野中の野人/第2巻  2012/11中旬よりfacebookにて連載開始

回想録その26

名前:のなか悟空 日付:12月10日(月) 8時5分

■まだ残っていた向学心
 自衛隊の音楽隊を除隊して、ようやくプロのドラマーとして本格的に船出した。音楽隊に入る前にもバンドマンをやってはいたが、音楽隊除隊後はギャラも人並みでクビになることもなく、10代の頃からオイラが目指していたプロのドラマーとして、ようやく一人前になった時代である。

 だが、ひとつだけ心残りがあった----。
これまで4つもの音楽学校に入学はしたものの、どれひとつ卒業をした学校は無かった。それでも最初に入学した音楽学校の塚田靖先生(芸大の講師でもある)には、レッスンは受けていたし、自衛隊では消灯後も連日、入試のための勉強は続けていた。
...

■母に捧げるバラード
 そんなころだった。ラジオから偶然流れて来た「母に捧げるバラード」。その歌詞は母を亡くして間もなかったオイラの琴線を、メチャクチャにかき鳴らした。

「輝く日本の星となって帰って来いよ」------そうだ!
オイラは母親に約束したのだ。ちゃんと音楽大学を自力で出て、日本一のドラマーになって母の墓前に報告するのだ。キャバレーのバンドマンで満足してちゃあダメなんだ。今からだって遅くない。音大に行くんだ----と、改めて奮起した。


■野中くん、音色が違うよ
 4年近くも個人レッスンを受けていた塚田先生に、芸大受験の旨を告げて受験用の曲の練習に入ったのだが、先生はため息混じりに言った。
『野中クン・・・キミの音はもう違うよ』

 どう違うかと言うと、クラッシックの音にしては音が鋭ど過ぎるというものだった。クラッシックではもっと「ぽーん」という、マヌケなお坊ちゃんの音を出すべきなのに、オイラの音は「ビシッ!」と鋭ど過ぎる音だというのだ。

 ま、仕方あるまい。
これまでオイラのジンセイで紆余曲折と回り道してきた怨念が音に出るのだろう。合格するかどうか不安ではあったが、いまさら自分の音色を変える気は無かった。

 齢、すでに26歳の春。
オイラは受験生となった。


5536.野中の野人/その27 返信 引用

名前:のなか悟空 日付:12月11日(火) 8時32分

■芸大生のコンサート
 芸大受験の少し前、当時レッスンを受けていた塚田先生の勧めで、上野公園内にある文化会館で開かれた芸大の打楽器科生徒による、打楽器アンサンブルのコンサートを聴きに行った。

 そこでは6-7人の打楽器科生徒が、ビンを割ったり、紙を破いたりので、音楽だとか感動だとか温かみだとかいった一切の人間的なものを排した、「現代音楽」と言われるものの一種のような、譜面に書かれた音符をいかに忠実に再現するか、といった無味乾燥の作業が行われていた。
(コイツらのは音楽じゃねぇ!!コイツらのいるような音大に行くのなら、まだ行かないほうがいいや)

 同じ意味不明な音楽でも、上京して初めて聞いた「山下トリオ」や2度目に聴いた「沖至3」の方が、はるかに音楽的であり、人間的な温かみに溢れている。芸大生たちのやろうとしている、いわゆる現代音楽なるものを聴くに耐え切れなくなったオイラは、途中で席を立った。

 あれほど目指していた音大であり、そのトップであるはずの芸大だったが、(あんな打楽器科なら入れたって入れなくたっていいや)そんな気分になった。
 もしかして・・・塚田先生がこのコンサートのフリー・チケットをくれたのは、オイラに受験の気分を喪失させるのが目的だったのではなかろうか?そんな気もした。
 

■そして受験の当日-----
 芸大の面接官は当時高名な有賀誠門、塚田靖の各氏と、女性で高名な女性パーカッショニストのT氏。そのT氏に質問された。
『あなたは合格しても、夜の仕事を続けますか?』
その顔には明らかに侮蔑の表情が見て取れた。

