに両親はあの世の人。兄弟だって1人欠けちまったし、残りの兄弟はみんな孫がいる。長男なんて曾(ひ)孫がいるもんなあ・・・。

 んなことを思い出しながら、再び床に入ったのは夜中の2時ごろだった。亡くなった両親の苦労の僅かでも理解した夜だったぞぃ。





3409.ジンセイ半分後ろ向き/石川晶氏の言葉 返信 引用

名前:のなか悟空 日付:6月28日(月) 10時5分
■ゴクウだって頑張ってんだから・・・
 もう十数年も前、ナイロビでの話−−−。
当時おいらはドラムセットを抱えて、ケニアとウガンダにドラム修行に行っていた。そこでナイロビの獣医師である神戸先生のお宅で、石川晶氏(元、ワンツーどんのおじさん)夫妻を招待してファミリー・セッションをやったときのことだ。

 当時、石川氏は糖尿病の治療中だったが、流石は往年の名ドラマーの片鱗を伺わせるドラムを披露してくれた。ファミリー・コンサート終了後石川氏の言われた一言−−−。
『ゴクウだって頑張ってんだから、ワシも頑張らんとなぁ−−−』

 その『ゴクウだって−−−』に、どういう意味があるかは今となっては不明だが、
*いいトシこいた(当時四十数歳)オヤジのゴクウだって−−−
*マイナーでずっとやっているゴクウだって−−−みたいな意味もあるのだろう。

 あれから十数年、石川氏は鬼籍に入りオイラも鬼籍はそう遠くない齢(よわい)になっちまった。が、その『ゴクウだって−−−』は、またまたドラム携えて、同じドラム旅に出ようとしている。赤貧の師匠が、もっと赤貧の弟子を従えて、いったい何を得ようというのか?何のメリットがあるのか?そりゃワカラン。

 いつの日か、アフリカの大地に骨を埋めた石川氏の住む世界に行った時、彼は『ゴクウ、ご苦労さん!』と言ってくれるだろうか?それとも『下手糞!もう一回出直して来い!』と追い返すのだろうか?



金斗運/1 返信 引用

名前:のなか悟空 日付:11月3日(水) 18時36分

<つくづく考えるに・・・>
 最近つくづく考えるに、人間には運というものがあって、それは誰にも平等にあるようにも思えるが、ホントはちょっと違う。例えば鳩山ファミリーやナントカ・ヒルトンみたいに、最初っからたかーい壇上にいる連中は別にしても、やっぱ人間には運、不運がある。というのは還暦近くなって振り返って見ると、よーく分かってくる。

 ま、運がいいというのは、ある程度のアクションを起こして、その見返り効率がいいということ。例えば先週のギャンブルじゃないけど、100円で7億円当てたというハナシなどはその最たるもの。それでも100円で券を買うというアクションを起こさなければ、7億円は入ってこない。ただ寝ているだけではアカンってこと。

<運というエネルギー効率>
 で、逆に運が悪いというのは、アクションを起こして、起こして、汗流して、汗流して、頭使って、頭使って、策謀を用いて、計略を企てて、やったとしても・・・結果が、赤字の商売の人だっているだろうし、練習して、練習して、練習しても、結果的にワシのように何十年もライブを続けても客を動員できないミュージシャンも、絵描きも、マンガ家も、いいいいっっっっっっぱい、世の中にはいることだろう。

 よってワシだけが運が悪いとは思ってはいないが、それにしても40年の音楽生活で、食うや食わない時期がながーくて、頑張った割には、ワシのエネルギー効率はヨロシクないわな。いったいどこにエネルギー使ったんやろね^^。

♪写真は25年ほど前の新宿中央公園。さかんに路上ライブをやっていた時期のもの。ドラムセットは
18グレッチのバスドラ⇒まだ手元にある。
22のグレッチのバスドラ⇒売った。
13のグレッチのタム⇒手元にある。
14のグレッチのスネア⇒売った。
14のタマのスネア⇒売った。
16のグレッチのバスタム⇒バスドラに改造してウガンダに持って行き、ケニアで知人に売った。
22のチャイナ・シンバル⇒まだある。
26のジルジャンのトップ・シンバル⇒売った。
22のジルジャンのサイド・シンバル⇒割れた。

