5487野人は野人/第1巻  2012/11中旬よりface bookにて連載開始
回想録その1



  画/田口さん


名前:のなか悟空 日付:2012-11月16日(金) 9時9分

■マックス・ローチの「WE INSIST」の天啓
 大分の工業高校を出て兵庫の化学会社に就職したものの、初任給をはたいてドラセットを買ってしまった。以来、就業時と睡眠時と食事時以外はずっとドラムを叩いていた。

 当時はグループサウンズやジミー竹内、原田完治を聴きまくっていたのだが、ある先輩から
「野中くん、ジャズもいいよ。ルイ・アームストロングを聞いたらいいよ」
とアドバイスを受けてレコードを買ってきて聞いたものの、たいして感じるものは無い。ならば別の物をと寂れたレコード屋の棚にあったのが、マックス・ローチの「ウイ・インシスト」だ。

 これを聴いてブッ飛んだ。
これしかないと思った。以来、そのスタイルを目指すようになった。叩きながら心の中では、「東京へ、東京へ」という夢が膨らんできて、いつかはオイラも日本一のドラマーになるのだと細々と給料を貯め、上京してアパートを借り、音楽学校の入学金を用意するまでに1年半の月日を要した。




5489.野人は野人/回想録その2 返信 引用

名前: のなか悟空  日付:11月17日(土) 23時6分
■心に残るレコードはオーネットだけ
 兵庫の会社を晴れて退職して上京の段取りになったのだが、春の音楽学校受験までは数ヶ月ある。そこで大阪の兄貴の家に居候をすることにして、梅田にあるジャズ喫茶でアルバイトをすることになった。

 店の名は「チェック」。
男だらけの工業高校を出て、男だらけの会社に1年半も務めたオイラが、ジャズ喫茶でウェイターなどというシャレた仕事をするには相当に緊張した。
 まずは言葉----まだカッペの大分弁が抜けなかったのに加え、若い女性客でも来た日にゃ、緊張して口ごもったり、どもったりと何かと苦労した。
...
 で----
肝心のレコードとなると、ジャズのレコードを延べ数千枚は聴いたはずなのに、印象に残ったのはオーネット・コールマンが寒いところでコートを着て3人で写ったジャケットのレコードだけ。あとのプレヤーは殆ど印象に無い。そんなイビツで偏ったジャズ志向の若者だったのだ。


■野人の始まり
 梅田のバイトが終わるのは終電に間に合うギリギリの時間。それから電車に乗って摂津富田まで鈍行で帰る。それから大阪で手に入れた中古のリヤカーにドラムセットを乗せて、電車のガード下へ練習に行くのだ。
 頭の中にジャズ喫茶で聴いたオーネットの雰囲気を描いて、悦に入って叩いていたが、実はさんざん聞いたジミー竹内風か、原田寛治風になってしまっていた。


■最後のバイト代はもらえずじまい
 最後のアルバイト代の給料日は、上京の後の日付けになっていた。月半ばのアルバイト代は9000円。それさえも前借りもできないほどチンケな店だったので、店長に給料を東京に送ってくれるように依頼していたのだがそのままナシのつぶて。
 当時、化学工場での給与が4万円(大卒初任給とほとほ同額)だったから9000円は大金だった-----東京ではなく横浜の鶴見に借りたアパート代が6000円だったから、優に1ヶ月半もの家賃だったのだ。。残念!




5492.野人は野人/回想録B 返信 引用

名前: のなか悟空  日付:11月18日(日) 11時13分
■新幹線の中でレコード・プレヤー
 1972年の早春、時は札幌オリンピックの頃、いよいよオイラは尚美音楽学園の受験のために上京する。試験科目の音楽実技は実にジミー竹内の「ドラムドラムドラム」の中から「ヘイジュード」の2-3コーラスに相当するソロの部分を殆ど暗譜して叩けるようにしていた。それともうひとつはドラマーに不可能と言われている片手でのロールも出来るようになっていた------受験会場にドラムセットはあるのだろう。当然ヘイジュードは誰かがそばで演奏してくれるに違いない。ソロの部分になったら披露すればいいのだ。「これで受験は完璧さ」と、自信があった。

 そのために新幹線の中でも準備は怠らない。
当時コンパクトなテープレコーダーがあったかどうか定かではないが、少なくともオイラは持っていなかった。だから新幹線の座席の足元部分にポータブルプレヤーを置き、ジミー竹内のLPレコードをかけてイヤホン(ヘッドホンじゃない)で聴いていた。当時はまだいた新幹線の女性車掌が怪訝な表情でオイラを見たが、そんなことにゃ構っていられなかった。


■片手ロールの妄想潰えたり・・・
 打楽器科の試験会場に行くと、当時流行っていたアイビー系のファッションをした若者たちが数人、太鼓の練習用の板っ切れを叩いていた。
(あれっ?ドラムセットは置いてないの??)
オイラはジミー竹内ばりのソロが披露できないかも知れないのが少々不安になった。でもめげずに他の青年たちに聞いた。
「キミたち、片手でロール出来る?俺できるよ」
「ええっ!すごいじゃん!やって見せてぇ--」
と言われ鼻高々で板っ切れに向かった。

ところが----!
「あれっっっ???」
スネアーの上ではザーッとなるはずのオイラの片手ロールは、板の上ではポトンポトンとしか小さい音しか出なかった。涙。こ、こんなはずじゃなかったのに・・・そこでアイビーのチョビヒゲは哂った。
「それ、ロールじゃ無いじゃん!」
そう言って板っ切れでマーチのようなつまらない雰囲気のものを叩き始めた。これを5つ打ちだとかフラムだとか言うらしいが、ちっーともツマラン叩き方だった。
 オイラは当時の連合赤軍のようなアーミーファッションをしていたから、アイビーのチョピヒゲの野郎いけ好かなかったが、今ではそこそこ有名ドラマーになっているかも知れない。

(ま、いい。ヘイジュードのソロであっ、と言わてやる)
とは思っていたが、ヘイジュードの演奏をしてくれる人たちがいない。(しょうがない。ポータブル・プレヤーで再生して、板っ切れの上で叩くか・・・・)
とは思ったものの、実技がオイラの順番が来てもポータブルブレヤーをかけてLPレコードを取り出す暇もない。

試験官/「で?キミは今どんなのをやってんの?」
オイラ/「はい、片手ロール、いえ、ヘイジュードのソロを・・・」
試験官/「ま、いいでしょう。そこにある板を叩いてみなさい」

 で、オイラは頭の中でジミー竹内を意識して叩いたのだが・・・しょぼい!しょぼすぎる!!ドラムセットで叩けばゴキゲンなのに、ヒドイ、ヒドスギル!!!オイラって全くの井の中の蛙だったのね・・・・涙。

そして次なるテストは「凍る湯分限」だと。
何じゃそりゃ!!??