 この瞬間、この質問者に対してオイラの思考回路が発熱してブッ切れた------最初に入学した音楽学校で、連日違う服に着替えて登校し、髪を茶髪にし、香水を付けて、昼飯を喫茶店で食べるお嬢様たちの姿が浮んだ。かたやこちとらは片親で赤貧の水飲み百姓の四男坊。

(オバハンかてビンボー人の苦学生の苦しみなんて何も知らない、同じようなお嬢様やろ!)
『はい。ドラマーは私の目指して来た職業です。合格しても食べるためにバンドマンはずっと続けます。』と、反抗心を抱いてキッパリと答えた。

 この返答が合否に関係したかどうかは分からない。だが、合格発表の場にオイラの受験番号は見出せなかった。

★フィリピンのミンダナオ島の南部にバシラン島というイスラム教徒の島がある。子供たちに政争は関係無い。2002/3悟空撮影



5537.野中の野人/その28 返信 引用

名前:のなか悟空 日付:12月12日(水) 9時29分

■英語の辞書を捨てる 
 そんな頃、新宿のタローにジョージ大塚3のライブを聴きに行った。
ピアノは辛島文雄、ベースは古野光昭だった。ジージョさんの流れるようなドラミングに私は覚醒した。
(そうだ、クラッシックの奏法ばっかしやってちゃ、あんな奔放でキレのいいドラミングは叩けないのだ。いいかげん音大は諦めよう・・・)

 そう覚悟を決めての帰り道、いつもバッグの中に入れていた受験用の英語の辞書を橋の上から川に投げた。


■27歳、初ライブは埼玉の上福岡
 以降、音楽学校への入学欲を捨て、ジャズのライブハウスでライブ活動を始めることにした。その最初のライブハウスは、店の名前は忘れたが上福岡商店街の2階にあった。

 パートナーはアルトサックスのジョー。
本名は知らない。道端でアクセサリーを売っていた。ヤマハのポプコンで決勝まで行ったバンドに在籍していたが、フリー・ジャズをやりたくてそのバンド辞めた自由人だ。

 2人で練習の合間に、体力向上のため公園で相撲を取って身体を鍛えた。彼と2人でとにかく目一杯1時間ほど演奏して果てた。詳しい事は記憶にないが、とにかく頑張った演奏だった。


■2度目のライブは荻窪の「グッドマン」
 パートナーは同じくジョー君だったが、彼は以降行方不明になったので、アルトサックスの藤川正雄とのDUO。以降、琵琶の岩崎氏を誘って、純日本的な感覚のフリー・ジャズをやることにした。バンド名は「グループ間」で、それを1-2年ほど続けた。

 並行してグッドマンのマスターの鎌田雄一氏(SS)に誘われて、野島健太郎(P)くんと「リンボトリオ」を2-3年続けた。
 完璧が100ほども付く、全くのフリー・ジャズトリオだった。このバンドでフリー・ジャズの奔放さを鎌田氏に育んでもらった。だから今でも鎌田氏のことを「フリー・ジャズの母(父は後のオームのヒロシ氏)だと呼んでいる。



野中の野人/その29

名前:のなか悟空 日付:12月13日(木) 7時50分
■100万人に1人の男求む
 当時、強烈な個性のあるパワー的フリー・ジャズをやりたくて、グッドマンの店内に求人広告を張り出した。
「100万人に1人だと自認する強烈な個性のあるパワープレヤー募集!!」

 だが・・・誰からも応募は無かった。
それでもそのころ、藤川正雄の紹介で川下直広と出会い、荻窪の「グッドマン」でDUOを何度かやった-----ような気がするが、内容は全く覚えていない。