こうして苦労して手に入れた高価な2セットのグレッチも、殆どを売って胃袋に入れた。文字通り、ドラムで食べていたのである。涙。





金斗(と)運/2
名前:のなか悟空 日付:11月12日(金) 18時24分

<オギャーと生まれて運がいい人>
 ダライラマ、王家や皇族、トヨタの御曹司などなど。これを運がいいか悪いかと考えるかは置いといて、いずれにせよ生まれて来る本人には選択肢が無いワケだから、ビンボー人の悲惨な家庭に生まれるよりは運がいいと言える。

 さて、身近な例で運がいいというか、幸福な運命に守られているなぁ
と思えるのが、王と長島。王は胃ガンにもかかわらず、それを克服して監督を務めたし、長島は半身不随にはなったが、最近はなんだか快復しつつある。しかも長命。人生は終わってみなければ分からないが、この二人は幸運に恵まれた人生の見本のようなものだと思う。

 ワシも還暦が近くなってくると、自分の人生が大して幸運では無かったし、努力係数(努力とその報われる結果のこと)は相当に低いが、ナントなっている。それがシアワセかというと、努力係数が低いにもかかわらず、シアワセではある----じゃ、ええんでねぇの?ってコトになるワケだが・・・・なんとなく煮え切らないもののあるにはある。一番ウレシイのはライブで客が入ることだが、いつもあまり入らないので、やっぱりイマイチではある。


ベトナム戦争の記事と現在のベトナム/2 返信 引用

名前:のなか悟空 日付:11月22日(月) 22時50分

<学校の授業中に>
 ワシが某音楽学校で学んでいた若い時分、声楽かなんかだかの授業の時だった。ある生徒が急に立ち上がって先生に言った。
『先生、今ベトナムでは大変な戦争の真っ最中なんです。ボクたちはこんなところで安穏と音楽の勉強をしている場合でしょうか?』と。

 これには先生も驚いただろうが、ワシらも驚いた。
というのも音楽学校の生徒などというものは、世界情勢でどこが戦争しようが大地震が起きようが、大恐慌が起きようが、自分のレッスンの課題以外には全く興味が無い生き物だからである。

 先生だってまだ若く、ベトナムの戦争なんかよりは、どうしたらもっといいサラリーを貰える大学へ勤務できるか、なにかのコンサートでもあればご自慢のテノールをどんな役で披露できるかしか興味が無かったことだろう。
『そ、そりゃあキミ・・・そういうことも大事なことではあるが、我々はとりあえず教室で音楽の勉強をするのが、今僕らに出来る最大のことじゃないのかなぁ』などと言って、生徒の矛先を回避したのを覚えている。

 ワシもその時は『ああ、ベトナムでは大変なんだなぁ』と、彼の意見に賛成しないでもないが、それよりもいつも金が無く、この音楽学校の月謝をいつも滞っていて、いつ退学にされるか分からないという微妙な立場にあった。

 あれから、彼の言葉を思い出すでもなく、ずっと音楽一筋に生きてきてはいたが、ベトナムの事は常に報道がされていた。だが、ワシにはあくまで対岸の火事。自分の楽器の上達の方が、ずーっと大事だった。

 あれから学友はどうしたのだろうか?ワシは結局、月謝が続かなくてプロのドラマーになり、翌春にまた改めて別の音楽学校に入ったが、月謝の納入のためにアルバイトに明け暮れていた。



名古屋へ/野沢菜で思い出した悲しい恋 返信 引用

名前:のなか悟空 日付:12月2日(木) 21時1分

■野沢菜で思い出した恋
 南木曽の山越えの道沿いで見た「野沢菜直売」。オイラはこの野沢に悲しい思い出がある。

■挨拶言葉に下心丸出し
 今から十数年前の話。もう事項だから書いてもいいだろう。とあるところで知り合いになった白衣の天使。彼女がたまたま転職の切れ目で、スキーや温泉で有名な野沢温泉の民宿でアルバイトをしていた。その時に貰った手紙の末文に、『機会があったら野沢温泉に遊びに来て下さい』という一文があった。

 そこで兼ねてから彼女(Gさん)に好意を抱いていたオイラは、さっそくその野沢まで行くことにした。頃は冬。オンボロ車にはスノータイヤも無いが、関越道から野沢までアイスバーンになった峠道のぐねぐね道を、まさに危険をものともしないスケベ男の下心丸出し状態で車の尻を滑らせながら行ったのである。 