写真は1984夏、弘前の「ユニオン」。右から2番目はマスター


5493.野人は野人/回想録C 返信 引用

名前: のなか悟空  日付:11月18日(日) 19時7分
■凍る湯分限とは?
 オイラにゃ初耳の「凍る湯ぶんげん」とは、お湯が凍るのではなく、どうやらコールユブンゲンというドイツ語のようで、初見の音符を見て歌うテストらしい。
 なるほど、音符を見て歌うなど容易なこと。大したことはないとは思った。じっさい初心者用の譜面だったのでハ長調で、簡単な音符だったので容易に歌えた。積もりだが・・・途中で2-3出てきた臨時記号にチョットつまづいた。首を傾けて歌っても声は半音上がってはくれなかった。涙。


■連れ込み宿で独り泣く
 試験は文京区本郷、慣れない首都圏の電車を乗り継いで、当てずっぽで川崎駅に降りた。田舎モンなので全く土地感が無かったが、駅裏の安宿に泊まった。

 部屋には風呂がなく、準備が出来るまで待っていた。テレビではトワ・エ・モアが札幌オリンピックのテーマ曲を歌っていたが、オイラの心は楽観視していた試験が上手くできず、失意のドン底だった。

「お客さ〜ん、お風呂の用意ができましたよぅ〜!」
階下で女中さんの声がした。ところどろこがタイルの禿げた小さな風呂に、オイラはヒザを抱えて入った。

 安っぽいせんべい布団に入ると、枕元にはシビンのような容器に水が入った物とコップが2つ置いてあった。なぜ置いているのか意味が不明だったが、その意味が分かるまではまだまだジンセイの経験を必要としていた時期だった。
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写真は岐阜の柳ケ瀬近くのライブハウスにて


5497.野人は野人/回想録D 返信 引用

名前:のなか悟空 日付:11月19日(月) 13時39分

■上京は3点セットのみ
 予想外に音楽学校には受かった。それで横浜の鶴見区に就職していた友人が鶴見区に4畳半のアパートを借りてくれる手配をしてくれた。風呂ナシ、窓ナシ、トイレ共同、台所共同で家賃は6000円。

 オイラはさっそく上京の手配をした。
@ドラムセットA布団Bリヤカー。以上が引越しの3点セットで、余分としては入社式の時に着た背広1着と、連合赤軍のようなアーミー上下のみ。
 狭いアパートでの自炊はミカン箱をテーブルにして、新聞紙を広げて十徳ナイフで自炊をした。これから始まるドラム人生に向けて、戦場のキャンプのような生活からスタートしたのだ。


■山下トリオを聴いて
 金は無かったが上京のコケラ落としに、新宿のピットインに山下トリオを聴きに行った。まだ歌舞伎町の地上にあった店だ。メンバーは山下、中村誠一、森山威夫の初代トリオだ。

 そこで世間知らずのオイラは、「あんなのは俺にだってスグ出来る!」と思った。飛ぶように鶴見の安アパートに帰り、深夜にもかかわらず大阪から持ってきたリヤカーにドラムセットを積んで、鶴見公園??へ行った。
 まだ世間は3月。肌寒い早春の深夜にも拘らず、紅顔の世間知らず青年はたぎる情熱を抑えきれなかったのだ。


■何やってんだ!!

 セットする時間ももどかしく、オイラは森山何するものぞ!とたぎる気持ちをドラムセットにぶつけていた。
 すると、だ-----
「何やってんだ!!」と2人の警官。
悦に入って叩いていたオイラは、それを中断されてちょっとキレた。
「何やってんだ、って見りゃあわかるだろう!」
「今何時だと思ってんだ?」
「さぁ?」
少し大人の警察官はやんわりと言った。
「あのねぇ、いま深夜なんだょ。君がドラムをガンガン叩くから近所からウルサイって苦情の電話がかかって来たんだょ」
「ナルホド・・・」

 ということで中断されてガッカリしたが、警察官が立ち去ってからは少し音量を下げてまだ叩いていた。
 それにしても-----近隣騒音などということと無縁の田舎で育ったオイラには、都会の洗礼をひとつ受けた。


★写真は1984夏、会津若松「トム」での1コマ。
マスターは聾唖者のグループを招いていたが、耳が聞こえないはずの客たちがエラク喜んでくれたことにオイラは感激した。彼らは床と空気から伝わってくる振動で音を「感じて」いたのだ------ここから音楽は「聞こえなくても聞こえる」という論理を学んだ⇒これが後の不破大輔のベースアンプが無くったって、指と姿勢から音を聞き、川下の音が聞こえなくったって、後ろ姿で音を感じればいいのだ、という論理を確立したwww。

★ところでこの車は都内のライブの帰りに眠くなったので、トラックが止まっていた路肩に、トラックの後ろに止めて寝たのだが・・・目が覚めて発車しようとしたら動かない。それで降りようとしたがドアが開かない。やむなく反対側のドアから降りてみると・・・前に止まっていたトラックが発車する時に一旦バックしたのだろう。オイラの車の前方は潰れてしまっていた。トラックは既に無く、誰にも責任を問えずじまいで廃車。涙。



5498.野人は野人/回想録E 返信 引用

名前:のなか悟空 日付:11月21日(水) 18時42分
■夜間部を選んだ
 カネが無いオイラは尚美では入学金は分割。月謝も当然、月払い。そして少しでも料金の安い二部を選択した。

 尚美の3つほどの先輩には日野元彦さんがいたが当時は面識がなかった。またTAMAのモニターであり国内の有名バンドで叩いた技巧派の長谷川清司さんは1学年先輩。それとニューヨークに長年渡っていた小林氏は、ドラムセットの部を猪瀬雅治氏のレッスンを受けていた。彼は当時からセンスが良く上手だった。みーんな20代の前半だったのである。


■アルバイト
 また大阪でやったようにウエイターをやろうと思ったが、当時連合赤軍の浅間山荘事件のあったばかりの時期だということもあるのか、「アルバイト募集中」の張り紙を見て喫茶店を数軒あたってみたが、全くダメ。服装が連合赤軍を連想させる上下アーミーファッションで長髪だったせいもあるのだろう。だって背広以外はコレしか無いんだもの、わざわざ背広を着て喫茶店のウェイターの面接にゃ行かないだろう。

 それと・・・練習に明け暮れていたせいで風呂にもだいぶ入ってなかったというのも原因か??


■やっと見つけたアルバイト
 20年ほど前に週間アルバイトニュースに連載していた一記事を写真でアップした。こんなカンジで学研のセールスのアルバイトを始めたのある。

http://homepage2.nifty.com/nonakagoku/arubaito/



5499.野人は野人/回想録F 返信 引用

名前:のなか悟空 日付:11月22日(木) 7時59分
■新学期と新アルバイト
 高校の同級生と一緒に川崎の幸区に6畳1間のアパートを借りることになったため、鶴見の安アパートは2ヶ月ほどで引き払った。引き払ったといってもドラムとリヤカーと布団だけだったので簡単だった。家賃は1万円。トイレ共同、風呂ナシは当然のこと。

 鶴見での学研のセールスのバイトを辞め、新学期から大田区の蒲田にあるジャズ喫茶でウエイターのバイトを開始。そこから毎晩文京区にある音楽学校に通った。
 時給170円のウエイターの仕事は店がヒマだったのでラクだった。しかも食事付き。店番をしながら殆どは練習台やヒザ頭で練習をしていた。ただ何千枚も聴いたジャズのレコードに関して、あのックス・ローチの「WE INSIST」に勝ると思えるレコードは無かった。他のレコードは殆ど記憶に無いし、どーでもよかった。


■新学期とついたアダ名
 尚美の新学期が始まった。前にも言ったように二部のクラスなので、殆どの生徒は昼間働いている勤労学生。年齢もバラバラだったのでオイラには居心地がよく、クラスの全員が友人になった。

 そんな中、オイラはクラスの女子生徒たちからいつの間にか、「おもらいクン」と呼ばれるようになった。
 その理由は−−−−当時少年サンデーだか少年マガジンだかに、「おもらいクン」という連載があった。その「おもらいクンは」
@関西弁を喋り(当時のオイラは関西に2年ほど居たせいで関西弁を喋っていた)、
A風呂に入らず不潔でハエが頭の周りを飛んでいた
B着替えをしなかった。

 と、上記の3項が共通するため自然にそんなアダ名が付いてしまったのだ。幸区のアパートは風呂屋が隣にあったのだが、帰宅が夜遅いため風呂屋に行く暇がなかったのだ。実は・・・正直な話、風呂代が無かったのだ。