■不破大輔との出会い
 川下と何度かDUOをやった
彼とのDUOは荻窪の「グッドマン」や足利の「オーネット」、福島の「パスタン」、などでもライブをやった。新宿の「ガヤ」や宇都宮の「グルービー」ではやったかどうか記憶にない。当時オイラの愛車だった黄色いワーゲンを川下が運転していたのだが、料金所での支払いの時に両手で払ったもんだから前輪が料金所に乗り上げて大笑い。別の場所ではワーゲンが故障してレッカー車呼んだりと、マヌケな珍道中だった。

 そんな頃、川下が『不破っていう面白いベースがいるんだよね。こんど誘ってみようか?』、ということになって紹介された。場所等は失念した。

 人間の運命というものは奇なるもので-----当時バンドマンをやっていた私はたまたま大田区の大井町にある「杯一」というキャバレーに専属バンドのピンチヒッターとして行き、バンドの休憩時間に大井町駅前をブラついていた。すると、どーだ。たまたまそこに紹介されて間もない不破大輔が立っていたのである。
「おおっ、不破くん!!」
ってことになり、そこでホイホイと不破くんのアパートに遊びに行った。そこは共同台所の3畳間で、部屋の中の黒電話がブッ壊れていたのには笑った。たぶん酔っ払って受話器を叩き割ったのだろう。
「不破くんって面白いね。大井町で出会ったのも運命さ。是非とも一緒にやろう!」ってことになって、不破くんがオイラと川下直広のDUOに加わり、「人間国宝」としてスタートすることになった。


■もう一度、不破大輔との出会い(*^◯^*)

 1994年の夏、オイラは「日本列島トラクター縦断2000Km」とノボリを立てて、宗谷岬から山口県まで行き、九州へ渡る直前の国道上でのことだ。
「あっ、野中ちゃん、何やってんの???」
とは、国道上を歩いていた不破大輔。
「あれぇ~~~不破くぅ~ん!!!」
これも奇遇や奇遇、小説よりも希なりな遭遇である。ニンゲンというものは長く生きているとこういった奇妙な遭遇があるから面白い。

<後日談>100万人に1人とは大きく出たものだが、30年後を振り返って見るに、オイラはともかく、川下直広も不破大輔も明らかに100万人に1人の逸材だったのは、周知の事実である。


5540.野中の野人/その30 返信 引用

名前:のなか悟空 日付:12月14日(金) 9時6分

■個人トレーニング
 当時のオイラのトレー・ニンクといえば、両手に水をいっぱい入れた取っ手付きの2リットル瓶を持ってのジョギング。走っていて暑くなったら、瓶の水を頭からかければいいのだ。そうすると瓶が軽くなって腕もラクになる。

 そんなこんなで水は浴びていたので、相変わらず風呂には1ヶ月に1度くらいしか行く暇がなかった。たまにふろに入って夜のバンドに行くと
『おっ、野中くん、今日は風呂に入って来ただろう?』
『あれっ?どーして分かるんですか?』
『だって顔がツルツルしてるんだもん』
ってな調子で、風呂に入ったのがバレるほど、珍しいイベント的な入浴だったのである。


■そしてバンド練習
 俺的には相変わらず屋外で練習を続けていたのだが、元祖・人間国宝の練習は俺の住んでいた旧・大宮市のスタジオで1-2度練習したが、埼玉と東京の堺にある笹目橋の下でもやったことがある。もちろんウッドベースにベースアンプなんて無い。っていうか電源なんて無い。それでも「気」で音を聴くのだ!と気合一発で練習に励んだ。


■元祖・人間国宝の出た店
「グッドマン」はもとより、「アケタの店」、そして2-3年も交渉してやっと出れるようになった「エアジン」、そして足利の「オーネット」、その他首都圏のライブハウスに時々出没していた。最終的には「ピットイン」の夜の部に出るのが目標だった。

 川下には「川下アイラー直広」と言って本人に嫌がられ、不破には「狂乱の亀頭師」だとか「習志野のモンゴリアン」と言っては嫌がられ、自らは「流血ドラマー」と称して、ライブの度にどっかを怪我して血を流していた。そんな過激な演奏だったので、このころから我が「元祖・人間国宝」は、誰にも負けないバンドとの確信を高めていった。だってジャズ界でワシらのような過激な演奏をするバンドは、上京して初めて聴いた「あのバンド」を置いて他になかった。