 十数年前のオイラはケータイをふんだんに活用していた。あいにく野沢は圏外で通じないため、公衆電話から自宅の留守電のメッセージを変更できるテクニックを使って、彼女との連絡をとった。


■温泉は熱すぎる!
 危険な雪道を何時間もかけて行った甲斐があって、昼過ぎ、ようやく野沢に到着。彼女は夕食後に時間が取れるとのことだったので、夕方までは名物の温泉にでも入ろうかと、とある温泉に行った。

 が・・・熱いじゃないか!
それでもみーんな漬かっている。そこへワシだけがジャージャー水を入れるわけにも行かず、控えめに水を入れながら蛇口のそばで足首まで漬けてはみるものの、それでも熱い!何度も何度もそれやってみたが、やっぱり熱い!
「こんな熱いお湯に入れるなんて、人間じゃねぇ!」
オイラはすっぽんぽんハダカにはなったものの、とうとう足首だけを入れただけで、名物の野沢温泉に別れを告げたのであった。

■そして再会!
 民宿の夕食が終わった頃、やっと彼女に再会できた。そのまま彼女の知っているスナックへ直行。だが生憎オイラはアルコールは嫌い。そして店内のカラオケも騒々しくてイヤだ。
 そこで河岸を変えることを提案し、下見していた別の食堂で落ち合うことにした。だが、彼女は民宿でバイト中の身ゆえ、いったん民宿に帰って様子を見ることになった。

■石の地蔵さんになる
 それからオイラは待ち合わせ場所のスキー場出口付近の食堂でひたすら彼女を待った。待って、待って、待って・・・何度時計を見たか分からないほど待った。何人かの客でにぎわっていた食堂も次第に客がいなくなり、最後はオイラだけがポツンと座り、食事の後のコーヒーも何杯飲んだか分からないくらい飲んで、胃袋はコーヒーでボチャボチャになっていた。

「すみませーん、もう看板なんですけど・・・」
と、オバサンに言われ、
「あのぅ、ずーっと人を待っているんですが、ここの駐車場に車を停めてていいですか?車の中にいますから」
ということで、Gさんが来るまではと車の中で待つことにした。

(きっと急に団体さんが来て、動けなくなったにちがいない)
きっと来る。きっと来るはずだ・・・そう思って車の中で忠犬ハチ公のように待っていた。エンジンをかけて静寂な雪景色を壊すのはイヤなので、ずっとエンジンはかけないまま。真冬の野沢は寒い。しんしんとした冷気が足元から上がってきて、何度も小用に立った。

 待ち続けてその日を過ぎてしまったので待つのを諦め、車の後部にある寝具(ドラムセットと寝具はいつでも準備してあった)に入って寝ることにした。横になっても何かの気配いがすれば、Gさんが来てくれたのではないかと、何度も首を持ち上げた。が・・・朝まで彼女は現れなかった。

■除雪車が邪魔をして・・・
 翌朝、オイラが車の中で石の地蔵さんになっていたら、やっとこさGさんが現れた。
「昨夜はどうしたの?待ち合わせ場所に行ったのに居なかったじゃないの」だって。

 あれあれ?
スキー場出口付近の食堂ってもう一軒あったんかいな?しかも向こう側の出口だってさ。やれやれ。そう言われてしまえば怒るわけにもいかず。来てくれれば昨夜の待ちぼうけも一瞬にして水に流し、目ぇをデレデレにしてしまうワシのプライドの無さ。
 
「じゃスキー場の駐車場に行こうか・・・」
と、上手くシチュエーションの設定をして、真っ白な雪山を見ながらちょっとイイ事をと、車の後部に敷き整えている寝具をチラリと確認する。
(しめしめ・・・ティッシュもあるでよぅ)

 してやったり!
早朝のスキー場の駐車場にはワシらの車だけ。ワシらを邪魔する物は何も無く、真っ白な雪景色が二人を包んでいた。
 さて、することといえば・・・
で、オイラがうまーく車の後部に彼女を誘導し、やっとこさ横になった途端-----ガガガガカ〜!!!!!
「な、なんじゃあ!」
 慌てて起き上がって見ると、早朝の駐車場を除雪車がワシらの車をめがけて突進してきた。
「おーい、そこの車どいてくれよぅ、除雪すっからよぅ!」
とは、作業員のオヤジの声。オイラは止む無く車を移動。駐車場外に出た。

