紆余紆余曲折2




3811.盆も正月も無かったドラム人生 返信 引用

名前:のなか悟空 日付:2011-1月5日(水) 13時6分

■高校卒業後は
 今年に還暦を迎えるわけだが、ツラツラ思い起こしてみるに・・・ワシには九州の大分で高校卒業以来、19歳から40代の後半まで、ついぞ盆はおろか正月さえも全くカンケーなかった。それほど働いていた。ま、バンドマンには盆も正月も身内の葬儀もカンケー無いからなぁ。

 バンドマンの休みといえば月に2度しかなかったし、バンドが休みでもバイトに行っていたから、ワシは年中無休で働いていた。それでもビンボーだった。

 バンドマン(箱バン)を辞めた40代の後半になっても、昼夜のバイトは続けていたから、実際の休みはワシには殆ど無かった。休みといえばせいぜい元旦と2日くらい。盆休みなんて無い。

 そんなに働いていても赤貧だった。
どうやら貧乏神との相性が良かったのだろうが、それは困る。でもずっと社会の底辺で棲息していれば、それが当たり前になり、バブルだのなんだの言ってもワシには無関係。ただドラムを叩ければシアワセだったので、赤貧だって特に困ったということは無かった。

 ずっとそれでこれまで叩き続けて生きてきた。だからこれからもそれでずっと生きていく。


3814.38年後の人生それぞれ 返信 引用

名前:のなか悟空 日付:2011-1月7日(金) 22時19分

■ふっ、と思い出した名前
 今日、ずぅ〜と昔に苦手だったリズムの練習をしていた。もちろん今でも苦手だったのでガックリ。それでもコツコツやっていたら、ふっ、とある人物の名前を思い出した。

 そういえば・・・このリズムの曲は、ワシが若かりし頃、銀座の7丁目にあるMというクラブで専属バンドで叩いていた。その時にクラリネットを吹いていた音大生がいた。その音大生の名前を、突如として思い出したのだ。その彼が得意としていたのは、「クラリネットなんとか」という、クラのためのメチャメチャ速いメロディアスな曲だった。

 彼の名はO君。
当時はK音楽高校から、K音大に進み在学中だったが、バイトで友人と半分ずつバンドに出てきていたのだった。


■今じゃ大社長!
 で、音大の名前とクラリネットと、そのO君の名前を入れたら・・・38年ぶりの彼の画像は音大時代のそれとはまったく違っていたが・・・・100人に聞いても、いや1000人に聞いても、、いや1万人の日本人に聴いても・・・誰もが知っている有名外食チェーンの社長になっていたのである。

 片やワシの名前は、100人の日本人に聞いても、1000人の日本人に聴いても、1万人の日本人に聴いても、10万人の日本人に聴いても知らんだろう。100万人に1人なら知ってるだろうがねぇ。涙。


■どっちがシアワセか?
 で、ワシ考えた。
大社長の彼がシアワセか?それとも赤貧フリー・ジャズドラノーのワシがシアワセだったか・・・考えてみると、ワシの方が好き勝手に生きてきてシアワセだったんじゃないかなぁと思う。

 ニンゲン、懐具合だけで判断したらイカン。ジンセイ、どれだけ燃えたか、燃やしたか、ってことだろうな。ワシは殆どを燃やして、後は僅か。燃やしそこなった部分は僅か。満足度やシアワセ度はワシに軍杯があがるだろうな。

 それにしてもO君、大したもんだ。昔、半年以上も一緒にバンドをした同僚として、彼の出世にお目でとうを言おう。




4915.うようよ曲折/自由が丘 返信 引用

名前:のなか悟空 日付:2011-12月4日(日) 7時36分
■5スポット
 自由が丘といえば駅前辺りに、ジャズ評論家の「いソノてルヲ」氏の「5スポット」というジャズのライブハウスがあった。

 昔々の話だ-----ワシがまだ音楽学校の苦学生で、川崎の幸区に住んでいたころ、この5スポットで、生演奏を聞きながらウェイターでバイトをやろう、一石二鳥じゃあなどと思い、アルバイトをしたことがある。

 それが・・・・38年も前のことじゃ。
その晩の演奏はピアノがリッチー・バイラーク、ドラムが岸田恵二さんだった。当時の岸田さんは25-6歳か?すでにドラマーとしては有名だった。演奏は特にコレといって印象に無いが、リッチー・バイラークのコミカルなジェスチャーはよく覚えている。