■せっせと宣伝活動
 このころ我が元祖・人間国宝の広報活動に余念がなかった。毎月イベントのチラシをコピーしてはせっせと将来行くであろう地方のライブハウスに送っていたのだ。さらにキャバレーでのバンド仕事の休憩時間にポケットに、10円玉をどっさり入れて地方のライブハウスへの出演交渉をしていた。その成果はこれまで掲載した西日本ツアーや東北・北海道ツアーの写真群にある通りだ。
そしていよいよ目標の「あのトリオ」への食い下がりが始まった・・・つづく。


★写真はフィリピン/ミンダナオ島南部のバシラン島/テロとの闘い/2002-3撮影悟空
 米軍の態度は横柄で嫌味があったが、P政府軍はみんなフランクですぐ打ち解けた。彼らはオイラの事を「テロリスト」と言って笑っていたが、オイラの身分は一応「従軍記者」だった。日本やP国政府の報道が、事実であるか自分の五感で確認したかったのだ。




5541.野中の野人/31(敬称略) 返信 引用

名前:のなか悟空 日付:12月15日(土) 7時57分
■今夜叩かしてください
 自分のドラムがもうそこそこイケルだろうと、慢心に満ちた自己判断を下していた30歳前のころ、池袋の文芸座でのオールナイト・コンサートに出かけた。そこには故・浅川マキをはじめ有名バンドが出演していたが、オイラの目当ては上京して初めて聴いたあの「山下トリオ」だけだった。だがサックスは中村誠一から坂田明へ、ドラムは森山威夫から小山彰太へ変わっていた。

 オイラは意を決して楽屋口に回り、たまたま外にいた山下洋輔に話しかけた。
「今夜ボクに叩かせてもらえませんか?」
「いゃあ、ボクはいいんだけどね。メンバーがいることだし・・・」
ということでやんわり断られた。さすがは山下氏である。どこの馬の骨か分からぬ若者に、この大スタージでそうやすやすと叩かせるわけにはいかない断り方を知っている。
「じゃ、ボクのライブに来てください」
ということで連絡先を聞いて、その夜は聴衆の一人になった。

 後日--------我ら「元祖・人間国宝」がアケタの店でライブがある数日前、オイラは件の山下洋輔に電話を入れた。
「○日にライブをやるんですが、来られますか?」
「えっ、ボクに来いって?客で?」
「はい、客で来てくれてもいいし、気が向けば一緒に演奏してくれても構いません」
「そりゃあキミ・・・云々」

 仔細は忘れたが、上手く丸め込まれて断られてしまった。まぁ、それもそうだろう。全く知らない若いドラマーが、大御所に対して弾きに来て欲しいなどと電話するなどとは、向こう見ずといえば向こう見ず、失礼といえば失礼な話なのかも知れない。

山下洋輔に断られたら・・・次は坂田明だ・・・つづく

★写真はPP/ミンダナオ島の南部/サンボアンガ市/撮影悟空
店の看板をよぅ~く読むと・・・「あれれ??チンチン食べる??」




5542.野中の野人/32(敬称略) 返信 引用

名前:のなか悟空 日付:12月16日(日) 9時8分
■坂田明
 山下洋輔に断られたオイラが、
(山下さんがダメなら坂田さんだ)と、考えるのは自然なこと。早起きのオイラは相手に対して失礼ではないであろう朝8時になるのを待ちかね、気力をビンビンに充実させた状態で坂田氏に電話をした。
「ドラムの野中ともうしますが、今度一緒に演奏してください」
電話口の向こうの坂田明は、まだ寝ていたのを起こされたのか不機嫌に言った。
「俺はそんな人助けのような事は嫌いなんだよね」
「じゃボクが有名になったらやってもらえますか?」
「そういう問題じゃないよ」
ということでオシマイ。