■お土産に野沢菜
 雰囲気を壊されたオイラは、もはや再起することは出来なかった。いや、それも運命だったのかも知れない。オイラはGさんに再度無理強いをせず、あっさりと埼玉に帰ることを告げた。そして彼女にお土産に貰ったのが玉手箱ならぬ、一袋の野沢菜漬け。

■中島みゆきの歌で心がズタズタ
 帰り道で相変わらず車は滑って尻をふる。オイラはカーステレオで中島みゆきの曲をエンドレスで聴いた。この時ほど中島みゆきの曲がオイラの心にブスブス突き刺さったことはなかった。

 そして今でも---野沢菜を食べるたびにGさんを思い出し、ホロ苦い味を噛み締めるのである。あの時以来Gさんとは音信不通である。




3757.黄金バット 返信 引用

名前:のなか悟空 日付:12月3日(金) 8時35分

■黄金バットって知ってるかい?
 この名を知っているのは昭和20−30年代生まれの団塊世代だけだろう。「わははははははは・・・」と気色悪く哂うもガイコツ仮面の正義の味方だ。
 で、その黄金バットがワシらの同級生、大分工業高校化学工学科に居たのである。ヤツはその容貌からそのアダナが付いたのだが、ヤツの跳躍力は並外れたものがあった。

■あっ、間違えた!で8段を!
 ある体育の時間、ワシらは跳び箱(6段か8段か失念)を横に置いて、助走して両手で跳び箱をポンと叩いて、跳び箱を横に跳ぶということをやっていた。
 ワシの跳躍力は42センチしかないので、助走して行って両手で跳び箱を叩いても、飛び越すのはこんなんだというのに、その彼はピョンピョンと走って行ったかと思うと、「あっ、間違えた!」と言って両手も着かずにその6段だか8段だかの跳び箱を飛び越えてしまったのである。これにゃ見ていた同級生たちも驚いたものだ。これでヤツのアダナの「黄金バット」は不動のものとなった。

■40年超ぶりに黄金バットから電話が・・・
 この掲示板にワシのケータイ番号を書いていたから、その黄金バットから電話があった。いきなり「わははははははは・・・」と笑いはしなかったが、ヤツもフツーのオジサン風の声になっていた。彼は「もっと、そっと、やっと、のイデミツ」に居たららしいのだが、そこそこ出世はしたのだろうか?
 40超年の幾歳月を越えても、ワシの中では彼は詰襟の制服姿のままだが、今のヤツはツンツルテンのピッカピカ頭になってるかも知れない。ヤツの最も親しかった友人に、タモリと同じ名前モリタカズヨシという同級生が居たなぁ。まさかタモリじゃあるまい?




3776.人生は半分後ろ向き/中学の同級生 返信 引用

名前:のなか悟空 日付:12月17日(金) 9時5分

■同級会にて
 15歳で中学校を卒業して、その後の同級会は16歳の時。それ以降の同級会に出席したのは皆無で、突如30年後の45歳の時の同級会に出席したことがある。

 15歳の頃はキャピキャピだった娘たちも、中には老眼鏡をかけて孫の話をしていた同級生もいて、矢のように過ぎる光陰に少なからずショックを受けたものだ。それも合わせ鏡に似て、他人から見ればワシも年相応になっているのだというのが現実なのだ。

 思うに・・・ワシの出身の大分は、その地域の特性なのか、どうにも美形が少なかったような気がする。南方系のルックスだからなのか、先住民・山岳系のルックスだからなのか、半島系のルックスだからなのか?