★有田帆太さんの写真の評判がいいのでもうひとつ!
ちなみに下記のHPに有田氏による写真で、雑誌「実話ナックルズ」の記事を読める。
http://homepage2.nifty.com/nonakagoku/gekkan2/続きを読む




5500.野人は野人/回想録G 返信 引用

名前:のなか悟空 日付:11月22日(木) 16時1分
■初めてのプロバンド
 尚美の夜間部に通い始めてたったの2ヶ月後、蒲田のジャズ喫茶のすぐ前にあるキャバレーのコーラスバンドで、ドラムを探していた。当時のオイラは最低限ではあるが、あらゆるリズムのバターンは知っていたし、コーラスバンドと言えば背広を着て蝶ネクタイを締めて歌謡曲を専門にやる下らないバンドだとナメきっていた。

歌謡曲が主なのでナメきっていた。

 卑屈になることはない。だってジョージ大塚さんだって、最初はバラダイス・キングというコーラスバンドにいたこともあるのだ。何だかんだ言ってもドラムを叩いてカネを貰えるのだ。しかもプロのドラマーになれるのだから、ジャズ喫茶でお盆を持ってコーヒーを運ぶよりはよっぽどマシなのは当たり前だ。


■6拍のオカズで叱られる
 ラテンの曲にピアノロという曲がある。途中、6拍だけドラムのソロがある。ある夜、客はオイラの思惑とは別に楽しくまた軽やかにピアノロという曲でラテンを踊っていた。

 そこでピアノロ----オイラの6拍ソロ!!!!!
オイラはそのオカズにどういうリズムを叩くか考えに考えた。
「ハイ、ドラム!!」
バンマスが指差した。
そこで新米ドラマーのオイラ、
「?とぅぅぅ~ん、バチをすりすりすりすりぃ~~~」
あらまぁ!!踊っていた客たちは棒立ちだ。
「こらぁ~!!!」
バンマスからお目玉を喰らった。


■6拍は6拍だから・・・
「野中クン、あの6拍はいったい何だったのかね??」
「はい、6拍は6拍なので自由に叩いていいと思い、頭の中で6拍を感じながら、スネアーに置いたバチをもう片方のバチで擦ったんですが・・・」
「バカァ~これはダンスミュージックなんだよ。踊りがストップしたら、ウチらの商売は上がったりなんだよ。フツーに6拍叩きなさい。それができなかったら何もせずにマンボでもチャチャチャでもいいからそのままリズムを続けていなさい!!」

ということで以降ピアノロは何もせずにリズムを続けているだけ。それだけならまだいいが、あまりに歌謡曲的な叩き方を知ら無さ過ぎるから----と大幅なギャラダウンを言い渡された上、その月いっぱいで「ビーク(クビ)」になってしまった。

 夢にまで見ていたプロドラマーの夢は僅か半月で潰えてしまい、オイラは再び昼間はジャズ喫茶でお盆を運び、夜は尚美の夜間部に通うことになったのであった。


★写真は1984夏、元祖ジンコクの北海道・東北ツアーでの磐梯朝日国立公園での1コマ。不破くんはオイラの服装がダサ過ぎると文句を言っていたが・・・今見るとフーテンの寅さんみたいで、やっぱダサいわ(;_;)。。。


5501.野中の野人/回想録H 返信 引用

名前:のなか悟空 日付:11月23日(金) 18時25分
■今度はタンゴバンドに
 再びジャズ喫茶のウエイターと音楽学校の夜間部に復帰したオイラだったが、またすぐにキャバレーバンドの仕事が舞い込んだ。なんと!アコ−デオンがバンマスのタンゴバンドだ。バンマスは高齢だったが日本のタンゴバンドの草分け的な人で佐藤金造さんとその奥さん。オイラのような初心者のドラマーの面倒を見てくれると言うのだった。

 タンゴなんてのっけからナメてかかっていたのだが、なんのなんの、奥が深い。オイラは一から十まで学ぶことだらけだったが、佐藤さんはよく面倒を見てくれた。佐藤さんのタンゴバンドで蒲田から銀座、新宿と半年にわたって勉強させてもらった。

 佐藤バンマスは、「ウチの息子がいま芸大に行ってんだけど、絶対音感があるんだよね」、などと自慢げに語っていたが、事実その息子さんは十数年後には高名な作・編曲家になり、有名な流行歌手と結婚した。


■ジミー竹内のソロが活きた日
 場所は銀座。オイラは他の曲では全くの初心者だったが、あるアップテンポの曲で、32小節×2のドラムソロの曲があった。そこで当然オイラのソロ。それにちょうどオイラが必死で受験用に勉強したヘイジュードのドラムソロを2コーラス当てはめた。
 これでバンマスはビックリ!1
「のなかクン、キミやるねぇ・・!!!」
と、他の曲はともかく、そのソロにだけは及第点を貰った。 


■今じゃ大社長!
 当時は国立音大にのクラリネット科に在籍中のO氏と某氏が、バイトで半分ずつバンドに出て来ていた。2人ともバンドのレパートリーにあった「クラリネットポルカ」などはチョチョイのチョイで演奏してのけた。

 その2人のうちのO氏は、現在は、ナント!!首都圏では誰もが知っている有名外食チェーンの社長になっているのである。ジンセイとは、全くもって一寸先はワカラナイ。

★写真は1984年夏、陸前高田「ジョニー」前にて。
あの震災で現在は痕跡すら伺うことも困難なほど。ジョニーさんのご家族は全員無事でした。



5502.野中の野人/回想録I 返信 引用

名前:のなか悟空 日付:11月24日(土) 7時9分

■音楽という学問は・・・
 通常、学問と言えば学校で授業を死ぬほど熱中してやったり、電車の中でもどこでも二ノ宮金次郎のように教科書や参考書を読めばなんとかなるものだが、音楽だけはチト違う。いかにマジメに授業を受けたとしてもその技術だけは、机上ではゼッタイに習得できない。
 ピアノにしてもドラムにしても、その技術の習得はひとえに、時間を過剰に浪費する反復練習しかない。


■時間とカネとの追っかけっこ
 バイトをすれば練習時間が足りない。かといってバイトをしなければ月謝やメシ代、家賃、楽器を買うカネが無い。だから働き過ぎても上手くならないし、練習し過ぎるとカネが無い。

 オイラはこの狭間で苦しんだ。だがその苦しみさえ、ひとえにプロのドラマーになるためだと耐え忍んだ。ある時は時計(高校入学祝に貰ったもの=いつの間にか流れた)を、ある時はスネア・ドラムを、質に出し入れして工面した。

 またチョットの時間を惜しんで、バイト先へ行く自転車をこぎながらバチを振り、通学電車の中でも教則本を広げてバチを振り、歩きながらもバチを振り、バチが体の一部分になっていた。

 入浴などはもってのほか。時間が勿体無い。だからアパートの近くにあるはずの風呂屋さえも、次回行くのに捜さねば行けないほど、ご無沙汰をしたものだ。


■メシ食ってますから・・・
 ある時、タンゴバンドの佐藤さんに
「野中クン、そんなに練習と、学校と、バンドとで、少しは寝てんのかい?」
「いえ、飯食ってますから」
「いや、寝てんのかいって聞いてんだよ」
「いえ、メシ食ってますから」
「だ・か・ら、少しは寝てんのかい?」
「はい、だから、メシ食ってますから大丈夫です」

 22歳当時、オイラはメシを食べてエネルギーさえ補給をしていれば、睡眠などは不要だと考えていた。だけどいつも眠かった。


★写真は1984夏/ジョニーのマスター(ヒゲ)、川下直広(ヒゲ)、みかみかん(短パン)、悟空(カンカン帽)、バイクの人はツーリングの客。





5503.野中の野人/回想録その11 返信 引用

名前:のなか悟空 日付:11月25日(日) 8時41分

■女学生と会話できずに
 音楽学校の夜間部は働きながら学ぶという共通の悩みを抱えた者たちだったので、多くの友人が出来た。だが、タンゴバンドでの仕事が安定したことから、登校が困難になってしまった。そのため夜間部から昼間部へ変えてもらった。

 ところが-----中間部クラスの8割方が女の子。しかもみーんなキレイどころで、ピッカピカに着飾っている。しかも化粧臭い。これじゃオイラがバンドをやっているキャバレーのホステスと変わらんじゃないか!!
 