 人助け-----------さすがは坂田明、ハッキリものを言う人だ。
我々のミュージシャンの世界では、有名人と共演して、○×氏と演奏したと経歴に書く事が多く、そのことでハクを付けることが多い。そう言う意味で選挙の立候補者が格上の政治家と一緒に写真に収まるのと似ている。ま、「虎の威を借るキツネ」だな。
機会があればミュージシャンの経歴を見てみるといい。悲しい習性だがこの経歴には「自分より格下」のミュージシャン名は記さないのが通例だ--------そういう意味で、私は坂田明にズバリと私の功名心を見透かされ、のっけから見事な「一本」を取られてしまったのだ。

 ハッキリ言おう--------。
音楽学校で副科ピアノが苦手だったオイラは、ピアノにコンプレックスがある。
ピアノが上手な人がみんな神様に見えてしまい、ついつい無条件に平伏してしまう癖がある。だからハッキリ言ってピアノが嫌いだ。ホントは呼気の息吹がストレートに伝わるサックスが好きなのだ。とくに怒気を含んだ坂田明のサックスが好きなのだ。だが、にべもなく断られた以上、諦めるより仕方ない。というかむしろ・・・「可愛さ余って憎さ100倍」の例えに似た闘争心を抱いた。

次回は田中泯

★写真はフィリピン/ミンダナオ島の南部/バシラン島/米軍キャンプにて/撮影悟空
 アブサヤフ(イスラムゲリラ)の手配写真の男たちに会いたくて、単身ある村を訪れ村長の家に泊まっていたら、ゲリラ側から「夜に会おう」とコンタクトを求めてきた。それで楽しみに待っていたら・・・あらま!その情報が政府軍に漏れてしまい、米軍キャンプに強制連行されてしまった。米軍キャンプで暫く軟禁されたあと解放された。こういった場合、尋問されても英語をロクに喋れない方がトクなのだ、ということもある。オイラの場合、言いたいことは言えるが、聞くのはまるでダメ。演奏のスタイルと似ているから笑える(*^◯^*)




5545.野中の野人/33(敬称略) 返信 引用

名前:のなか悟空 日付:12月17日(月) 8時12分

■田中泯に感涙
 山下洋輔から断られ、坂田明から断られて間もない時期、田中泯が新宿の歌舞伎町にある中劇場で踊ったのを見に行った。田中泯の後ろでドラムを叩いていたのは、ハンベニングだったろうか? それは忘れたが白人のフリー系のドラマーだった。

 私が感動したのはドラマーにではなく、田中泯の踊りにである。
踊りについては全く無知な私であるが、その既成概念の枠に囚われない奔放で無節操な踊りは、身体の四肢がそれぞれ独立してわがまま勝手に動いているように見えた。それを見て私は滂沱として涙が止まらなかった。

 それはまるでカミナリに打たれたような感動だった。
イベントが終わった後、劇場から溢れ出る人並みに押されながら、その感動を共有した誰かと語り合いたくて、たまたま隣を歩いていた若い女性と一緒に喫茶店に入り、無我夢中で語り合ったが、それでもまだ感動は語り尽くせなかった。


■田中泯に電話
 すぐ電話-------これは山下洋輔にも坂田明にも、そしてこれまでの流れから推察できるように、オイラは田中泯にも電話してしまったのである。電話口には田中泯は出なかったが、女性が出た。

「ドラムの野中と申しますが、田中泯さんの踊りには感動で涙が止まりませんでした。ぜひとも泯さんの後ろでドラムら叩きたいのですが・・・」
「田中泯はやりたくないと申しております」
「それは・・・私が無名だからでしょうか?」
「そういう問題ではありません」


■そういう問題じゃない?ってどんな問題?
 坂田明の時にも言われた「そういう問題じゃない」というフレーズ。じゃいったい「どういう問題なのか?」そこいらを具体的に聞かせて欲しかったが、その頃はお馴染みのそのフレーズで、若き挑戦者たちの矛先をかわしていた時代だったのか。

