紆余紆余曲折/回り道過ぎたオイラの人生

*掲示板から起こしたので、内容が多少前後している部分がある。



パート1

 思い起こしてみるに、ジンセイには回り道が何度もある。じゃがその回り道も回る方向や方法によっては、とんでもない方向へ逸れて行ってしまう。オイラのジンセイの場合、それが多過ぎたような気がしないでもない。当時の日記を参考に思い出しながら書き綴ってみたいと思う。

<学校から帰ってみるとお迎えが・・・>
 中1の一学期の終業式を終え、明日から夏休みだと喜び勇んで帰宅してみると、当時は珍しい自家用車(マツダのキャロル)が我が家に停まっていた。
『光政、おまえ今日から、臼杵で肉屋をやってるこの人たちの家に行け。』---という母の言葉で、知らないオジサンとオバサンの車に乗って、臼杵市に<養子>に出た。

 オイラは7人兄弟の一番末。
赤貧のぞん底にあった水飲み百姓のような我が家では、成長期にあるオイラにいい物を食べさせられない。そこで母親の遠戚にあたるオバサンが、臼杵の肉屋の後添えになっていて、子供が無かったので、オイラを養子に出したというわけなのであった。

 僕が極めて自然に養子に出たというのも、幼少の頃より母親に、『いつか、もっとお金持ちで綺麗で若い、本当の母親がお前を迎えに来る』といった話を寝物語でを聞かされて、その悲しいストーリーに涙を流していたからである。その新しい母親?は、実母よりデブで不細工だったが、若くお金持ちだということだけは確かそうだった。


<玉子かけご飯に驚く>
当時、「玉子かけご飯」といえば贅沢で、1個の玉子(玉子は1個10円前後。高卒姉の初任給が9000円だった)に醤油をたっぷり入れ、それを家族全員で食べていたものだったが、臼杵の養子に入った先の、義理の家族は違っていた。

1個の玉子の全部を1人の茶碗にかけて(時には白身を捨てて、黄身だけを)醤油を垂らして食べるのである。実家では考えられない、20歳年上の長兄に、横っ面を張り倒されそうな贅沢さであった。


<1週間後にやっとトイレへ>
 小用は屋敷内にある水路にしていたが、大はまだした事が無かった。それで家人にトイレの有りかを聞いたのは1週間後。
『おやまぁ、この子はまだトイレに行ったことが無いんかぇ』
ということでトイレに行ったのだが、感受性のつよい13歳の少年が突然の環境の変化で、便意さえも催さなかった笑えないエピソードである。

(つづく)


パート2

<綺麗なおべべを着せられて>
 そりゃあ養子に行った先が食べ物屋だったから、着るものにだけはウルサかった。それまでの貧乏着たきりスズメの生活から、一気にボンボンの生活に一転した。勉強机だってわざわざ買い与えられた。
 なんせワイシャツはたったの1度着ただけで洗濯屋へ。中1のクセして、ワイシャツのエリはいつもピンピンに糊が効いていた。


<海水パンツを借りたら・・・>
 臼杵市の東中は海岸に隣接していて、水泳もさかんな町である。田舎にある野津の中学校と違って、1学年が4クラスではなく、倍の8クラスもあったのには驚いた。しかもプールまであったのだ。
 だが・・・2学期といえば体育の時間に水泳があった。オイラは田舎のサル。海水パンツなんか持ってねぇ。そこでたまたま隣の店の洋品店の同級生の子が水泳部だったこともあり、その子にパンツを借りた。

 無ければパンツでさえ借りる----これは極自然なオイラの論理だったのだが、義理の親には違ったようだ。
『海水パンツを借りるだなんて・・・欲しければ欲しいって言えばいいのに!』ということで、キツークお叱りをこうむってしまった。だが13歳の多感な少年が、昨日今日知り合った「新しい親」という人たちにそうそう言いたい事を言えるワケがない。
(ビンボーなままでもいいから、実家のホントの両親のところへ帰りたい・・・)
臼杵市に行って1ヶ月も経たないうちに、郷愁の念が湧いてきた。


<足蹴にされて起こされて・・・>
 いい物を食べて、いい物を着せられていても、ホントは悲しく惨めな中1だった。朝は6時半に起きて肉屋を開店し、肉を陳列し、店内の拭き掃除を完了させてから朝食。それから学校だ。

 この店には住み込みの若い女店員が居て、その女が女中並みの仕事をしていたのだが、オイラが来てからというもの、開店と閉店の仕事はオイラの役目になってしまったのだ。しかもその女はこの店の前妻の子息に手を付けられてデキてしまっていた。しかも既に腹ボテだったから態度がデカクなっていた。
「ミー坊、早く起きて!店を開けてよっ!」
そう言って寝ているオイラの頭を足蹴にするのだった。その時の屈辱感は40年以上も経った今でも忘れない。
(クソーっ、きっと見返してやる!)
そう思って、仕事に励み勉学に励む養子時代が始まるのである。

つづく


パート3

<頑張った少年>
 肉屋の養子として臼杵市に行ったのだが、養子と言えば聞こえはいい。だが実のところ、食うや食わずの水のみ百姓の7番目の子供は、「口減らし」のために、預けられたと言っても過言では無い。肉屋に丁稚奉公に行けば食い物には困るまい、という大正生まれの無学な母親の親心だったのだろう。

 その養子に行った先での、住み込み女中のオイラに対する扱い方に、
(今に見ていろ・・・)
という気持ちは、ひたすら勉強に当てられた。
 もともと勉強がすきだったオイラは、机に向かうことは苦痛ではない。中1だというのに、連日夜の8時かにら12時までは必ず机に向かっていた。それでも夜遅く、飲み屋などからブロイラーなどの配達の要望があれば、オイラが計量し伝票を書いて配達をしていたのである。

 養子に行っていたあいだ、マンガは一冊も読んだことはなく、テレビも一度も見たことが無かった。いや、テレビやマンガを見せてもらえるような環境に無かったのだ。
 だから成績だけは良かった。
義理の両親に対し、学期末の通知表を見せる時だけが、オイラのプライドが満たされる唯一の時だった。

 もうひとつ、オイラが頑張ったことがある。
土日には近隣遠燐を問わず、どこでもここでも片っ端から飛び込んで、
「こんちわーっ、肉らしいほど美味い肉の○×屋でーす。今日は注文ありませんかぁーっ!」
と注文を取って回ったのである。
注文は面白いほどじゃんじゃん取れた。おかげで注文を取った数が多過ぎて、配達する家が分からなくなってしまったことは毎度のことだった。

 これでオイラの評判が上がった。
たったの13歳の少年が、売り上げにも貢献したワケである。少なくとも世話になっている肉屋に対し、自分のメシ代は自分で稼ぎ出していたわけである。
「みー坊は臼杵商業に行くといい。大きくなったら支店を出してあげよう。」
と、義理の親がよく言っていた。それに気を良くして、ますます注文取りを頑張っていたものだ。

 だが、悲しいことがひとつだけあった----クラブ活動をいっさい出来なかったことである。運動部の部活はおろか、それこそ学級で担当する○×委員、○×係でさえすることは許されなかった。学校が引ければ飛んで帰り、肉屋で働かなければならなかったのだ。遊び盛りの少年にとって、このことだけは辛かった。

つづく




パート4

<暗算の達人小坊主>
 オイラが養子に行った肉屋では、勉強は連日4時間は必ずやった。それと注文取り。それが唯一の自己表現の場だったからだろう。それと暗算。

 40数年前は秤に料金は表示されなかったし、電卓も無かった。
牛上が(100グラム)80円。牛中が70円。牛並が60円。豚が60円と50円。鶏肉が55円、ササミが70円。ベーコンが110円だった。
 これを100グラムだとか150グラム、200グラムだとか250グラム、300グラム、400グラムと注文を受けて、計量して計算する。たまにステーキなどは110グラムだとか130グラムなどと中途半端な重さになるが、これらはソロバンか筆算、または暗算でやる。

 当時、アルバイトで臼杵商業高校2-3年の学生が数人いたが、暗算はオイラが得意中の得意で最も速かった。今、思い出せば懐かしいが、高校生たちにとっては、小マセくれて小憎たらしい13歳の小坊主に違いなかったことだろう。学生たちは暗算に負けるのを嫌って、料金別の重量換算表を作って壁に貼った。