 ま、今思えばそのいずれでもなく、全てであるかも知れないが、言えることはワシらの時代背景的に、きょうびのようにリップクリームでさえも見たことも無かったほどの昔の話だから、女の子たちも土人的などスッピン状態だったのだろう。だとすれば美人とか不美人とかの次元ではなく、健康なのか栄養失調なのかという程度の、その下の次元の話だったのだろう。


■突如夢に現れたY子さん
 人生を3分の2以上生きていると、夢の中でタイムマシーンに乗って幼少の時期に帰ることがたまにある。その多くは海外で孤独な一人寝をしている時に見ることが多く、多くは幼馴染と遊んでいたりする1桁の年令の夢が多い。

 で、昨夜見た夢はどういうワケか24−5歳の時の同級会の話。
ワシは30年間同級会に出なかったのは上に述べたが、昨夜は24−5歳で出席していたというストーリーたっだ−−−−。
『おい、アレ誰だよ?えらい美人やないかぁ?』
同級の悪童たちはささやきあっていた。そこでオイラも後ろの席を見ると・・・そこには胸がときめくような超美人が座っていて、華やいだオーラを放ちながら、同級生たちと会話に花を咲かせていた。
『あれは・・・中野Y子じゃん・・』

 そういえば中野Y子は、中学時代はさほど目立たないおとなしい子だった。成績は中程度で、もしかしてソフトボール部だったかも知れない。ただいつも重そうな胸をゆさゆさ揺らしながら、体育用の白いジャージを着て走っていたのを記憶している。

 そうかぁ・・・可も無く不可も無く、可愛いといえば可愛かった彼女の美貌に、豊かなバスト、それと名前のような八重歯、それに良かったと言えば良かったスタイル・・・あの頃はワシも大人のヤらしい目で見ていなかったから気付かなかったが、今思えば大変身できる素養があったのだ。ナルホドねぇ・・・。そういえば若い男性教員に人気があったような気もするが、そこまで勘ぐるほどワシは大人びてはいなかったもんなぁ。ルックス的にはアイフルのCMに出てる「ナントカ美佐子」的だが、もぅちっと可愛いだろう。

 人生、どこでどーなるかは誰にもワカランが、あのY子も時代が時代で、首都圏にでも住んでいたら、ナントカ美佐子のようにCMタレントにでもなっていたかも知れない。しかももっと可愛く、だ。


■老い先短くなっちまえば・・・
 それにしても・・・ワシはなんで40年以上も前の同級生の夢を見たのだろう。Y子のことなんてこの40年以上も脳細胞の隅っこにさえ浮かんだことがないというのに・・・。

 こうやって夢のタイムマシーンに乗る機会が徐々に増えていき、現実とタイムマシーンとのバランスが半々を過ぎた酔生夢死の境地で、ワシらはアノタイムマシーンの世の中に近付いていっているのだろうか?だとすれば思い出の中に遊ぶのもそう悪いことではない。




3858.年賀ハガキの当選番号で思い出したこと 返信 引用

名前:のなか悟空 日付:1月28日(金) 20時3分

年賀ハガキの当選番号を選別しつつ思い出したこと
■結核の兄は藁の布団に寝ていたのに・・・
 私が幼稚園児くらいの頃、一回り上の兄貴は結核のため中学校もロクに行けなかったが、近隣の高校に入学した。が、入学はしたものの体力が無くて通学が出来ず、隣の市の療養所へ入退院を繰り返していた。

 そんな兄は当時伝染病だと危惧されていたため、母屋とは別棟の離れに隔離して寝起きしていた。兄の寝具は布団生地の内側に綿ではなく、藁を叩いて入れたワラの布団に寝ていた。ワシは子供心にも『ビンボーで綿も買えないのかぁ・・・』と、病気の兄に同情を寄せたのを覚えている。


■そんな兄が当たった景品
 そんな兄が年賀状で当たった景品に、ブリジストンのエバーソフトという、今で言うところのベッドのマットが当たったのである。そりゃあもう、赤貧で子沢山の水飲み百姓にとってはホトケさんの恵み以外は考えられない。家族総出で仏壇に向かい、団扇太鼓を叩いて感謝した。

 当選の話を噂で聞きつけた町場の小金持ちが、我が家を訪れたのはその何日か後だったのだろう。送り届けられた真新しいエバーソフトが、まぶしく透明なビニール袋に梱包された前で、その小金持ちとの間で売り買いの話がされていた。

 子どもの私にはエバーソアフトが幾らで売買されたのかは知る由も無いが、現金収入の無かった我が家では、兄の入院費の負債に少しでも足しにしたのではないかと思われる。悲しい話だが、病弱な兄は当選したエバーソフトに一度も横たわることは無かった。