 いずれにせよ、自分が有名になって坂田、山下、田中泯に改めてお願いをすればいいのだという結論に達して、以降、富士山頂の演奏、アジア大陸横断、アフリカ大陸横断、中南米10ケ国ドラム旅へと駆り立てられていったのだ。


■俺だったらいつでもウェルカム
 以上3氏ににべもなく断られた苦い経験は、30年以上も前の話。そんな経緯があって、もしいま自分が若いプレヤーから共演を依頼されたら、喜んで行くことにしている。ただし滅多に依頼は無いけどさ(;_;)。


★写真はフィリピン/ミンダナオ島の南部/サンボアンガ市/2002-3撮影悟空
 この人はフィリピンのイスラム軍、ミンダナオ島南方軍司令官というエライ人なのだ。オイラはこの人が南部方面の同士に向けて書いてくれた「GOKUという日本人が行ったら、もてなす様に」という通行手形を持って、南方の島へ単身乗り込んで行ったのだが・・・。



5546.野中の野人/34(敬称略)/息抜きの思い出話 返信 引用

名前:のなか悟空 日付:12月18日(火) 19時45分
■川の字で眠れなかった夜
「元祖・人間国宝」はオイラの解散宣言で川下直広が福岡へ行ってしまい、近藤直司がメインのサックスになった頃のことだ。どこで演奏したのかは忘れたが、その夜は大田区あたりにあった友人の家に泊まることになった。

 寝る場所はコタツと布団が1組--------普通ならそれで足りるのだが、その夜はなぜか若い女性が2人いた。友人の彼女とその彼女のトモダチだ。友人は酒を飲むので、そこそこ酔ってコタツで寝るとのこと。小さいコタツなので男2人が寝るにはお互いの足が邪魔になる。やむなく残されたオイラと女性2人が1組の布団に横になることになったのだが・・・・オイラも若かったが彼女たちも若い。こりゃ大問題である。でもライブの後なので眠い。

 そこでどんなやりとりがあったのかは忘れたが、とりあえずオイラが川の字の真ん中に。それで2人の女子がオイラの両側という、理想的にシチュエーションだ。
 ところが-----横になって天井を見つめて思案するに・・・・寝返りを打とうにも、右を向けば友人の彼女、左側を向けばその彼女の女友達。どっちを向いてもエコひいきをしたようで、背中側の女性に申し訳ない気がする・・・したがってどっちを向くわけにも行かない。


石の地蔵さん
 しかも---しかもだ。
手だって動かせないのだぞ。もぞもぞ動かした途端、「キャー痴漢!」って言われても困る。じゃ足なら?足だってダメさ。一緒に寝ている以上、足の接触はやむを得ないが、足を女性の身体に乗せるわけにはいくまい。これもツライぞ。

 こりゃマズイ-------ニンゲンってのは寝ている間には本人が無意識のうちに何度も寝返りをする生き物だ。{寝返り禁止!!}と言われれば、よけいに「寝返りしたーい!!」となるのがフツー。それでなくても電車や車でじっとしていることが苦手なオイラにとっては、「気お付け!!」の姿勢で上を向いているのは拷問以外の何物でもない。しかも両側からは若い女性のいい香りが漂ってくる。オイラはまるで石の地蔵さんであった。

 ・・・寝返りしたい・・・でも寝返りできない・・・。
眠い・・・でも、眠れない・・・。

 そんなこんなで寝不足のまま朝を迎えたオイラは
「ったくぅ、昨夜は緊張して全く眠れなかったよぅ~」と、オイラ。。
すると女性軍が猛反撃。
「なに言ってんの、悟空さん大イビキかいて眠ってたじゃないの。あたしたち心配で心配でぜーぜん眠れなかったんだからァ・・・」
「あっ、そ? そりゃまた失礼!」