<姉は数日で泣き出す>
 臼杵市にあるこの肉屋は、実家のある町からはバスで小一時間しか離れてなかったので、行き来はそう難しいことではなかった。だがオイラは夏休みの始まった7/21から年末まで1度も帰省した事は無かった(それどころか1年間、1度も帰省したことも無く、両親にも1度も合わせてもらえなかった)。

 そんな最初の冬休み、たしかクリスマス前後の頃、5歳年上の実の姉が肉屋にアルバイトに来た。姉だって高校3年生とはいえ、両親の元を離れて働いたことなど、一度も無かった。
 年末も押し詰まったある夜、ふたつの枕を並べて寝ていた姉が泣きながら言った。
『光政、お前、よくまぁこんなところで半年も働いちょるのぅ。人使いが荒すぎるわぃ。まるで奴隷じゃないか・・・』
『姉ちゃん、オレはもう慣れたよ。けど父ちゃんと母ちゃんには逢いたいのぅ』
と、まるで安寿と厨子王のように慰めあったのである。

つづく



パート5
<1年間1度も両親と会わなかった>
 13歳で養子に行った先の臼杵の肉屋と、野津町の我が家は、当時のオイラにしてみれば、県外ほども遠い場所だという認識があったが、現在地図で確認してみると、道のりにしてたったの18キロ程度しか離れていない。車で行けばものの30分ほどの道程である。

 にも拘わらずオイラは実家に丸丸1年間、帰省することも無く両親に会うことも無かった。会いたくなかったからではなく、会える環境に無かったし、「会いたい」と言えば弱音を吐いているように思われるのが悔しかったからだ。それでもたったの中1の13歳の少年だ。郷愁の念が湧かない日は一日も無かった。

 自転車で臼杵市内は端から端まで配達して回ったのだが、野津町へ向かう道を配達があるときなどは、道草をくって出来るだけ野津町へ近づこうとした。


<郷愁の念と恩師>

 ある配達の時、配達の自転車を飛ばして、とうとう野津の学区内に入り、尊敬している小学校の恩師が現在赴任しているという都松小学校の門の前までも行った事があった。そこで先生の腕に飛び込み、現在自分が置かれた境遇を申し上げしたかったが、そこは我慢した。先生には現在担任しておられるカワイイ生徒たちが居ることだろう。だとしたら1年前に卒業した自分などが伺えば、迷惑をかけてしまう。そう思って後ろ髪を惹かれる思いで、泣きながら野津町を後に自転車を飛ばした。

つづく



パート6
<給与制を打診>
 13歳で肉屋の養子になり、義理の両親に当たる2人から、高校は臼杵商業を出してくれて、将来は支店を出してくれると言われてきた。だが・・・現実は「養子」などという甘い言葉の響きとは裏腹に、実際は「住み込み奉公の13歳」という、現在で言えば児童福祉法、且つ労働基準法に抵触するほどの厳しい労働だけだった。
 だがそんな状況下でも、オイラは毎日数時間、日・際日はまる1日じゅう働きずくめ(店には休みが無かった記憶している)。しかもアルバイトの高校生たちよりは仕事が出来るという自覚も有った。

 そこでオイラは義理の両親に対し、『自分を給与制にして欲しい。そこから下宿代と食事代等の必要経費を差し引いて、残りを現金で欲しい』と、勇気を出して言った事があった。だが返事はダメ。
私としては自分の労働賃金の方が、私にかかる経費より上回ると思っていたのだが、向こうに言わせると私を抱えていることで赤字だそうである。

 それなら、と私は考えた。
こんなにこんなに苦労をして、この肉屋に赤字を出させ、且つ本当の両親にも会えもせず、帰省も出来ないのなら、実家へ帰ろう。貧乏な実家で、どんなにひもじい思いをしても、自分の両親の元で暮らしたいと決心した。それから義理の両親に実家へ帰ることを打ち明けたのは、1年後の中2の夏休み前だった。

 実に中1の夏休みから、中2の夏休みまでの365日。
オイラは他人の水を飲んで過ごしたのであった。

つづく



パート7

<実家へ帰省>
 養子先から帰省したオイラは、連日の労働は慣れっこになっていたため、実家の農業を実によく手伝った。また養子先でテレビも見させてもらえず、マンガも読せてもらえないため、毎夜必ず8時から12時まで4時間は机に向かっていた。そのため知らないうちに学力が身に付いていた。同学年が8クラスもあった臼杵のマンモス中学校から、4クラスしかない田舎の中学校に帰ってきたら、成績が驚くほど上がっていたのには、自分でも驚いた。


<父親が亡くなる>
 だがそれは置いておこう。
実家に帰って農作業を快く手伝っていたが、帰省して半年後に父親が病に倒れた。いかんせん7人兄弟を育てた親父だ。しかもオイラは父親が50歳の時の子供。いろいろと苦労が祟ったのだろう。オイラが中2の3学期に帰らぬ人となってしまった。

 父親も居ない貧乏百姓。しかも7人兄弟の末。
高校進学はいったいどうするのか----?


<ホームドラマは絶対見ない>
 実家に帰省して普通にテレビを見れるようになったが、オイラはホーム・ドラムは絶対に見なかった。ドラマの設定である、普通に両親が居て、普通の生活をしている一般家庭の平和な情景は、私の人生とは対極にある夢物語にか映らなかった。
 それは現在でも変わらない。オイラがジャズの、しかもフリー・ジャズのドラマーになったというのも、こういった少年期の生い立ちが、特殊な感受性を育てたからなのだろう。

つづく



パート8
<中卒で働くのか?>
 さて、中2でオヤジが病死し、家族は老いた母親と兄貴夫婦、それと兄の子供が2人の6人家族だった。母親は経済的には全く無力。55歳にもなって、町の本屋へ住み込みで子守に出ていた。家では20歳も年上の兄が、事実上の家長だった。

 だが、世の中によくある、嫁&姑問題なども絡み、兄嫁から見ると、小姑であるオイラの立場は非常に微妙だった。とっとと中学を卒業して働けば誰にも迷惑をかけず、家族はまーるく収まるのである。

 そこで担任の先生と相談したのが東芝。
この会社は中卒でも社内に就学システムがあり、働きながら学べてそのシテステムを終えれば、その社内に居る限りは中卒ではなくなる。そしてさらに上のシステムも学べるというものだった。

 今ならば上級学校へ行くには、奨学金制度などの情報が溢れているが、いかんせん地方の小さな中学校である。先生さえ大した情報は知らない。それこそ奨学金などという大それた制度など、自分たち田舎モンにとって現実とはかけ離れた存在だった。貧乏人は中卒で働く。というのがこの時代の社会の共通認識だったのである。

 結局、東芝にしようか・・・と決めかけた時、少年自衛隊という選択肢が浮上した。よくあるだろう。地方庁舎によく貼られている「(少年)自衛官募集広告」であった。


<少年自衛隊とは?>
 少年自衛隊とは自衛隊員が満18歳からの募集に対し、中学卒業以上の満15歳から募集している。高校3年間ではなく、4年間勤めれば高卒と同待遇を得られ、身分は特別国家公務員。しかも学びながら給料さえも貰えるのだ。
 さらに、さらに、そこを終えて自衛隊に残れば、いきなり下士官(三曹)だ。そしてなお且つ、少年自衛隊から防衛大学を受験することさえ可能である。

 井の中の蛙ではあるが、成績だけには自信があったオイラは、絶対にこの少年自衛隊の受験を希望した。そこで是非にとも担任の先生に受験をお願いし、受験勉強にも怠りはなかった。


<試験日を間違える>
「先生、少年自衛隊の試験はまだでしょうか・・・」
「ちょっと待てよ・・・」
と手帳をめくり・・・
「おやっ!終わってるよ!ごめん!」
という担任の先生のミステイクで、オイラの少年自衛隊の夢は潰えてしまったのである。

つづく



パート9

<男子校へ>
 中3の担任の先生が少年自衛隊の試験日を間違えたため、再び東芝へ就職、という案が浮上したが、担任の先生が罪滅ぼしのためか、我が家の家族を説得し、高校へ進学させるよう口説いてくれた。
 おかげで?オイラは高校へ進学できるようになった。ただし勉強をシッカリし、家の農業もバリバリ手伝うという約束で。

 行った高校は校区外の大分工業高校、化学工学科---。
朝は6時に起床。魚屋のおっさんのようなゴッツイ自転車をこいで10キロ離れた犬飼駅へ。そこから大分まではSL機関車で45分。さらに歩いて15分の遠いところ。