 学校とは学問をする場所じゃ無かったのかい?
1年半を一般社会で働き、音楽学校の入学金を苦労して貯めたオイラには、日々衣装を取り替え、化粧をして、香水の臭いを漂わせるクラスの女の子たちが学生には見えなかった。これがオイラには大ショックだった。そのトラウマから、現在でも着飾った女子大生なるものを見ると嫌悪感がある。


■中退を考える
 昼間部には数ヶ月しか行かなかった。その理由は
@オイラは上京時に布団1セットとリヤカーとドラムしか持ってなかった。それなのに先生が言うのである。
『今度の合唱の発表会では、男子は黒の上下を着てくるように』とのお達しがあったのだ。黒服どころかパンツの着替えさえ無いに等しかったオイラは、(音楽は衣装じゃない!)
と、確たる信念を抱いていたオイラは、その学校での向学心が失せた。

 また、当時の喫茶店でのバイトが時給170円くらい。
オイラのバイト収入が3万円弱。それなのに同じクラスの連中ときたら、昼休みには喫茶店で食事をし、放課後にはコンパに飲みに行っていた。
 喫茶店で働きはしても、客で入るなんて夢のまた夢だったオイラには、同クラスの人間たちが、違う社会の生き物に見えてしまったことがふたつ。

 さらに、見習いながらドラムを叩いてカネを貰える仕事が有ったことことから、昼間の音楽学校に対する向学心が失せつつあった。

 それでも打楽器の教授である塚田靖先生(芸大・学芸大などの先生)には以降数年間レッスンを受けつつ、巷のドラム教室にも幾つか(猪瀬雅治・猪俣猛。ジミー竹内、ジョージ大塚)通っていたのである。カネなんかあるわけ無いのだ。


★写真は1984夏、陸前高田「ジョニー」での1コマ
メガホンサックス/川下直広、ベース/不破大輔    



5504.野中の野人/回想録その12 返信 引用

名前:のなか悟空 日付:11月26日(月) 7時53分

■副科ピアノ
 当時、最大の難問は副科のピアノだった。
ドラムは歩きながらでも、自転車をこぎながらでも、電車の中でも、歩道のベンチの上ででも練習できたが、ピアノだけはそうはいかない。アパートにはピアノは無いし、音楽学校で借りれば金がかかる。

 そこで川崎の幸区にあるアパートの近くにあった、「中川幼稚園」という見ず知らずの幼稚園に飛び込んで、週に何度か夕方の空いた時間にタダで使わせてくれないかとお願いして快諾を得た。ありがたいことである。そこでオイラはとにかくハノンとチェルニーの最初の方だけを弾いていたのである。が、生来の不器用で、ちっとも上手くはならなかった。


■先生も嫌い
 ピアノの先生は芸大を出た人だったが、名前は忘れた。
いつも受験生のような睡眠不足の目をした、不健康な若い男だった。
 オイラが週一度のピアノのレッスンでちっとも進まないのでいつも嫌味を言うが、俺だって練習をしたくたって時間が無いのだ。ピアノばっかしは電車の中や歩きながらでは練習は出来ない。時間も金もピアノも無い者には酷というもの。だんだんピアノのレッスンから遠ざかってしまったのだが、今だに当時のピアノコンプレックス(トラウマ)は残っていて、ピアニストとの共演は苦手である。


■神様の恵み?
 パンツの着替えさえ買う金も無かったほどのオイラだったが、ある年のクリスマス時期、川崎のデパートでヤマハの新品のピアノをローンで買った。
 パンツの着替えよりピアノが必要だったからだ。大阪の兄貴に保証人になってもらって買ったのだが、いつになっても銀行から引き落としにならない。兄貴に電話しても兄貴にも何も連絡は無いとのこと。結局・・・2年以上経ってもローンの催促は無いままで、いつしか忘れてしまった。あまりに赤貧のオイラを見かねた神様の恵みだったのかも知れない。


■朝6時からハノンの練習
 オイラのアパートは6畳1間の共同の汲み取りトイレ。当然、風呂など無い。1階が3世帯、2階も3世帯で、オイラの部屋は2階の真ん中。そこで毎朝6時からハノンの練習をするのが日課。もちろん部屋の中にもドラムはセットしてあり、叩きたい時に叩いていた。
 それが原因かどうかは知らないが、そのアパート「幸荘」の住人はしょっちゅう入れ替わっていた。あんまり幸いじゃなかったのかも知れない。

★写真は1984年夏、青函連絡船で初めての北海道ツアーに渡るの図




5508.野中の野人/回想録その13 返信 引用

名前:のなか悟空 日付:11月27日(火) 6時42分
■母の死
 そういった日々のとある日、突如田舎の大分からの電報が母の死を告げた。
 父を既に中2で亡くしていたオイラの残すは母親一人。その母親はまだ64歳だった。日本一のドラマーになって母を喜ばすことだけが目標だったオイラにとって、すべての支えが外れた。いつもリヤカー引っ張って行って練習していた多摩川べりの川原で、オイラは幼児のように泣きじゃくった。

 よぅし、母の墓前に報告するために、オイラは必ず日本一のドラマーになるのだ!
そう考えたオイラは尚美を含めて、毎年4つもの音楽学校に入・退学を繰り返し、のべ4つものドラム教室に通ったのである。


■尚美の翌年は別の音楽学校へ入学
 尚美は春から秋までで中退。やっぱり夜のバンドでは経済的に不安定なので、もう少し腰を落ち着けて学ぼう。そう考えて翌春には川崎にある東芝の工場に就職し、夜間のJ音楽学校へ入学したものの、その音楽学校のレベルに失望し中退。だが・・・中退したものの、また翌年に再入学してまた中退。にもかかわらず、その翌年はK音楽学校へ入学し、また中退。
 いずれの学校も全て入学金は分納であり、月謝も月払いだった。そういう意味で退学時に入学金を未納のままという学校もあった。

 いずれにせよ極端な赤貧状態にもかかわらず向学心だけは旺盛だったようだが、よっぽど要領が悪く優柔不断だったようで、毎年春になると学校に行きたくなる癖が身についてしまった。実はこれは40過ぎになって埼玉福祉大学を受験するまで続いたから困ったものだ。

★写真は1984/7の室蘭クマ牧場





5513.野中の野人/回想録その14 返信 引用

名前:のなか悟空 日付:11月28日(水) 9時18分

■赤貧苦学生の2度目はなかった出会い集
 オイラにだって22-23歳の頃といえば、生物学的にも春たけなわの時期だ。音楽学校での苦学の連続の日々とはいえ、いちおうそれなりの出来事あった。

@J音楽学校でのこと。
例によって音楽学校は工業高校と違って女子が多い。工高出のオイラにはそんな女子が眩しいが、積極的に話す度胸は無い。
 そんな時、級友の女子から話があった。
「野中さん、Oさんが付き合って欲しいんだって」とのこと。