 ひとつだけ覚えてることは、演奏後の岸田恵二さんに向かって、「いソノてルヲ」さんが、「岸田クン、リズムがよくなったねぇ」と言っていたこと。当時の「いソノてルヲ」さんといえば、当時のジャズ雑誌では、飛ぶ鳥を落とすほどの勢いで有名な評論家だったのだ。
(ふーん、さすがは有名なジャズの評論家さん、ドラムのこともよぅ~くわかるんだぁ・・・)と感心したほどだ。


■勿体無かった黒ズボン 
 で---?
ワシはどれくらいの期間、ウエイターをやったのか?
スミマセン、たったの1日、4時間だけデシタ・・。
というのも・・・4時間そわそわせずに立ちっぱなしだったものだから、足が痛くなってイヤになっちまったこと。で、翌日から無許可欠勤で行かなくなっちまったチューわけ。どうしようも無いバカな若者だわなぁ。

 で、その店のロッカーに、ワシの唯一の黒ズボンを置いてきたのが心残り。1日しかバイトに行かず、無届欠勤で辞めた者が、「ズボン取りに来ました」とは行けないからだ。だから、その黒ズボンが勿体無かったというのを今でも覚えているわけよ。38年前の若き日だったのさ。



5077.今まで断った仕事 返信 引用

名前:のなか悟空 日付:2012-2月25日(土) 14時27分

■○音の六大都市ツアー
 中・南米ドラム縦断に行く1-2何ヶ月前のこと。
有名な○音のスタッフが2人、我が家に尋ねてきて言った。
「今度六大都市でアフリカから民族舞踊団を呼んでツアーをするのですが、是非と悟空さんに同行して演奏して欲しい」−−−。

 だが−−−、当時中南米に同行予定してくれる予定だった梅さんは、すでに専属していた有名写真誌を辞める届けを出していた。もし中・南米行きを延期すれば、そんな一人の人間の人生を左右してしまうことになりかねない。

 だからワシは○音の仕事を断った。
この話を後日ジャズ批評家の副島先生に話したら、
「勿体無いね。そんな話、山○洋輔だって断らないよ」と。

■NHKの番組
 十数年前、宮本亜門の司会する、各界の著名・面白人間をゲストに呼んで喋る1時間番組があった。で、そこでワシが候補に上がった。だがそんな時に限って、ワシはピースボートでベトナムに行き、ダナン市で叩く予定になっていた。

 ここで−−−、NHKに出た後、飛行機でベトナムに飛べば済む話なのだが、縄文思考のワシには抵抗があった。だって、生まれて初めてベトナムへ行って叩くのだ。それにベトナムにはいろんな思い入れもある。「はい、そーですか」と、飛行機で飛んで叩くのはカンタンだが、それはワシ流じゃない。
 あくまでベトナムへの距離を感じるため、船で波に揺られながら行くのがワシの流儀なのだ−−−だからこのNHKの話もボツった。

■ロシアへの招聘
 もう7−8年も前のことか。
ロシアのバンド関係の人たちが東京に来て、そこでフリー系のミュージシャンたちが演奏した。そこで彼らの目に留まったのが、我らが人間国宝。

 話がトントン拍子に進む中、ロシア人の提示する条件にナットクできない部分があった。それはのっけから日本の「国際交流基金」をアテにしていること。実はその「国際交流基金」は申請済みで受理もされてはいたのだが、招聘側からギャラの予算内に入れられるとはワシとしては心外な話。

 国際交流基金は国民の血税で賄われている。
ロシア側がワシらを呼びたいのだったら、ロシア側の基金を使うか自分たちの身を削ってでも呼べばいい−−−ということで、たまたま幸運にも?サックスの近藤直司が骨折したのを理由に、ロシア行を断わり、国際交流基金にも申請の取り下げる旨、連絡をした。担当の人は意外な申し出に驚いた様子だった。

■テレビで
 これも10年ほど前の話。
何かの番組で、赤貧ドラマーとしての我が家の生活ぶりを取材したいとの申し出があった。これには「みっともなくて近所を歩けなくなる」−−との理由で妻が大反対。忘れた頃にこういった取材がくる。







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