オシマイ


★写真はフィリピン/ミンダナオ島の南部の島/バシラン島/2002-3撮影悟空
 この人はフィリピンの政府軍軍属。バシラン島のイスラムゲリラを取り締まる側の男だ。だが彼もイスラム教なのでなぁなぁ的なは仕事ぶり。オイラは彼をビンラディンと呼び、彼はオイラを「アフサヤフ(イスラム過激派ゲリラ)」。と呼ぶ。意気投合したオイラは彼の被っていた帽子を貰う。今でもライブの時に時々被ってるぞ。向かって左が悟空。念のため。


5548.野中の野人/35----日本ジャズ祭 返信 引用

名前:管理人 日付:12月20日(木) 9時18分
■トラックの荷台で叩きづくめ
 1985年8月4日、陸前高田のジョニーが「日本ジャズ祭」を開催した。
この時招かれたのが、「二代目・人間国宝」。川下直広が福岡へ行ってしまったので近藤直司のサックスと不破大輔と私のトリオだ。バンドのポリシーは相変わらず、「ブッ切れたもん勝ち」の「不安定の安定」だ。

 で、そのジャズ祭りの開催当日までの前日と前々日を、ジャズ祭の宣伝のため4トントラックの荷台に乗ったままドラムを「ノンストップ!」で叩きながら、陸中海岸近辺の都市を一巡し盛岡の放送局だか庁舎だかにまで往復した。

 それはそれでいいとして・・・ドラムを叩き続けるのは平気だったのだが、問題は荷台での演奏だ。ご存知のようにトラックというのはエアー・ブレーキの関係で、ドライバーの運転がよほど丁寧じゃないと、ブレーキをかけるたびに演奏しているオイラの腰に負担がかかってくる。しかも陸中海岸はカーブだらけだし、盛岡へ向かう峠道もカーブだらけ。

 ひどい時はカーブでのブレーキングで、ドラムを叩いているオイラが転倒してしまうことも何度かあった。そこでブッ切れたオイラはもっと丁寧な運転をするように、運転席に向かってバチを投げつけたこともある。

 そうしてなんやかやで迎えた「日本ジャズ祭」当日--------オイラは立ち上がるのも難儀なほどの腰痛になっちまっていた。が、近所には接骨院もないので、なんとか集めたシップを腰に貼りまくってのステージと相成ったのだ。



■発炎筒で近藤がむせる!

 で、ライブの本番------オイラの得意技は仲間内を欺くことだ。
そこで陸前高田に来て密かにテストしていた、発煙筒の煙幕作戦の実行だ。ステージで近藤直司が吹きまくるさなか、オイラは発煙筒に火を付け、ステージに前もって置いていたバケツに入れ、それを近藤の脇に置いた。そりゃあサックスの格好良いになんのって・・・!ステージ上の煙幕効果で、まるでメジャー・バンドのステージみたいじゃん!!

と思ったのだが・・・近藤はサックスを吹きながら半分は煙にむせて咳き込んでいる様子。ヤバイ!!!
そこでオイラのとった第二作戦は---------ステージ上から真夏の客席へ向かって、「いくぜー!」と、バケツシャワーの洗礼!!じゃ!

ま、ステージは盛り上がったものの、後でPAの人に叱られました。そういゃあステージ上はコードがぐちゃぐちゃ這ってるから、漏電したら大変なことになるんだよね。知らんかった。


■本田珠也

 当時、飛ぶ鳥を勢いだった有名バンドに「ネイディブ・サン」というバンドがあり、彼らも招かれて来ていた。当時のドラマーだった本田珠也は、たったの15歳で我々のステージの一部始終を見ていた。若き彼にはインパクトを与えたステージだったらしいと、27年ぶりにピットインで共演した彼は言った。
 そこでオイラは、たたみかけるように言った。
「で? あの時のワシのステージングは勉強になっただろう?」
「えっ? まぁ・・・っていうか・・・うう・・・ん」