 Oさんと言えば級友の中でも意識していた好みの子。丸顔で編んだお下げを丸めた髪型がよく似合っていた。オイラの心は動いたが、待て待て、オイラにゃそんな時間はない。そこで心を鬼にして言った。
「申し訳ないけどボクはいま音楽の勉強で寝る暇もないんだ。ごめんなさい!」と、断ってしまった。

Aアルバイト先のTさんと無い暇をやっと見つけて、当時流行っていた「追憶」を見に行ったのはいいが・・・睡眠不足だったオイラは、開始早々に睡魔に襲われバンタキュー。目が覚めたのは彼女に揺り起こされてから。映画の内容は全く知らない。

Bある年のクリスマスの時期
 別のバイト先のSさんがクリスマスイブの夜に、栄養不足気味のオイラに食事を振舞ってくれるべく招待された。赤貧のオイラにはクリスマス・ケーキなどは夢のまた夢。あっという間にたいらげて、暖かいコタツに横になったのはいいが・・・慢性の睡眠不足のため翌朝まで目が覚めなかった。

C川崎は幸区、土日の昼間は御幸公園にリヤカーを引っ張って行ってドラムを叩くのが習慣になっていた。そんな時、やはり土日に近所の会社員の女性たちもバレーボールをしに来ていた。
 ある日、ドラムのところへ転がってきたボールが縁で話をするようになったHさん。毎週会えば気も通じる。いつしかオイラのアパートへも遊びに来るような仲になり、誰もが経験するAからB、そしてCへ移行しようとする時、Hさんが言った。
「愛してると言ってくれたら許してあ・げ・る」

 当時はマンガで大賀誠の「愛と誠」が流行っていた。その中に『君のためなら死ねる』という定型句が頻出していた。そこでまだ純だったオイラ曰く、
「愛してるなんて軽々には言えない。愛するということは君のために死ねるということだ。まだ君のためには死ねない」
そう言ってCは無かった。もちろん次週からHさんは公園に来なくなった。

 神様はこんな3枚目で赤貧で、風呂だって月に1-2度のオイラにだってそれなりの機会を与えてくれていたのだろう。だが、それよりも全てはドラムのために青春を捧げていたオイラには、異性なんて何の誘惑材料にも、プラスにもならなかった。日本一のドラマーになるために、オイラの意志は硬かったのだ。

★写真は1984年7月(昭和59年7月8日クマさんのプラカードに書いてある)登別のクマ牧場での不破大輔・川下直広





5514.野中の野人/回想録その15 返信 引用

名前:のなか悟空 日付:11月29日(木) 9時7分

■当時の会計報告
 オイラが22-23才当時のアルバイト総収入は3万円弱、バンドの仕事の時で4万円ほど。この中から音楽学校の月謝が1万円、アパートの家賃等で1万円、ドラム教室で5000円、食費・交通費で5000円がおおよその支出。
 だから風呂代も着替え代も皆無。衣類は殆ど友人のお下がりを貰っていた。それでも足りるワケがない。それでもナントカやりくり出来たのは、6畳1間に同居していた高校時代の親友がちゃんとした会社員だったから、足りない分は借りていたからだ。
*当時の主食が日清のインスタント・ラーメン「もやしラーメン」。30円だった。


■音楽学校とドラム教室
 既に書いたように音楽学校へは毎年毎年続けて4年間も4つもの音楽学校に入学しながらも、毎年毎年月謝が続かず中途退学を繰り返していたが、クラッシック系打楽器のレッスンはずっと塚田靖氏に師事していた。

 それと常に同時進行して通っていたのがドラム教室。
@尚美の猪瀬氏に師事⇒数ヶ月で中退
 当時猪瀬氏のクラスで1-2度あったのが、現在は有名なドャズ・ドラマーになっている小林氏。彼は当時からオイラより上手でセンスが良かった。

A銀座の猪俣猛氏のヤマハドラム教室
 ここも猪瀬氏が教えていたが、通ったのは数回のみ。

B新宿にあるジミー竹内氏のドラム教室
 あるりズムを叩いた時、ジミーさんに
「キミ、手がよく動くねぇ」と褒められた。
 ある時、ジミーさんが先輩のドラマーたちにソロの競演をさせたのだが、そのフレーズがつまらなくて通ったのは2ヶ月ほど。

C渋谷にあったジョージ大塚ドラム教室
 そこで教えているジョージさんの弟子に、「どれくらい叩けるの?」と問われ、練習台の上で打楽器のルーディメントをやったら、「そんなのジョージさんだって出ないよ」と言われて喜んだが、クラスは初級クラスからだった。

 通ったのは6ヶ月。これまでの中で最も長かった。その間、一度だけジョージさんに習ったが、教則本のフレーズについて、
「家でやれば間違いなく出来るのに・・・」
と言い訳したら、
「そんなんだったら100年やっても上手くなんないよ」
と言われたのを鮮明に記憶している。

 結局、ジョージさんのドラム教室には6ヶ月も通ったのだが、払ったのは初回の月謝だけで後はズルズルと滞納。辞めた後もヤマハから請求が届いていたが、払おうという意識はあったものの金が無くて、現在まで払えずじまいである。ごめんなさい!

★写真は1984年7月、北海道の「すっから館」。それが何市かは覚えていないが、札幌市か? 不破大輔と俺。



5516.野中の野人/回想録その16 返信 引用

名前:のなか悟空 日付:11月30日(金) 15時18分

■野人たるゆえん---パート@
 そもそもが野に居た。苗字だって野の中だ。
小学校の登下校で笛やハーモニカを吹いていた。麦踏みの時はハーモニカだ。オヤジにドンブリ鉢で額を割られても、翌朝は額に包帯を巻いて学芸会でビブラホンを叩いた。

 大阪時代にリヤカーでガード下に行き、ドラムを練習した。横浜の鶴見区時代も公園で叩き、川崎の苦学時代も6畳1間でドラムを叩きはしたが、もっぱら幸区の御幸公園にリヤカーでドラムを運んで叩いていた。
 土日は昼間叩いていたが、平日の場合は夜間の音楽学校から帰宅後だったから深夜の時間帯だった。そんな逸話をいくつか。

■アベックがもつれ合っていても
 御幸公園でのオイラのドラムの指定席は決まった場所だった。ある夏の夜、オイラの指定席の真横でアベックが蛇の後尾のようにもつれ合っていたが、オイラはそんな事に構っている暇はない。いつものように指定席にドラムをセットして叩き始めた----アベックはいつの間にか消えていた。

■冬の夜はドラムが白く・・・
 赤貧のオイラにゃ靴下だって一足しかない。凍える冬の夜の練習は寒いので、練習をする前に公園内を走り回ったり、腕立て伏せをして身体を温めてから練習を始めていた。
 ある冬の夜、パールの廉価モデルのピンク色だったバレンシアセットが白くなっているのに気が付いた。そっと指先で触れてみると、霜が降りていたのである。ホントに寒かったのだろうが、たぎる情熱は凍ることは無かった。

■ある昼間の練習で
 土日はいものように昼間に御幸公園で叩いていたら、ある老婆が声をかけてきた。
「夜中にいつもドラムの音が聞こえていたけどお兄ぃちゃんだったのかい」
「はい、すみません」
「そりゃあ夜中にタイコの音が聞こえてウルサクないわけはないけどね。でもこの寒いのに一生懸命練習してるんだろうから、それは言えないでしょ。ご近所の人も同じだと思うわょ」
「はぁ、ありがとうございます。今のところ苦情を受けたことありません」