おかげで脚力も強くなり、中学校2年から始めた陸上の中距離に輪をかけて速く走れるようになったようだ。だが遠方のため一度入部した陸上部もじきに退部。疲れて汽車を乗り越し、帰りが深夜になることもたびたびあったため、兄から退部命令が出されたからだ。

 同級生でも金持ちの子は自転車がスポーツ用のカッコイイ物。オイラは魚屋のオッサン用。しかもペダルを踏むたびに、「ギーガッチャン、ギーガッチャン」と金属音のオマケ付き。2年になってやっとスポーツ用自転車を買ってもらったと思ったら、他の子達はオートバイに。3年になってもオイラは自転車だったが、他の子達はバスに乗るようになった。貧乏とはひたすらツライことなのである。


<男子校の弊害とは?>
その高校は1学年400人。全校生徒が1200人もいた。その中で女子は6―7人。我々のクラスにも1人だけ居た。ジンセイで異性に対して一番敏感・多感な時期に、男だけの社会で学ぶことの弊害は、この後数十年も禍根を残したことになる。

 それは---異性と話そうとすると、極度の緊張を強いられ、石仏のように硬直してしまって、どうにも喋れなくなってしまうというものだ。頭の中はセリフが渦巻いているのに、イザ対面してしまうと、地蔵さんになってしまうのである。
 笑い事ではない。
これは高校3年間続いたのだから、実に悲惨だった。同じ中学校を出た友人たちの多くが、地元の共学校へ行って青春を謳歌していた時、オイラはひたすらギターとドラムと宗教へ逃避したのである。

つづく


パート10
<男子校の弊害はまだまだ続く>
 女性を目の前にすると、石の地蔵さんになってしまうオイラは、就職してさらに状況が悪化した---。
 その就職先は鐘ケ淵化学の高砂工場電解科。大大企業である。電解科には50―60人在籍。その中で女性は、へちゃむくれのハイミスが1人だけ。高砂工場内だけでも1000―2000人は居たと思うが、女性は100人居たかどうか・・・。
 こんな環境でオイラの硬直癖はますます悪化の一途を辿った。それからヤケのやんパチで、サッカーボールを蹴っ飛ばし、ドラムを叩き、マラソンをし、空手で汗を流し、ピアノ教室に入り、オートバイに乗ってスケッチをしに行ったりと、とにかく寝る間も惜しんで動き回った。溢れる青春のエネルギーをそうまでして発散するしかなかったのだ。

 が・・・職場の先輩で大友さん(故人・HPで別途紹介)というジャズのトランペットを吹く人に会った。それがオイラのジャズへの開眼、だった。1年半にわたる長き青春の懊悩も、ドラム1本に絞る決心をして、上京をして音楽学校を志すことにしたのである。

 が・・・ここでも地蔵さん癖を引きずり続けたのであった。

つづく

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パート10-2
<三交代とは?>
田舎の工高を卒業して、大企業でいきなりの三交代は、驚き以外のなにものでも無かった。曲がりなりにも村始まって以来の秀才。しかも校区外の有名伝統工高を卒業したオイラは、とりあえずプライドというものがあった。
 それがいきなり先番、中番、後番という三交代に組み入れられ、ゴム長靴にヘルメット姿での勤務。まして女の子なんて皆無に等しい。
(ここは地獄かいな?)
真剣にそう思ったくらいだ。

 ♪おいでみなさん 聞いとくれ
 ♪ボクは悲しい 三交代
 ♪先番、中番、後番と 悲しい青春送るのさ
 
これは当時流行った「悲しい受験生」と言う曲だが、これを変えて自虐的に歌っていた。受験生なんてシアワセさぁ。オイラなんて夜の夜中に働いてんだもの。


<夜勤帰りの 惨めさ>
 夜勤は夜の10時から翌朝の8時まで。眠い目をこすりながら退社して寮に向かっていると、となりの武田薬品のOLたちが、香水の香りを漂わせて颯爽と通勤をしている。その子達とすれ違う時が、若かったオイラには耐えがたく惨めに感じた。


<スポーツも音楽も全て中途半端>
 三交代は勤務が不規則である。
その周期は三つの番をサイクルを優先させるため、土曜、日曜、祭日、年末、正月、などの太陽暦はいっさいカンケー無い。したがってサッカーに夢中になっても、バンドをやっても、ピアノ教室に通っても、空手道場に通っても、定期的に出席できないため、ことごとく中途ハンパになっちまう。
 

<先輩たちにジンセイの縮図を達観>
 大企業中の大企業だから、福利厚生はシッカリしていたものの、職場の先輩たちを見る限り、ジンセイがまるで見通せたことに自分の将来を悲観した。

 職場には1年先輩、5年先輩、10年先輩、20年先輩、30年先輩、そして定年前の人たちが居て、自分がこのままこの会社に居ても、将来どうなるか、まるで見通せた。

 三交代を何十年も続け、職場の先輩の娘と見合い結婚をして、社宅に住み、子供が出来たら月賦で家を買い、定年を待つ。中卒は定年までヒラ社員。高卒ではせいぜい班長。運が良くて係長。ま、まかり間違っても課長どまりか。

 だとしたらとっとと退社して、ドラムなりサッカーなりで身を立てる夢を見るのが男の子らしいと、オイラは考えた。なんせアニメの『巨人の星』を見て、いつも感動して涙を流していた熱血漢のオイラだ。自分の夢に人生を賭けるのが男の子の生きる道だと思ったのは当たり前だ。

『身はたとえ 武蔵の野辺に朽ちるとも とどめおかまし 大和魂(吉田松陰)』、この句が好きだったし。


<狂うほどにドラムを叩き貯金に精出す>
 日記を読み返すと、悲しいほどにドラムを叩きまくっている。それが自己流だから、全くと言っていいほど無駄な努力に近かった。とにかく睡眠時間を惜しで叩いた。ま、24時間いつでもドラムを叩けるという環境があったということだけは、オイラにはシアワセだった。そこで三交代のウップンを全て叩き飛ばしていたからだ。

 入社した時点で、もう退社を考えていたほどだが、退社して大阪へ行くにしても、上京するにしても、アパートを借りなければならない。また音楽学校を目指す以上、入学金も貯めなければならない。しかもナベ・カマ、布団の類から購入しなければならない。となれば一にも二にも貯金をしなければならないのだが、ドラムを買ったり、レコードを買ったり、バイクを買ったりして、貯金は全くと言っていいほど出来なかった。
 それでも本当に辞める1年半後には、なんとかカタチになった。当時の月給は三交代で4万円ほど。今で言えば30万円近くか。それが20万円くらい貯めたから、150万円くらい貯めたのと同じだった。


<今でも夢で三交代>
 この頃のトラウマは今でも残る。
数年に一度はカネカ時代を夢に見るのだが・・・ドラムで夢破れたオイラは、再びカネカに入社し、再び三交代をすることになる。当時の同級生たちは既に班長になり、オイラはその下で不平を言いつつも働く---オイラが目指したドラム人生は間違っていたのか・・・だがそこでもオイラは、再びドラム人生を目指して退社を夢見るという筋書きだ。
 まるでギリシャ神話のシュシュホス(?)だ。重い岩を山頂に担ぎ上げ、担ぎ上げたと思ったら、またまた再び、そして永久に担ぎ上げる宿命を負う、というものだ。


閑話休題
40年ぶりの会話=紆余紆余曲折と出世 返信 引用

名前:のなか悟空 日付:5月12日(火) 4時8分
http://homepage2.nifty.com/nonakagoku/uyouyo/
に有るのはオイラの『紆余紆余曲折』だが、そこで追記しよう。


<大会社の大工場の40年後人事>
 オイラは高卒で鐘ケ淵化学に入った。名うての有名大企業である。
その会社の兵庫県の大工場のプラントで、水素や塩素、化成ソーダなどを造っていたのである。

@当時の同じ課に4人の高卒の同期生がいた−−−−。
今日、その同期生のうちの1人と連絡が取れたので、その結果を書く。
■Mクン=当時のバンド風に長髪・長身、おとなしい青年だった。地方出身者。
■Yクン=長髪・長身のイカした子。彼もおとなしかった。地方出身者。
■Iクン=地元高卒。陸上部出身。
■Oクン=元気な田舎もん。
■オイラ=元気で反逆の田舎もん。

Aひとつ下の高卒たち
■M=地方高卒。礼儀知らずのばんから。
■Y=地方高卒。柔道部出身。純朴青年。
■G=沖縄の高卒。
■X=地方の高卒。遊び人。

Bひとつ年上の高卒の先輩
■Hさん=地元のオシャレなハンサムボーイ
■Uさん=普通の田舎もん。

C6歳上の先輩
■K1さん=地元の高卒。陸上部出身のぼっちゃん。当時は地域の山岳部イ員。
■K2さん=地元の高卒。ちょっとオカマっぽい。

D8歳年上の先輩
K3さん=地方の高卒。やる気マンマンの仕事男

E10歳年上の先輩
Mさん=地元高卒。優し過ぎ。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
<さて・・・40年後の人事のオイラの予想は????>
@高卒の同期生は?
M=多分やめた⇒この前まで在社⇒ハズレ!
Y=多分やめた⇒退社=アタリ!
I=多分在社⇒アタリ!
O=たぶん在社⇒在社=アタリ!
オイラ=当然1年半で退社

Aひとつ下の高卒たち
M=たぶん退社⇒アタリ!
Y=たぶん在社⇒アタリ!
G=たぶん退社⇒アタリ!
X=たぶん退社⇒アタリ!