■28歳くらいで退院
 療養所を退院したのは27−28歳。
兄が10年以上入院していたおかげで、もともと多くは無いウチの田畑は何枚も減ってしまったが、兄は晴れて社会人になった。体力は無かったもののトントン拍子で出世して、100人近い中小企業で10年間で社長にまで上り詰めた。が・・・子供3人を残したまま、厄年で鬼籍に入っちまいマシタ。ジンセイ、うまくいかんもんです。




3943.縁の薄い男 返信 引用

名前:のなか悟空 日付:3月7日(月) 16時23分

■冥府魔道の血縁関係
 雨が降るので家の中でボーッとして、たまに楽器をいじっている。そんな時ふと思ったが、私は生まれた時から父方の祖父母も母方の祖父母も居なかったことに気が付いた。

 また母方の叔父・叔母は1人だけ。しかも腹違いだから叔父さんに少し遠慮があった。片や父方の叔父や叔母は3人いたが、これも全員腹違いなのでよそよそしく、正月だってお年玉さえ貰ったことが無かった。

 然るに従兄弟たちはそこそこいたが、ぜーんぶ腹違いの叔父や叔母の子どもたちだったから、子供心にそれを何となく肌で感じていて、付き合いが薄かった。

 で、両親はといえば父は12歳で、母は21歳で亡くなったから、家族の縁が薄いのだ。兄弟は多いが年令差があり過ぎて、一的な兄弟としての会話は殆ど無かった。

■だから?
 だからどーした?ってことは還暦近くなるこのトシだからカンケー無いが、人並み以上に楽器に依存したり執着したり、外国を旅することがすきなんだろうなぁ・・・なぁんてヒマに任せて考えてみたちゅーワケ。

 ただ言えることは故郷だけが希薄な血縁関係よりは恋しいし、故郷の山々だけがいつまでも恋しい。鮭やウナギが育った川に遡行するのも、なんとなく頷ける気がする。別に黄昏ているわけではないが、たまに一人でこんなことを考えるのも、今日のような雪の日には似合っていると思って。






4915.うようよ曲折/自由が丘 返信 引用

名前:のなか悟空 日付:12月4日(日) 7時23分
■5スポット
 38年ぶりに訪れた自由が丘。そこにある「ハイフン」と言う店で、昨夜ライブをやったのだ。
自由が丘といえば駅前辺りに、ジャズ評論家の「いソノてルヲ」氏の「5スポット」というジャズのライブハウスがあった。

 昔々の話だ-----ワシがまだ音楽学校の苦学生で、川崎の幸区に住んでいたころ、この5スポットで、生演奏を聞きながらウェイターでバイトをやろう、一石二鳥じゃあなどと思い、アルバイトをしたことがある。

 それが・・・・38年も前のことじゃ。
その晩の演奏はピアノがリッチー・バイラーク、ドラムが岸田敬二(字が間違ってるかも?)だった。当時の岸田さんは25-6歳か?すでにドラマーとしては有名だった。演奏は特にコレといって印象に無いが、リッチー・バイラークのコミカルなジェスチャーはよく覚えている。

 もうひとつ覚えてることは、演奏後の岸田恵二さんに向かって、「いソノてルヲ」さんが、「岸田クン、リズムがよくなったねぇ」と言っていたこと。当時の「いソノてルヲ」さんといえば、当時のジャズ雑誌では、飛ぶ鳥を落とすほどの勢いで有名な評論家だったのだ。
(ふーん、さすがは有名なジャズの評論家さん、ドラムのこともよぅ~くわかるんだぁ・・・)と感心したほどだ。
 

 
■勿体無かった黒ズボン
 で---?
ワシはどれくらいの期間、ウエイターをやったのか?
スミマセン、たったの1日、4時間だけデシタ・・。
というのも・・・4時間そわそわせずに立ちっぱなしだったものだから、足が痛くなってイヤになっちまったこと。で、翌日から無許可欠勤で行かなくなっちまったチューわけ。どうしようも無いバカな若者だわなぁ。

 で、その店のロッカーに、ワシの唯一の黒ズボンを置いてきたのが心残り。1日しかバイトに行かず、無届欠勤で辞めた者が、「ズボン取りに来ました」とは行けないからだ。だから、その黒ズボンが勿体無かったというのを今でも覚えているわけよ。38年前の若き日だったのさ。









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