 そんな暖かい励ましの言葉をかけてもらうと、新たな練習意欲が湧いてくる。どんなに寒くだってまだまだ頑張らねば・・・と誓を新たにしていた。

★写真は1984年夏。北海道の不明のライブハウスその@




5517.野中の野人/回想録その17 返信 引用

名前:のなか悟空 日付:12月1日(土) 8時56分

■野人たるゆえん---パートA
 パート@で公園シリーズが出たついでに、それ以降の公園での練習&演奏のあれこれ。

■チンピラに絡まれて・・・
 川崎の御幸公園でいつものように練習していたら、チンピラ風の兄ちゃんたちが数人、「うるせぇんだよ!」と文句をつけて来た。
「ボクは日本一のドラマーを目指して練習しているんだ。アンタらもボクなんかに構ってないで、日本一の親分になれるように頑張りな」と逆に活を入れた。


■池袋で刺青を見せられて・・・
 都内の公園で「辻説法」と称して路上演奏を5年間続けた時期がある。
その日の場所は池袋の丸井の裏の公園。周りはマンションが林立している地域だ。
 当日のメンバーは吉田てっちゃんなど数人。突然みんなが演奏をやめたのでその前方を見ると、腕まくりをしてオヤジがこっちを睨みつけている。その腕には・・・「おらおらおら、これが見えんのかい、ワシはプロのヤクザもんじゃい!」が見えた。

 てっちゃんは不安げにオイラの方を見たが、ワシは負けん!
こっちだって命懸けでドラムを叩いているのだ。たとえダンプカーが突っ込んでこようとも逃げるなんてーのは下の下だ。たかがヤクザ一匹どーって事はない。オイラは逆にオヤジを睨みつけて攻撃的ドラムを叩いた。

するとオヤジは退散。「ざまーみろ!」。
と、間もなく・・・オヤジはビールを何本も両手に抱えてきて、「お前ら気に入った。ま、みんなで飲もう!」ということになり打ち上げと相成った。


■新宿の公園で・・・
 前にも言ったように、オイラの叩く指定席は決めてある。たとえそれが国家権力が有ったって構わない。新宿の中央公園ではオイラの指定席で警察官たちが公園に設置してあるネズミ取りで取締りの真っ最中。

 オイラは警察官たちと数メートルしか離れていない自分の指定席に平然とドラムのセットをして、いつものように爆音で叩き始めた。すると間もなく・・・警察官たちはネズミ取り道具を片付けて取締をやめた。ま、真横でドラムを叩かれた日にゃお巡りさんたちの無線も聞こえんだろうなぁ。お巡りさん、すんませんでした。オイラは周りの物が目に入らないほど若気の至りでした。

公園シリーズ、パートBは次回。

★1984夏、北海道ツアー、店名&場所不明の店。



野中の野人/回想録その18 返信 引用

名前:のなか悟空 日付:12月2日(日) 11時41分

■野人たるゆえん---パートB
 パート@とAで公園シリーズが出たついでに、それ以降のパートBの巻

■エアジンの演奏、その前に・・・3時間耐久演奏
 もう30年近くも前の春爛漫の頃、横浜「エアジン」のライブ演奏の前に、桜の花が満開だった横浜の山下公園でサックスの緑智英くん他と「3時間ノンストップ耐久演奏」をやった。花見客にはさぞかし迷惑な行為だったかも知れないが、当時のオイラにはそこまで配慮する余裕は無かった。とにかく叩きたくて叩きたくて、その衝動を抑えきれなかったのだ。

 3時間耐久演奏のあと、オイラは横浜のエアジンで再びぶっ叩いいた。面白いことに山下公園での演奏を聞いたある人は、そのままエアジンまで付いて来てくれたから嬉しい。さらに・・・後日その人に子供が誕生したおりに、子供の名前に「悟空」の「悟」の字を入れてくれたという。


■浦和の秋ヶ瀬公園で・・・
 以前はもっぱら浦和市の秋ヶ瀬公園で練習していた時期がある。ひろびろとした公園で、どんなにぶっ叩いても苦情なんぞは絶対に来ないから安心できた。
 そこでサックスの友人と練習する時などは、体力の錬成と銘打って、2人で相撲を取ったり、プロレスの真似事などをして身体を鍛えたものだ。

 いつものように練習をしていたある日、公園の掃除のおばちゃんが声をかけて来た。
「おにぃちゃん、いつも精がでるねぇ。あたしゃおにぃちゃんのような元気なタイコの音が好きだねぇ」と言ってくれた。ウレシイねぇ。ジャズだとかドラムだとかいったものと、最も隔たった世界に居るであろう掃除のオバちゃんが喜んでくれることがオイラは嬉しかった。
 そっかぁ・・・オイラのドラムってやっぱり肉体労働者の応援歌みたいなもんなんだろうなぁ。だって自分自身が肉体労働者で己を鼓舞しているんだもん。


■ドラム教室も屋外で
 埼玉県の朝霞市に数年住んでいた時期、ドラム教室をやっていたことがある。
 生徒は6人。小学生1人、中学生2人、高校生2人、社会人1人。全員18歳以下。場所はもちろん屋外。春や秋はまだいいのだが、真冬は厳しい。屋外も屋外で寒風吹きすさむ畑の真ん中。そこでレッスンを始める前に全員で腕立て伏せやスクワットをして身体を温めるのだ。
 こういった光景に小中学生の母親たちは心配して、厚手の上着や毛布までを持参しての見学となった。シュールなドラム教室なのであった。当時の小5だった男児はすでに40代半ばになる計算になる。

★写真は1984夏、「元祖人間国宝」東北・北海道ツアー旭川にて




5521.野中の野人/回想録その19 返信 引用

名前: のなか悟空  日付:12月3日(月) 19時26分
■大会社で社員に・・・
 夜のバンドマン生活ではすぐクビになったり、やめたり、仕事が続けて無かったりで、落ち着いて音楽学校の夜間部に通うことが出来なかった。それでアルバイトニュースの記事で見た大企業の社員になった。
 
■昼休みは即効で屋上へ 
 あれだけの大会社になると社員食堂も大混雑する。
だからオイラは昼休みになると速効で屋上に駆け上がり、練習台で基礎のルーディメントの練習。そいで就業前10分前になると、ガラガラになった社員食堂に行って食事を摂るのだ。
... 昼休みは1週間の内に2回だけは音楽室に行ってピアノ練習をしたが、やっぱりピアノは上手くならなかった。

■夜は音楽学校へ
 夜は安定して音楽学校へ通うことが出来た。
通学の電車内の時間が勿体なくて、当時はまた゜ウォークマンなど無かったのだが、自分なりに小型カセットのイヤホンを並列につなぐ改造を施して、もっぱらコルトレーンやエルビンを聴いていた。

■大会社の仕事内容は・・・
 添付HPの「悟空チャップリンになる」を読んで頂ければご理解いただけます。
http://homepage2.nifty.com/nonakagoku/arubaito/



5522.野中の野人/回想録その20 返信 引用

名前:悟空 日付:12月4日(火) 16時11分

■東芝の工場で
 流れ作業は非人間的でキライだ。
だが安定して夜間の音楽学校へ行くためにはしょうがない。経済的にどん底だった若い時期、好きだの嫌いだのと言ってられなかった。
 ベルトコンベアーの機械ってやつはこっちがコンディションが良かろうが悪かろうが、全く動じないペースで動いている。そんな中でオイラはスティックの長さのドライバーを持ってクルクル回したり、投げ上げたりして、とにかく仕事でさえドラムの練習に結びつけた。

■遅刻と欠勤 
 職場の班長には申し訳ないが、正社員なのに制服を着た事がない。髪はロング。誰もがオイラを正社員だなんて思っちゃいなかった。昼休みにも練習。そして夜学へ。夜学から帰ったらリヤカーを引いて御幸公園へ行きドラムの練習。帰ってから楽典などの学科の勉強。せんべい布団で寝て、朝の6時には起床してハノンの練習。立ち食いで自炊の飯を掻き込み7時半に出社。
 さすがに少しだけ経済が安定して気持ちに緩みが出たのか、遅刻と欠勤が増えてきた。もう会社では徹底して厄介者扱いだった。