Bひとつ年上の高卒の先輩
■Hさん=たぶん退社⇒アタリ!
■Uさん=たぶん在社⇒アタリ!

C6歳上の先輩
■K1さん=たぶん在社⇒アタリ!
■K2さん=たぶん在社⇒アタリ!

D8歳年上の先輩
K3さん=絶対在社⇒アタリ!

E10歳年上の先輩
Mさん=絶対在社⇒アタリ!

★★ということで、オイラの在社・退社の予想は9割以上の確率で当たっていたのである。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
<大会社の大工場の40年後人事=出世状況>
@高卒の同期生は?
M⇒在社=出世せず主任どまり=定年の数年前で肩たたき
Y=退社
I=在社=傘下の子会社の社長!
O=在社=地方工場へ出向=係長
オイラ=食えねぇドラマー

Aひとつ下の高卒たち
M=退社
Y=在社⇒係長
G=退社
X=退社

Bひとつ年上の高卒の先輩
■Hさん=退社
■Uさん=在社⇒係長

C6歳上の先輩
■K1さん=在社⇒課長定年
■K2さん=在社⇒主任どまり定年

D8歳年上の先輩
K3さん=在社⇒主任どまり定年

E10歳年上の先輩
Mさん=在社⇒主任どまり定年



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
<総括感想>
■かの一流大企業にあって、高卒新入社員のオイラにとっては課長というのは、神様みたいな存在で、もし定年までいてもなれるものだとは思えなかったほど、エライ存在だと思っている。またオイラのようなたかが高卒というのは、大企業の中の使い捨て歯車のひとつみたいな存在だと思っている。

■それにしてもオイラの予想が9割以上の確率で当たっていたのは笑えるが、それもオイラに人間を見る感性が備わっているからなのだろうが、大企業の中の人事を取り仕切る人間たちはその道のプロなのだろうから、オイラとピッタシ同じ感覚を経験と学問上に於いて立証している。

■ここで面白いのは、バリバリ仕事一本人間が必ずしも立身出世しているわけではなく、スポーツはそこそこやり、性格が明るく、人といさかいを起こさない人間、そしてなお且つ、『地元』の『ぼっちゃんタイプ』が出世している。K1さん然り(課長)は、高卒では珍しいと思うし、同期生のIなどは傘下の社長にまで成っているからエライもんだ。

■この2人は偶然だか、当時はグループサウンドが流行って長髪が多かったのに、2人とも坊ちゃん刈をしていた。

■地元の坊ちゃんで坊ちゃん刈り。人とのいさかいを嫌い、そこそこのスポーツマンで明るし性格といえば、部下にしても上司にしてもいいタイプ。タレントでいえば加山雄三みたいなタイプ。70年代安保の時も問題意識を持たず、ヨットに乗って青春を謳歌し、グループサウンドで明るく歌っていた・・・そんなタイプが出世している。世代を少し下げればサザンの桑田タイプ。

■自分の世代では出世を諦めた後輩・同輩・先輩諸君。子息を出世させたかったら、子供に不自由をさせず、のうのうと育てなサイ。加山雄三か桑田圭祐タイプに育てれば間違いなし。

■これはオイラの半世紀に及ぶ人間観察記。間違いナシ。
苦労させたらアカン。苦労は顔と性格に出る。そんな部下も上司もうっとうしい。よって出世せぇへん。二宮金次郎タイプは出世せぇへんと思う。

■結論として、ワシは件の会社に骨を埋めなくて大正解。せいぜい係長じゃ死にたくなるぜ。辞めたからこそ波乱万丈の人生を大謳歌出来ちょるけんな。



パート11-1

<女学生と会話できずに>
 上京して某音楽学校へ入校----ところがそのクラスの8割方が女の子。しかもみーんなキレイどころで、ピッカピカに着飾っている。しかも化粧臭い。
 
 学校とは学問をする場所じゃ無かったのかい?
1年半社会で働き、音楽学校の入学金を苦労して貯めたオイラには、日々衣装を取り替え、化粧をして、香水の臭いを漂わせるクラスの女の子たちが学生には見えなかった。
(トウキョウって、こんな場所だったんかいな!)
オイラにはショックだった。


<そして母の死>
 トウキョウの音楽学校の女性徒たちに違和感を覚えながらも、学校だけはなんとか卒業しようとアルバイトと両立して頑張っていたが、オイラの行く末に一番期待していた母親が、病のため亡くなった。62歳。
ここでオイラのタガが外れた。
 自分への応援歌を一番に歌ってくれていた母親が亡くなってしまってから、その音楽学校を卒業するまで頑張る必要もなくなった。まもなく学校を中退してしまった。


<中退した別の理由>
 まだまだ別の理由がある。
@オイラは上京時に、布団1セットとリヤカー(ドラムを運び用)とドラムしか持ってなかった。それなのに先生が言うのである。
『今度の合唱の発表会(コンサート)では、男子は黒の上下を着てくるように。』とのお達しがあったのだ。
黒服は持ってなかったが、
(学問は、音楽は衣装じゃない!)
と、確たる信念を持っていたオイラは、そこでその学校での向学心が失せたというのがひとつ。

A当時喫茶店でのバイトが時給170円くらい。オイラのバイト収入が3万円弱。それなのに同じクラスの連中ときたら、昼休みには喫茶店で食事をし、放課後には喫茶店でコーヒーを飲んでいた。喫茶店で働きはしても、客で入るなんて夢のまた夢だったオイラには、同クラスの人間たちが、違う社会の生き物に見えてしまったことがふたつ。

Bたまたま縁があって、見習いながらドラムを叩いてカネを貰える仕事が有ったこと。

ここぞ!とばかり、そのドラムの仕事に飛びついたのは言うまでもない。だが・・・・それもすぐクビになり、懲りずに翌春はまた別の音楽学校の門を叩いたのであった。

つづく


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パート11-2
<音楽という学問は・・・>
 通常、学問と言えば学校で授業を死ぬほど熱中してやったり、電車の中でもどこでも二ノ宮金次郎のように教科書や参考書を読めばなんとかなるものだが、音楽だけはチト違う。いかにマジメに授業を受けたとしてもその技術だけは、机上では習得できない。
 ピアノにしてもドラムにしても、その技術の習得はひとえに、時間を浪費するほどの反復練習しかないのだ。


<時間とカネとの追っかけっこ>
 バイトをすれば練習時間が足りない。かといってバイトをしなければ月謝やメシ代、家賃、楽器を買うカネが無い。だから働きすぎても上手くならないし、練習しすぎるとカネが無い。オイラはこの狭間で苦しんだ。だがその苦しみさえ、ひとえにプロのドラマーになるためだと耐え忍んだ。ある時は時計(高校入学祝に貰ったもの=いつの間にか流れた)を、ある時はスネア・ドラムを、質に出し入れして工面した。

 またチョットの時間を惜しんで、バイト先へ行く自転車をこぎながらバチを振り、通学電車の中でも教則本を広げてバチを振り、歩きながらもバチを振り、バチが体の一部分になっていた。

 入浴などはもってのほか。時間が勿体無い。だからアパートの近くにあるはずの風呂屋さえも、次回行くのに捜さねば行けないほど、ご無沙汰をしたものだ。


<付いたあだ名は『おもらいクン』>
 当時はやっていた少年漫画に連載されていたもので、『おもらいクン』というのがあった。関西弁を喋り、不潔でビンボーな、おもらいクンの周りには、常にハエが飛び回り、臭い匂いが漂っていた憎めないお笑いキャラだった。
 関西に1年半居たオイラは『いや、ホンマ』とよく言っていたせいもあり、付けられたあだ名が、ソレ。『おもらいクン』。それを女の子に付けられたものだから、悲しいものがある。笑ってゴマかしたが、心じゃ泣いてたぞ。
 

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パート11-2
<ビンボー学生は2人だけ>
 思い起こせば、その音楽学校のクラスには50人前後の学生たちがいたが、オイラは誰とも友達にはならなかった。お坊ちゃん、お嬢ちゃんたちとの境遇が違い過ぎたせいもあるもあるが、無駄口をきいている時間も無かった。

 彼等がコンパ(パーティー)の話をしていても、時間も金も無いオイラにはまるで違う世界の宇宙語だった。

 だが・・・オイラと同じビンボーで頑張りな学生がもう1人居た。
彼は学校の清掃をすることで月謝を減免(免除?)されている勤労学生だった。

 彼は華やいだ学生たちがファッショナブルな格好で、いい匂いを残して上り下りする階段や、エレベーターの内外、教室の中を黙々と清掃に従事していた。オイラも彼にだけは声をかけ、ともに頑張ろうと言っていた。

 彼の名前は失念したが、数十年もたった今、彼が夢を達成できていることを祈るだけである。 

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パート11-3

<ただひたすら練習あったのみ>
 今月は20歳から23歳までの日記を読み返し中だが、内容は殆ど変わらず。連日「腹減った」、「カネ無い」、「時間無い」が主。バイト、バイト、バイト、に明け暮れ、通学とレッスンとレッスンに明け暮れたオイラは、どうすれば食事の時間を短縮できるか、とまでつづられている。

 連日の日記の末尾には、『負けない!』、『頑張ろう!』、『倒れて已まず!』などと必ず描かれていて、気合ばりばりの力コブだらけ。しかも睡眠時間が1時間だとか、年末年始にはまとめて日に16時間も練習した日もあった。もうキ印状態だ。

 だが、ちょっと待て。無い時間の合間を縫っての、練習方法は間違ってはいなかったか?
*ピアノ=あらゆる練習の前にまずハノンで指の練習。これが30―60分で、他の練習をする時間が無いため、次へ進めずオワリ。

*聴音=他人が出してくれないので、自分で音を適当に叩いてそれを言うだけ。鍵盤の位置が大体分かるので勉強にならず、テープに適当に録って当てる方法に。でも、あまり意味無し。

*英語=滅多にやる時間が無いため、次には前回のを忘れている。

*クラッシック・ドラム=練習台が殆どだったため、太鼓の感覚をつかめず。

*ドラム・セット=1人で必死にやってはいたが、ノリをつかめず。

 総じて、時間が無い中で必死にやっていた割りには、『能率』とは無縁だったような気がする。が、とにかく、何が何でも楽器に向かってないことには落ち着かなかったので、これで仕方が無かったのかも・・・。


<今にして思えば・・・>
 『継続は力なり』とは言うが、オイラの場合、継続ではなく、不定期でのの継続だったような気も。

 例えて言えば、鍋で煮物を作ろうしょう。が、その鍋が4つも5つも有るとする。ひとつの鍋を火にかけて、お湯が少し暖まったところで、別の鍋を火にかける。それを順繰りにやれば、最初の鍋に戻ったところで、鍋のお湯は冷めてしまっていて、中身を煮るどころじゃない−−−それは何時間、何ヶ月、何年繰り返しても、永久に煮物は出来ない、と言うことになる。それどころか、ガスが無くなってしまうだろう。
 結局、1つずつ順繰りに煮物を作るよりも、余計に時間とガス代がかかってしまうことだろう。


<結局、身に付いたものは>
 ピアノはダメ。聴音もダメ。英語もダメ。ドラムもダメ。しかも人並みに輪をかけて不器用とくれば、一芸を習得するのに、他人の倍も三倍もかかってしまう−−−で、今に至るワケさ。


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パート11-4

<神様は見ていた>
 キーボードの練習は、最初は貰った古いエレクトーンで。間も無くそれが壊れて、電子ピアノを新品で買ったが、それも壊れた。そこでカネも無いのに後先考えず、ピアノを練習したい一心から、新品のピアノを川崎のデパートで買った。

 値段は忘れたがヤマハの12万円もするものだった(当時の東芝の月給が、残業をいっぱいしても4万円くらい)。それを頭金を1万円入れて、月賦の手続きをとり、大阪の兄貴に保証人になってもらった−−−。
 が−−−、何ヶ月経ってもオイラの横浜銀行の口座から、月賦が差し引かれない。保証人の兄貴に問い合わせても、信販会社からの連絡は無いという。
 
 そのまま・・・1年が過ぎ、2年が過ぎても、月賦の引き落としは無く、オイラは新品のピアノを頭金だけで手に入れたことになってしまった。いや、払う意思はあったよ。ホント!


<楽器で食べる>
 今になってオイラは思う。
やっぱり神様は居たのだろう。んでもって洗濯を2ヶ月に1度。風呂は1ヶ月に2度、インスタント・ラーメンをすすっていたオイラを見かねた神様が、救いの手を差し伸べてくれたのだろう。と、いい方に解釈している。

 それから7―8年も経った頃、バンドマン生活でまたまた生活が苦境に立っていた時期、そのピアノは10万円で、バンド仲間に売った。その時もオイラを救ってくれたのである。



パート12

<2つ目の音楽学校も中退>
 上京した最初の年に入学した音楽学校を中退したものの、まだ音楽学校へ入学する夢は捨て切れなかった。ドラムを叩いて何度かクビなったり、喫茶店でウエイターをやったり、学研のセールスマンをやったりしながら金をため、翌春にはまた別の音楽学校へ入学した。
 が---ここでも中退。全てがドラム優先だったため、せっかく入校したものの中退してしまった。


<交際を断る>
 でも、この学校では珍しいことがあった。
ナント!間接的ではあるが女学生に交際を申込まれたのである。
『野中さん、大塚さんが交際して欲しいって』
と、同クラスの女の子が言って来たのである。

 当時のオイラにとっては超晴天の霹靂、想像だに絶する話である。それでもドラム一番、勉強一番と考えていたオイラは、さんざん悩んだ挙句、
『ボクは勉強が大切です。ピアノもドラムも勉強しなければならないし、時間がありません。』
と、ガチガチに硬直してこう答えたのだ。


<愛するとは、そんなもんじゃない!>
その頃のオイラは、川崎の土手か公園にドラムを載せたリヤカーを引いて行き、そこでいつも練習をしていた。そんな時、いつも公園で会う女性と知り合いになり、ついついオイラのアパートへ来るというシチュエーションがあった。

 そこで自然の成り行きで、ガチガチに硬直しながらも、そういった雰囲気になってしまった時のことだ。
『キ、キミとエ、エッチがしたい・・・』
『愛してるって言ってくれたら、させたーげる』

 ここでオイラは考えた。
当時「愛と誠」というマンガもあったし、オイラにはまだキリスト教の影響が大きく残っていた。愛とは、愛というものは、そんなに軽薄なものじゃない。そこで言った。
『いいかい。○×さん、愛というのはね。キミのために死ねる覚悟がであって初めて「愛してる」と言えるのだよ。ボクらは知り合ってまだ間もない。まだボクはキミのために死ねないよ。』
というこで半ば抱擁した身体を離したのだ-----当然、彼女は次回から公園へは姿を見せなくなったが・・・。

そしてさらにさらに翌春、音楽学校への夢を捨てきれないオイラは、またまた別の音楽学校に入校したのであった・・・。

つづく


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パート12-2
<やむなく再び会社員に>
この時期、さんざん練習とアルバイトに明け暮れたが、音楽学校の月謝やドラム教室の月謝、また別のドラムのレッスンの月謝のため、着替えのズボンも靴下も買えない状態で、ついに経済破綻。
 酒も、タバコも、女も、風呂も(滅多に入らない)やらず、キチガイのように練習していた(実際、日記にも自分はキチガイか?と自問自答している)。