■同級生は社長に
 そんな折り、工場視察に来た出世コースの社員たちがいた。
と、そこには郷里の同じ工業高校に行った友人の姿が。
「あれぇ?ナカヤマ、お前なにしてんだよぅ?」
「お前こそ、何やってんだよぅ!」
「俺か?間違って入っちゃたんだよ。つまんねぇかもうやめるけどさ」
 後日、友人の寮に洗濯物をどっさり持って行って洗濯をして、昔話に花を咲かせたのだが、それから彼はドイツに長期出張をした後、数十年の後には、東芝系列で数百人の授業員を抱える会社のシャチョウにまで上り詰めたのである。

■骨になっても叩けよ
 いくら金のためとはいえ流れ作業ばかりやっていては根性が腐ってしまう。そう考えたオイラは在籍1年を機に退社を決めた。居心地の悪かった会社だったから、送別会も何もないし、あってもこちらからも断っただろう。そんな中ひとりの先輩社員が涙目で言った。
「野中クンはホントにドラムが好きなんだね。会社辞めて『骨になっても』ドラムを叩けよ!」。
オイラも釣られて目頭が熱くなり、この先輩のためにもオイラは一生ドラムを叩かねばならんのだと決意を新たにした。

★写真は1984夏、元祖ジンコク北海道ツアー
悟空/川下/不破




5523.野中の野人/回想録その21 返信 引用

名前:悟空 日付:12月5日(水) 14時47分

■自衛隊へ入隊
東芝をやめてから、瞬く間に金欠に陥った。パンツや靴下の着替えもロクに無く、星飛勇馬のようにドラムの練習一筋に燃えていた時代、何か効率的な仕事は無いものかと川崎の職安をウロ付いていたある日、そこでスポーツ刈りのおじさんに声をかけられた。
「キミキミ、仕事なにやってんの?」
「はい、バイトをしながらドラムの勉強をしているんですけど・・・」
「あっそ。だったらちょうどいい!自衛隊の音楽隊に入れば、それこそ朝から晩までドラム叩いて給料も貰えるよ!しかも演奏会の時は真ん中でドラムを叩けるよ。それにだよ、音楽隊の若い人は推薦で武蔵野音大に何人も入ってるよ」
「ええっ! 本当ですか?」
という具合で1も2も無くオイラは自衛隊の音楽隊へ入隊を決めた。

■真冬でも水の中へ
というわけで自衛隊へ入隊したのはいいけれど、音楽隊に入るまでに6ヶ月間も鉄砲を担いいで山野を駆け巡らなければならないのだ。訓練を受けたのは施設中隊といって、災害時などに橋を掛ける隊なのだ。そこでは上官から命令があれば資材を担いで水の中へ入らねばならないから、冬季の橋掛け訓練はそれこそ金玉が縮み上った。

■水たまりでも直進
ホフク前進というのがある。銃を両手にもって這って前進することだ。これも上官の命令で直進するのだが、前方が水たまりでドロンコになっていても避けることなく直進しなければならないから辛い。

■穴堀り訓練
 ある時スコップを持って道路工事よろしく穴を掘らされたので、上官に質問した。
「これは何の訓練ですか?」
「穴掘り訓練だ」
 なんだか幼稚園児のような会話だが、このあと上官は新兵全員に命じた。
「さぁ、今から掘った穴を埋めぃ!」
そこでまた質問した。
「これは何の訓練ですか?」
「穴埋め訓練だ」
「ギャフン!バカバカしい、だったら最初から掘らなきゃあいいのに!」
ということで、入隊して1ヶ月程度でもう辞めたくなってしまっていた。

★写真は1984夏/元祖ジンコク東北北海道ツアーでの旭川駅にて




5526.野中の野人/回想録その22 返信 引用

名前:のなか悟空 日付:12月6日(木) 12時2分
■昼間は鉄砲、夜は勉学
 自衛隊の頃は昼間は射撃訓練をはじめ、なんやかやのトレーニングがあったが、午後の5時以降はバチを持って屋上へ上がり、練習台での練習。消灯は夜の10時だったが、オイラはいずれ海外へ演奏活動へ出ることがあるやも知れぬと、12時までは毎晩英会話の勉強をしていた。が、机上での勉学は効果は上がらなかった。


■音楽隊?聞いてないよ!
半年間、鉄砲を担いで山野を駆け巡った訓練を終えた後、ようやく音楽隊へ配属されるのかと思いきや、班長や隊長に音楽隊行きのことを尋ねると、「ええっ?聞いてないよ!」と、オトボケ返事。

 そこで自らバチ2本と芸大の入試に使用されている教則本を持って音楽隊に直接談判に行き、「今、試験を受けさせてください」と言って、副隊長の目の前で演奏して入隊の許諾を得たのである。このとき自分から受験に行かなければ、オイラはずっと施設中隊で橋掛けの訓練に従事していたことだろう。

■年下で下手糞なのに威張る上官
 やっと音楽隊に入ったもののオイラが最もイヤだったのは、自分より5歳も年下でも先に入隊した者は、下手糞でも上官である。オイラは中退とはいえ娑婆では音楽学校へ幾つか通って勉強してきたし、高額な月謝を払ってレッスンも受け続けてきた。さらに未熟ではあったが、一応プロのドラマーとしての飯を食べたことのある人間である。

 それが4-5歳も年下の奴等に「おい、野中二等兵」と呼ばれるのは辛かった。且つ、オイラが苦労して学んできたドラムなのに、「おい、野中二等兵、ここはどう叩くんだ?」と、無遠慮に尋ねられるとブン殴りたくなったものだ。


■今度こそ音大に行くんだ
 音楽隊で7人もいた打楽器の階級が一番下だということもあって、合奏よりも合奏場のイス並べ、楽器運び、シンバル磨きをやらされることが多かった。

 それでも我慢できたのは、音楽隊の中でも若い人たちの中には武蔵野音大の夜間部に何人か通っていた人達がいたことである。翌春には自分もやっと念願の音大に行くのだという長年の夢があったからである。



5527.野中の野人/回想録その23 返信 引用

名前:のなか悟空 日付:12月7日(金) 8時44分
■ピアノを巡ってキレた!
 音大に行くとなればやはり副科のピアノは必須。
そこでオイラは半年ぶりに下手なピアノの練習を始めた−−−−だが、音楽隊にはピアノが1台しか無かった。

 ある日のこと、オイラがいつものように練習をしていたら、年下だが階級が2つほど上の上官が来て言った。
「おい、野中二等兵どけよ!俺が練習するから」

 これにゃ流石にオイラもブッ切れた。
立ち上がると履いていたスリッパを脱ぎ捨てて、戦闘態勢に入った。
「上官もクソもあるかい!今は俺が練習してんだ。かかって来い!」



■音楽隊を除隊
 こんな連中のいる音楽隊っていったいなんなんだ!
制服を着て演奏する音楽って、いったいなんなんだ!
音楽隊っていったって、しょせん軍隊の音楽じゃないか!
そんな連中に人の心を打つ演奏なんて出来るわけないのだ!