 そのため経済の安定のため、再び大嫌いな会社組織に入る。川崎の東芝だ。これで経済的には安定したが、今度は時間が無い。
朝6時に起きて、安アパートなのにピアノの練習(電子ピアノを買ったのだ!)、それから出社。流れ作業に従事するものの、正社員なのに制服を着用したことは無かった。
 
 昼休みになると一目散に屋上へ駆け上がり、ドラムの練習。昼休みの5―10分前に空いた食堂へ駆け込んで昼飯。それから5時で退社。夜間の音楽学校へ(当時は誰もが2時間の残業をしなければならなかったが、通学のため拒否していた)。


<公園へリヤカーを引いて>
都内の学校は夜の9時半くらいまで。
それから川崎の幸区に帰り着くのが11時前くらい。それからリヤカーにドラムを積んで夜の御幸公園へ。いつも深夜まで練習していた。

  夏は公園のいつもの場所で練習しようと思ったら、アベックが絡み合って横になっていたが、オイラにはカンケーねぇ。かまわずヤツらの脇にセットして練習を始めると、アベックは去った。

 真冬はつらかった。靴下は何足も持ってない。防寒着もいいものは無い。寒くなったらそこいらを走り回ったり、腕立て伏せをして身体を温めた。ある時、公園の夜間照明が当たったドラムの胴をふと見ると、霜が降りていた。サブイ!練習は深夜の12時半か、1時まで。週末は深夜の2―3時に及ぶこともあった。

 それからアパートに帰って、楽典、電子ピアノ、英語などの学校の勉強を日課表を作って勉強。寝るのはいつも深夜の2時。睡眠時間はいつも4時間半。


<まるで星飛勇馬?>
この頃の日記を読み返すと、自分でも思わず力コブが入ってしまうほど、気力とヤル気と向上心と夢に溢れている。そして「腹減った」「カネ欲しい」「時間が欲しい」「ガールフレンドが欲しい」と、この4つが、いつも書かれてある。

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パート12-3
<相撲取り10年説>
 以前なにかのコラムか何かで読んだことがある、「相撲取り10年説」。どんな大横綱でも10年で相撲取りの寿命は終わる、というもの。

 それは相撲取りとして体力と精神力をキープして居られるのは、10年だと言うのだ。だからいくら二代目貴乃花が若くして横綱になったとしても、10年で土俵を降りた。まだまだ取れそうだったが、トップを張っていられる精神力が限界だったのだろう。

 そういう意味で、オイラがドラムの練習に狂気のように精出したのは、19歳から29歳までの10年間が一区切りだったように思う。

 



パート13-1
<東芝へ入社>
さて、音楽学校への夢を捨てきれないオイラは、いよいよ3つ目の学校へ入学することにした。だが、入学金や月謝がアルバイトだけでは賄えない。そこで目の前のドラムの仕事には目をつむり、当分会社員として安定した仕事をすることを決意した。そうして学校へは夜、通うことにしたのだ。

 川崎市にある東芝の工場には数千人の従業員が居た。
男女の比率は男の方が多かったものの、女性だって数百人は居たはず。だが・・・オイラの配属された複写機課には女性は皆無。百人以上もいる課員は、どいつもこいつも野郎ばっかしだったのである。またまたここでも男社会に籍を置くことになってしまったのである。


<東芝には丸1年>
 中1で養子に出て以来、オイラの我慢はとにかく1年、というのが基本になっている。養子に1年、鐘ケ淵化学に1年半、東芝に1年、いやいやながら勤め上げた。そしてまたまたドラマーとしてバンドのステージに立つ方を選んだのだったが・・・。


<音楽学校の男性は数人>
 東芝入社と並行して、めでたく2つ目で2度目の音楽学校(夜学)へ入学した。それも時間が無くて1年近くは頑張ったが中退。

 その次の春にも音楽学校へ入学したが、月謝が続かず中退。さらにナント!次の次の春には、4つ目!の音楽学校へ入学した。驚いたのは女性の割合。広々とした教室は50―60人もの女性で溢れ、男はオイラと別の2―3人だけ・・・。女性は好きだけれども苦手なオイラは、これには呆れた。

 登校して初めての授業が「生物」か何かだったような気がする。担任教師はうら若き女性徒に対し、教科書に書いてある男性性器の拡大図を黒板に書けと言うのだ。そのとき女性徒は笑いながらも拒否したが、オイラはこの教師に呆れ、こういった教師を置いているこの学校に失望して以降二度と登校することは無かった。


つづく
 


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パート13-2
<デイリー・アンの連載記事から、そのまま丸貼りけ>
http://homepage2.nifty.com/nonakagoku/kamisama/より

 そもそもオイラが世界的ドラマーとなったのは、幼少の頃に端を発する。それというのも我が家は、縄文時代から先祖代々からのウォーター・ドリンク・ファーマー(水飲み百姓)なのである。オイラの肉体のDNAに組み込まれた農作業の作業中に、事件が起きたのだ。

 まだ紅顔の美少年だったオイラは、拙い手つきでクワを振るっていた。すると、「ガチッ!」とクワの歯に当たるものがあった。何かと思って取り出してみると、半ば化石化した太鼓のバチで、それには縄文文字で『のなかドンドコ佐衛門悟郎光(ゴロピカ)』と刻まれてあった。そのバチを手に取った時が、オイラのドラマーとしての出発点であり、人生を棒に振った始まりでもあるのだ。

 以来、艱難辛苦から塩・砂糖・キャラメル・ドロップ、果ては他人に言えないところまで舐めつくし、日本ジャズ界ナンバーワンのドラマー、人呼んで「カミナリ・ドラマー」としての地位に上り詰めたのである。とはいえ赤貧洗うが如しの生活はままならず、明けても暮れてもバイトバイトの毎日。経験したバイトは数え上げてもキリがない。

 以前、川崎の超大手家電メーカーで働いたことがある−−−。
大工場でのベルトコンベアーでの流れ作業は、チャップリンの「モダンタイムス」を髣髴とさせるものがあった。電化製品の複写機はベルトコンベアーの上流から下流に流れていくにしたがって、作業員たちの手によって製品としての体裁を整えていくのだが、いかんせん機械は非情だ。こちらが二日酔いであろうが生理痛であろうが、ニンゲン様のコンディションには一切関知しない。

 オイラたちアルバイターはベルトコンベアーのスピードに遅れをとるまいと、必死になって複写機の部品を取り付ける。出物腫れ物のさいはタイヘンだ。ダッシュで用を足してきても、戻って来た頃にはオイラのやりかけの場所は遥か下流に流れてしまっている。ビデオの早回しのように半狂乱になってネジを取り付けるのだが、それは並大抵のパニックではない。

 そんな作業にもオイラは唯一の楽しみを見つけ出した。
ネジを締めるドライバーが丁度ドラムのスティックと同じ長さなのに気が付いた。これをうまく利用しない手はない。かつてジーン・クルーパーやジョージ川口がやったように、指先でスティックをクルクル回す練習をすることにした。右手で出来るようになると次は左手。以来、ドライバー回しが、作業のひとつになってしまった。

 かくして我がドラムテクニックの中に、この両手スティック回しが加わることになったのだから、世の中わからないものだ。




パート14

<川崎の職安へ立ち寄ったら・・・>
 これまで3つの音楽学校へ行くための資金作りのために、会社員をやり、ウエイターをやり、セールスマンをやり、バンドマンをもやってきた。
 東芝を辞めて以来、ドラマーとしてステージには立ったものの、経験不足や技量不足のため、何度かバンドをクビになったり、変わっていたりしていた。そのため相も変わらずカネが無く、不安定な生活を余儀なくされていた。
 そんなとき生活の安定を求めて、フラリと立ち寄ったのが川崎の職業安定所。夜のバンドはいつクビになるのか分からない。そのため昼間は会社員ほどではなくても、ある程度安定した収入のある仕事を得たいなぁ、と思ったからである。


<男社会の真骨頂、自衛隊へ>
そこで後ろからおじさんに呼び止められた。
『キミキミ、自衛隊に入らんかね?』
『いやぁ、ボクはドラムを叩きたいんですよ。』
『だったら音楽隊へ入ればいい。100人くらいいる楽隊の真ん中でドラムを叩けるよ。』
『えっ?ホントっすかぁー!』
『本当さぁ、朝から晩まで好きなだけドラム叩いて給料貰えるよ』

 これで躊躇などしておらりょうか。
大好きなドラム叩け、まして給料まで貰えるのだ。しかもボーナスは年に5回もあるらしい。驚くことには、パンツ以外はぜーんぶ支給されるというのである。それこそオイラにとってはドラム天国。
 ということで、トントン拍子で自衛隊募集の支部にある簡単な試験を受けて、自衛隊の音楽隊へ入ることになったのであるが・・・そこでもまたまた大きな障害があったのである。

つづく





パート15
<鉄砲を担いで・・・>
 自衛隊に入ったらすぐ音楽隊へ入れるのかと思いきや、半年間は訓練期間があり、軍歌を歌ったり体育をしたり、鉄砲を担いで走り回ったりと、ドラムとは全く関係ないことをしなければならないらしい。しかも外出も自由に出来ない。
 ま、工高、鐘ケ淵の工場、東芝の工場と、男くさい中ばっかりで過ごしてきたオイラには苦痛ではないが、これでますます対女性恐怖症に拍車をかけることに。


<えっ?音楽隊へは? >
 イヤイヤながら音楽隊の真ん中でドラムを叩くために、オイラは自衛隊の訓練で6ヶ月我慢した。その6ヶ月が終了しようという間際、隊長にに音楽隊の話をすると、聞いてないと言う。
『そ、そんなぁ・・・』

 正に寝耳に水。いかにも大きな組織ではあり得そうな話だ。そこで2本のバチと当時練習していた教則本を持って、直接音楽隊に出向き、音楽隊の副隊長に直訴。教則本を広げて演奏して見せた。結果、その時点で即決。音楽隊への入隊が決定したのである。もし実際に自分で試験を受けに行ってなかったとしたら、オイラは鉄砲を持って走り続けねばならなかったのである。

晴れて音楽隊に入隊したものの・・・現実はまたまた理想とは程遠かったのである。

つづく



パート16
<晴れて音楽隊に>
 6ヶ月間、鉄砲を持って走り回った挙句、とうとう晴れて音楽隊に入隊はしたものの、その音楽隊にはパーカッションが6人も居た。しかもオイラは最下級の2等兵。合奏やコンサートなどの晴れの舞台でドラムを叩くのは、三曹(昔で言う軍曹)がもっぱら担当していた。

で?オイラは何をやったのか?
合奏場でのイス並べ。シンバル磨き。楽隊の遠征時には楽器運専門。そして合奏ではせいぜい銅鑼。しかも銅鑼はながーいクラツシックの曲中で、何十何百小節もの休符の挙句の一発だ。待ちくたびれて居眠りさ。『おい、野中!』と、言われて目を覚ました時には、もうその小説を通り過ぎてしまってる。そんなことばーっかし。

 ある時、なんかの式典の「君が代吹奏」で、スネアの演奏。スネアは5-6人ほどいた。例によってオイラは暗譜(音符を暗証すること)が苦手。ロールが1拍ほど長かったらしい。オイラにとってはそんなことは、どーでもいいことだった。が、ドラムの鬼軍曹から小言をくらう。


<音楽隊に嫌気が>
 そこいらから音楽隊に嫌気が差してきたのは事実。あれだけドラムの練習をするだけで給料を貰えることに憧れたというのに、イザ組織の中に入ってみれば、イヤというほどの基礎練習の反復のみ。それと先輩たちにアゴで使われる日々。これがシャバのバンドなら、上手いヤツが大きな顔をしていられるのだが、自衛隊は違う。古参兵が威張っているのだ。

 肝心のドラムセットを叩きたいのだが、それはオイラに鍵って何故か禁止命令が出ていた。ドラムセットを叩けるのは、古参兵の留守することの多い日曜日しかなかった。

 オイラはドラムセットを100人の音楽隊の真ん中でドラムセットを叩きたかったのだ。このままではオイラより上に5人も居る上級古参兵が定年退職するまで待つしかない。がー---、オイラより年下の上級兵もいるから、その順番は永久に来ないことになる。

 それともうひとつ---。
入隊してから理解したことだが、軍隊の服装を着て演奏することに違和感を覚えたこと。どんなにいい演奏をしても、どんなに華麗なテクニックを披露したところで、ワシらは軍服を着ている。その第一の任務は国防である。そんな者たちの演奏する音楽というものは、音楽の範疇には入るけれども芸術というにはチトおこがましい。

もう、辞めよう。そう決意したのは、入隊して丁度365日。オイラにとって1年という我慢の周期が回ってきたのである。

つづく


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パート16-2

<1学年上は神様>
 伝統を重んじる工業高校といえば、学年がひとつ上でも神様、1つ下は奴隷、そんな男子校であった。そんなオイラがまかり間違って自衛隊に入ったばっかりに、とんでもない憂き目に遭うハメになってしまった。

 ご存知、自衛隊は18歳から24歳までの健康な青年が入隊資格がある。ということは18歳と24歳が同時に入隊した場合、6歳の違いがあっても同輩。同じ2等兵なのである。

 そこへ持って来てオイラは23歳で入隊。18歳のガキンチョに『おい、野中』と呼ばれるのだ。それはそれで慣れたとしよう。ところが半月でも先に入隊した18歳が居るとしよう。ヤツは2等兵の新兵であるオイラに、『オイ、野中、居室の灯油が切れてるから入れろ!』と、命じる権限があるのだ。

 音楽隊に於いても同様だ。
まだまだヒヨッコの18歳が、娑婆で曲がりなりにも苦学をし(中退ではあるが)、プロの飯を食ってきたオイラに、『オイ、野中。合奏場のイスを並べろ!』、『シンバルを磨け!』と、業務上の命令を出すことが出来るのだ。


<反骨の権化>
(なにっ?てめぇ、二つ打ちも満足にできねぇケツの青いガキが何を言いさらすかぁ!)
と、ブチ切れたいところだが、それが出来ないのが自衛隊。通常の会社組織よりもさらに上下関係は厳密でキビシイ。

 そんな時は、命じられたことはやることはやる。
だがやる前にゲンコツで壁を思いっきり殴りつけ、グランドを怒りが収まるまで疾走するのである。こうすれば誰にも迷惑はかけなくて済むのだ。


<さすがにキレた時>
 音楽隊にはピアノが1台しかなかった。
それで上級仕官のピアノの練習が終わる様子を伺いながら、順番を待たねばならない。

 いつものようにやっとの順番を待って、ピアノの前に座り、教則本を広げて練習を開始した。するとどーだ。青二才の上官がオイラに言った。
『おい、野中!どけっ!』
これにはサスガにブチ切れた。履いていたスリッパを脱ぎ捨て、
『なにぃ、このヤロー!てめぇがナンボのもんじゃい!さぁ、かかって来い!』。カネカ時代は不定期ではあるが、空手道場にも通っていたから、腕には覚えがあった。

 上官はかかってこなかった。
『へっ、たかだか先に入隊したからって、何がエライんじゃ。この下手クソ野郎が!』
オイラは捨てゼリフを吐いた。
 ま、それ以降、野中はキレるからヤバイぞ、という噂が隊内に立ち、音楽隊に居ずらくなったのは確かだった。




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パート16-3

<学歴大尊重の特別国家公務員>
 自衛隊には高卒というカテゴリーは存在しない。
中卒か大卒しかないのだ。したがって高卒は中卒扱い。これは大袈裟な話ではなく、当時の試験は自分の名前さえ書ければ採用された。

 事実、オイラが自習部屋で勉強をしていると、同室で『あひる』の『あ』、『いぬ』の『い』と、読み書きの練習をしていた同期の隊員がいた。また作文で1時間の時間が与えられても、ほんの2―3行しか書けない同室の隊員がいたし、カタカナしか書けない同室の隊員も居たのも事実だ。
 ま、それは30年以上も前の話だ。現在では特別国家公務員の自衛隊の試験も狭き門になっているらしいが・・・。試験問題を見てないので何とも言えない。


<少尉さんが少女フレンドを>
 大学さえ出て試験にさえ受かれば、まもなく尉官(少尉または准尉)さんになる。中卒で30年もかかる、もしかして定年まで成れない階級である。
 オイラたちの時代にも売店でよく女性尉官を見かけた。なんと!少尉殿は少女フレンドをご購入になり、それを読んでおられたのである。
『どっひゃーっ!少尉殿は少女マンガをお読みになられるのかっー!』