 そこでオイラは自衛隊の音楽隊を辞めた。
以降、娑婆で純粋に音楽に専念し、改めて自分の力で音大に入るのだと決意を新たにしたのであった。


■音大に固執した理由
 これまで長々と綴ってきた「野人の野中」を読まれた方々はご存知だろうが、オイラがどうして「音大入学」に拘ってきたのかというのを不思議に思われる方もおられることだろう。
その理由のひとつは、亡き母に自力で音大に行くと誓ったことがひとつ。もうひとつは上京して初めて「ピットイン」で見た「山下トリオ」のドラマー森山武男にある。

 当時森山氏のキャッチコピーは「気違いドラマー」。
これはポスターにも堂々と書かれていた。例えあんな「気違いのような」ドラミングをしていようとも、背景にはちゃんと芸大を卒業していたという経歴がある。リーダーの山下洋輔だってちゃーんと国立音大を卒業している。どんなに天才と気違いの紙一重の事をやっていたとしても、その根拠を論理的に武装できなければ、ただの馬鹿騒ぎなのだと世間は思う。

 だとすれば----
どんなに気違いのようなアバンギャルドの演奏をしたとしても、世間は「一流音大出の音楽家」の音楽として評価する。それをオイラのように無学な野人がたとえ同じようなことをやったとしても、単なる馬鹿であり猿真似としか評価されまい----そういったことが潜在意識にあったからである。そのため自衛隊の音楽隊を除隊して1年後、オイラは26歳で芸大を受験したのだった。


★写真は1984年夏、「元祖・人間国宝」の東北・北海道ツアー帰途での「札束踊り」その@左から/川下直広・のなか悟空
 


5531.野中の野人/回想録その24 返信 引用

名前:のなか悟空 日付:12月8日(土) 10時35分

■娑婆は天国
 自衛隊へ入隊してカッチリ365日、オイラにとって1年という我慢の周期が回ってきたとき、辞表を出して除隊した。

 娑婆の風は心地よかった。
なーんせ工業高校から鐘ケ淵化学、東芝の工場、自衛隊、いずれも16歳から24歳までの8年間、夜間の音樂学校を除いて、オイラは男だけの社会で過ごしてきた。ことに自衛隊時代は娑婆へ出られるのは平均1ヶ月に1度くらいのみ。娑婆で見かける女性が、どれもこれも誰もかれも、みーんな天使か天女に見えたから困ったものだ。

『ナリタではパンツを3枚履け』
後日、パキスタン人の友人が言っていたのも頷ける。ムスリムの国から性の解放された日本のナリタに行く時は、パンツを3枚履いて勃起を隠せ、というものだ。


■オクターブ・Gだったギャランティー
 自衛隊に入る前のバンドのギャラは、E(3)万円だった。カネカで三交代をして4万円だったことを考えれば、好きなドラムを叩いてのギャラだったから、自分では大満足だった。
 後に自衛隊でのサラリーが大体5―6万円。その自衛隊を辞めてから最初のバンドのギャラがオクターブ(8)・G(5)万円だったから、大満足だった。


■キャバレーで鼻血ブーッ!
 自衛隊を辞めてからすぐバンドの仕事が見つかった。
まずは大宮市のクインビー。そこはバンドの控え室とホステスの着替え室は隣にあった。演奏が終わってホステスの更衣室前の廊下を歩いていると、あけすけなホステスたちはオッパイ丸出しで着替えていた。それを見たオイラは、軽い目眩を覚えながらもバンドの控え室に戻ると、
『オヤ?野中くん、鼻血でてるよ。』
不覚にもオイラは、知らない内に鼻血を出していたのだ。

 またある大宮のキャバレーでのショータイム。
ビギン、マンボ、スローというお決まりの3曲でストリッパーが踊る。伴奏中のオイラはなぜか口に血の味を感じた。その時たまたま振り向いたリーダーのサックス奏者。

『おい!野中!鼻血、鼻血!!』
オイラはあわてて片手で鼻血を拭き、鼻の穴にティッシュを詰めてドラムを叩き続けた。それを見たリダーはサックスをくわえようとするものの、その度に吹き出してとうとう曲を吹けずじまい。

 ようやく本格的にプロのドラマーとしてが船出したのだが、その時は24歳。遅きに失した船出だが、それでもオイラはまだまだ音大への夢を捨てられずにいたのだった・・・。

つづく


5532.野中の野人/回想録その25 返信 引用

名前:のなか悟空 日付:12月9日(日) 9時20分

■鼻血ブーでゲットしたもの
 当時、大宮のクインビーといえば、詳細なサービス内容は知らなかったものの、女の子たちのスタイルはセパレーツの水着の上に、うすーいカーテン生地のような、スケスケの超ミニの上着を羽織っていた。その格好は自衛隊を除隊した直後のオイラには、相当に強烈で刺激的だった。

 「魚心あれば水心」というのか、ステージ上でドラムを叩きながら、邪心を抱いて見つめるオイラと、あるホステスがねんごろにな関係になるには、そう時間はかからなかった。彼女がオイラの安アパートに泊まりに来るようになって後から分かったことだが、彼女は1歳の息子を連れて、九州の嫁ぎ先から逃げて来ている境遇だと知ったのだ。

 男社会で育ち、男社会しか知らなかったオイラの心は、純情を絵に描いたような青年だった。
「このままボクらの関係が暫く続いたら、いずれ子供連れで入籍しよう」と、いう話まで持ち上がっていた。


■入院とダンナ
 ところが人生ままならぬ。紆余紆余曲折の本領発揮といったところか----彼女が原因不明の病で倒れ、入院してしまったのである。だが、婚家を逃げて来ている彼女には健康保険証が無い。入院費がいくらかかるかも分からないのである。

 そこでオイラは入院費を払うために奮起し、昼間は漬物を訪問販売をして売って歩くアルバイトに精を出し、夜はドラムを叩いたのである。そしてアルバイトで稼いだカネとバンドのギャラをつかんで、彼女の病室に駆けつけた。
 胸をときめかして病室のドアを開けると・・・初めて見る男が彼女の枕元に立っていた。
 直感でそれが彼女のダンナだと分かった。オイラは逃れるように病室を去りながら、流れる涙を拳で拭った。


■九州からの手紙
 九州に帰った彼女からは、たびだび手紙が来た。その内容は
『来週にはアナタの元へ帰る』、というもの。だが、彼女は来ない。
 そしてまた1週間後には、
『来週こそはアナタの元へ・・・』、との手紙。

 オイラはまるで忠犬ハチ公のように彼女を待った。郵便配達夫のバイクの音がするたびに、玄関外の郵便受けに走った-----が、その手紙もいつしか絶え絶えになり、しまいには途切れてしまった。

■手紙を焼いて
 オイラは涙にくれて、彼女の手紙を焼き、写真を焼いた。
ドラム一途で来た不器用な男が、人並みに恋をしたツケが回ってきたのだ。これに懲りて、2度と恋などするものか、と誓った。

■芸大を目指す
 そんな時期でも上京当初から受けていた尚美の打楽器の先生である塚田靖氏にはレッスンを受け続けていた。塚田氏は芸大の試験官でもある。

 音楽専門学校を4校も中退してきたが、レッスンだって勉強だってずっと続けてきた。芸大なら月謝も安いだろうから、仕上げの仕上げに芸大を受験しよう。社会に出て初めての恋愛に失望と挫折を経験したオイラは、26歳を前に改めて芸大受験に決意を新たにしたのだった。

★写真は1984夏、「元祖・人間国宝」にて東北・北海道ツアーの帰途、東北道のサービス・エリアで「万冊踊り」をする悟空と不破大輔。

★ツアーの後、俺は「元祖・人間国宝」の解散宣言をした。
詳細な理由は覚えてないが、春に西日本ツアーをやり、夏に東北・北海道ツアーをしたので、ブッキング疲れだったのだろう。以降、ブッキングが面倒になり、自分が企画するツアーはやってない。

★一連の「元祖・人間国宝」の写真連載はこれにて終了。次回からは適当に海外旅行系のシリーズものを載せる。




次からは「野中の野人2」へ続く