 アホクサっ!
なんじゃい、この学歴階級社会の国防と称する団体は!
オイラは呆れて屁も出ず、とっとと辞めることにした。



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パート16-4

<掘って埋める穴とは?>
 ついでにもうひとつ-----バカバカしくて呆れた話がある。

前期教育の3ヶ月を終え、後期教育の3ヶ月に入った時のことだ。教育隊の班長に導かれて、我々は駐屯地の空き地でスコップを1本ずつ渡された。

『はいぃー、全員穴を掘れぇーつ!』
オイラはここに全員で穴を掘り、何かの堀か建物でも建てる基礎工事の段取りでもするものかと思って皆と穴を掘った。

 で、小一時間経って穴を掘り終えて、休息し再び作業開始の命令を聞いた。
『はいぃー、穴を埋めてぇーっ!』

 な、ナント!
今、全員で一生懸命掘った穴を埋めろとな!
そこでオイラは班長に抗議。
『最初ッから埋めると分かってりゃあ、一生懸命掘らなかったのに!』
と、文句を言うと、班長曰く、
『これは穴掘りの訓練でアル!』

 これは笑い話ではない。事実である。
思うに・・・現在でもどこかの駐屯地の施設中隊の教育隊では、同じようなカリキュラムに沿った、『穴掘り&穴埋め訓練』が実施されていることだろう。
 このようにして、ワシら国民の血税が有効に使用されていることに感謝し、哂おうぜ。

 



パート17
<娑婆は天国>
 自衛隊へ入隊して丁度365日、オイラにとって1年という我慢の周期が回ってきたとき、辞表を出して退社した。

 娑婆の風は心地よかった。なーんせ工業高校、鐘ケ淵、東芝、自衛隊、いずれも16歳から24歳までの8年間、オイラは男だけの社会で過ごしてきた。ことに自衛隊時代は娑婆へ出られるのは平均1ヶ月に1度くらいのみ。娑婆で見かける女性が、どれもこれも誰もかれも、みーんな天使か美女に見えてしまって困ったものだ。

 パキスタン人の友人が言っていた。
『ナリタではパンツを3枚履け』
ムスリムの国から性の解放された日本のナリタに行く時は、パンツを3枚履いて勃起を隠せ、というものだ。


<キャバレーで鼻血ブーッ!>
 自衛隊を辞めてからすぐバンドの仕事が見つかった。
まずは大宮市のクインビー。そこはバンドの控え室とホステスの着替え室は隣。廊下を歩いていると、あけすけなホステスたちはオッパイ丸出しで着替えている。
『オヤ?野中くん、鼻血でてるよ。』
不覚にもオイラは、知らない内に鼻血を出していたのだ。

 またある大宮のキャバレーでのショータイム。
ビギン、マンボ、スローの3曲でストリッパーが踊る。伴奏中のオイラは不覚にもオイラの口に血の味がした。その時たまたま振り向いたサックスのリーダー。
『野中!鼻血、鼻血!!』
オイラはあわてて鼻血を拭き、鼻の穴にティッシュを詰めてドラムを叩き続けた。サックスは笑い転げてとうとう曲を吹けずじまい。

ようやくプロのドラマーとして本格的に船出したのだが、その時24歳。遅きに失した船出だが、それでもオイラはまたまた音楽学校への夢は捨てられずにいたのだった・・・。

つづく

 


パート18

<まだ残っていた向学心>
ようやくプロのドラマーとして本格的に船出したのだが、その時24歳。自衛隊に入る前にも何度かバンドマンをやり、技術と経験不足から何度かクビにもなった。だが、24歳からはギャラも人並みでクビになることはなかった。10代の頃からオイラが目指していたプロのドラマーとして一人前になった時代である。

 だが、ひとつだけ心残りがあった----。
これまで4つの音楽学校に入学はしたものの、どれも卒業をしたものは無かった。それどころかたったの1度だけの登校で止めた学校もあった。だから最後のチャンスとばかり国立の音楽学校を受けることにした。

 自衛隊では連日12時までは勉強をしていたし、自衛隊に入るまで最初に上京した時に入学した学校の先生に、クラッシックのレッスンは受け続けていた。それを再び再開していたのだ。しかも受験料も入学金も既に準備は出来ていた。


<国立の音大受験>
 上京後、最初に入学した音楽学校でレッスンを受けていた音大の先生からは、『野中クン、キミの音はもう違うよ。』と、言われていた。どう違うかと言うと、クラッシックの音にしては音が鋭過ぎる、というものだった。ま、仕方ない。オイラのジンセイで紆余紆余曲折と回り道してきた怨念が音に出るのだろう。

 齢、すでに26歳。
私は受験生となった。
面接で高名な女性パーカッショニストに質問された。
『あなたは合格しても、夜の仕事を続けますか?』
その顔には侮蔑の表情が見て取れた。

 この時、オイラの脳裏に最初に入学した音楽学校で、連日違うものを着替えて登校し、髪を茶髪にし、香水を付けて、昼飯を喫茶店で食べるお嬢様たちの姿が浮んだ。片親で赤貧の水飲み百姓の四男坊が、上京して夢敗れた音楽学校の姿がそこにはあった。と、同時にこの質問者に対してカチンと来た。
(オバハンかて同じ穴のムジナやろ)
『はい。ドラマーは私の目指して来た職業です。食べるためにバンドマンを続けます。』と、キッパリと答えた。

 この返答が合否に関係したかどうかは分からない。だが、合格発表の場にオイラの受験番号は見出せなかった。

 以降、音楽学校への入学欲を捨て、ジャズのライブハウスでライブ活動を始めることにしたのだ。そしてその最初のライブハウスは西荻窪にある『グッドマン』だった。それが27歳の時である。その折の客は数人。現在も客数に大差はない(涙)。




パート19
<オクターブ・Gだったギャランティー>
 自衛隊に入る前のドンバ(バンド)のギャラは、E(3)万円だった。カネカで三交代をして4万円だったことを考えれば、好きなドラムを叩いてのギャラだったから、自分では大満足だった。
 後に自衛隊でのサラリーが大体5―6万円。その自衛隊を辞めてから最初のバンドのギャラがオクターブ(8)・G(5)万円だったから、文句は無かった。


<鼻血ブーでゲットしたもの>
 当時、大宮のQビーといえば、詳細なサービス内容は知らなかったが、女の子たちのスタイルはセパレーツの水着の上に、うすーいカーテン生地のような、スケスケの超ミニの上着を羽織っていた。その格好は自衛隊を除隊した直後のオイラには、相当に強烈に映った。

 「魚心あれば水心」というのか、ステージ上でドラムを叩きながら、邪心を抱いて見つめるオイラと、あるホステスがねんごろにな関係になるには、そう時間はかからなかった。彼女がオイラの安アパートに泊まりに来るようになって、暫くして彼女は1歳の息子を連れて、九州の嫁ぎ先から逃げて来ている境遇だと知ったのだ。

 男社会で育ち、男社会から転職したオイラの心は、純情を絵に描いたような青年だった。
「ボクらの関係が1年以上続いたら、子供づれでもいいから入籍しよう」と、いう話まで出来上がっていた。


<入院とダンナ>
 ところが人生ままならぬ。紆余紆余曲折の本領発揮といったところか----彼女が原因不明の病で倒れ、入院してしまったのである。だが、婚家を逃げて来ている彼女には健康保険証が無い。入院費がいくらかかるかも分からないのである。

 そこでオイラは入院費を払うために奮起し、昼間は漬物を売って歩くアルバイトに精を出し、夜はドラムを叩いたのである。そしてアルバイトで稼いだカネとバンドのギャラをつかんで、彼女の病室を訪れた。

 すると・・・初めて見る男が彼女の枕元に立っていた。
直感でそれが彼女のダンナだと分かった。オイラは逃れるように病室を去りながら、流れる涙を拳で拭った。


<九州からの手紙>
 九州に帰った彼女からは、たびだび手紙が来た。その内容は
『来週にはアナタの元へ帰る』、というもの。
だが、彼女は来ない。
そしてまた1週間後には、
『来週こそはアナタの元へ・・・』、との手紙。
オイラはまるで忠犬ハチ公のように彼女を待ったが、その手紙もいつしか絶え絶えになり、しまいには途切れてしまった。

オイラは涙にくれて、彼女の手紙を焼き、写真を焼いた。
ドラム一途で来た不器用な男が、人並みに恋をしたツケが回ってきたのだ。これに懲りて、2度と恋などするものか、と誓ったものの、以降幾度となく、恋に泣き、女に泣かされる、ながーい氷河期が続いたのである。



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