★写真は1985年8月4日、陸前高田のジョニーが開催した「日本ジャズ祭」にて、トラックの上でデモンストレーション行脚をする悟空。




5551.野中の野人/36----有名になるためには 返信 引用

名前:のなか悟空 日付:12月21日(金) 9時5分

■有名になるためには
 得てしてジャズ系のアーティストたるもの、有名になるための努力は人には見せないし、そんな努力はカッコ悪いもの、邪道だと捉えられがちである。でも・・・ホントのホントのホントは・・・やっぱり有名になりたいのである。

 だが-----本当の目的は有名になることではなく、音楽で食べられるようになることが目的であり、そのために有名にになろうと努力することは、単なる手段である。
 ライブである程度客が来てくれて、音楽で人並みの生活できるようになりさえすればいい。あるいはCDがある程度売れて、これまた人並みの生活が出来るようにさえなれればいいと思っているのだ。

 だが・・・現実はキビシイ。日本人でジャズだけで食っている人って何人いる?それも同世代の大企業の社員よりもギャラを取っているジャズのミュージシャンって何人いるの?居ないでしょ。そんなの。
 これはスタジオ・プレヤーや歌手の伴奏は除外だよ。あれは他人の設計図で家を建てる大工や左官と同じだから、アーティストじゃなくて、単なる職人だからね。俺も昔、二十年ほども伴奏をやったからよく分かる。


■自家発電で有名になる!!
 そこでオイラが考えた近道は、山下洋輔や坂田明や田中泯と共演してもらって、自分の名前を売ること。汚い手口だが実際多くの先人はそうして来た。実際、野心にあふれる若手はそれをみんな望んでいるはず。それを坂田明は「人助けは嫌いだ」と、オイラの下心を見透かした表現でオイラを断ったのは以前書いた通りだ。そこいらは坂田さんらしくて好きだ。

 じゃあどーすんべ・・・??
オイラは悪い頭で考えた。そうだ!!!!
他人の力は借りないで、自分の力で有名になるのだ。ここいらは今流行りの東電の電気を使わず自然エネルギーで賄おう、というのと・・・似てないか・・・。

 ま、いい。とにかく他の力は当てにせず、自分の脚力たけで電灯を点ける自転車みたいに、自分の力だけで有名になってやる。「今に見ていろ俺だって」という、「星飛勇馬」や「頑張れ元気」のアニメ世代特有の精神論があったのだ。

 じゃあ具体的には・・・そう、オイラは日本一のドラマーを志して上京したんじゃなかったのか。でも「元祖・人間国宝」で頑張っていい演奏をしても客は来ないし、ピット・インにも出させてもらえない。しかもライブ活動と並行して月に2回、5年近くも首都圏の公園で演奏を続けてきたが、特別に大した反応も無かったではないか。

「日本一、日本一・・・・そうだ、富士山のとっぺんで叩けば、文句なしに日本一じゃん!!!!」
という短絡的発想で、富士山のとっぺんで演奏を企てたのだ。だが待て、いきなり富士山じゃ面白くない。まずは赤城山でリハーサルじゃあ!!!

★写真はphillippine南部/mindanao島よりずっと南部のjolo島の軍2002/5悟空撮影。
 ミンダナオ島まで行く人はそこそこいてもバシラン島へは行くまい。ましてやホロ島へはそうそう行けないだろう。だって当時はイスラム・ゲリラが潜伏していると言われている島で、実際米国人牧師が拉致されて殺されているし、マニラの新聞記者も殺害されていたからだ。で、ワシも「いっちょ拉致されてみるべか」とホロ島に単身行ったのはいいが・・・すぐに国軍に保護されて軟禁。その代わりに観たい場所へはタダで連れて行って見せてくれた。その後、ミンダナオ島行きの連絡船が来たら、強制退去させられてしまったのであった・・・残念!! ホントは1-2年拉致されていても絶対に殺されない自信があった。むしろそこでのゲリラたちと伴に生活をして、ドラムでも教えながら彼らのナマの生活や思想を描いた闘争記を出版したいと考えていたのに・・・。





5553.野中の野人/その37----赤城山頂演奏と富士山登頂 返信 引用

名前:のなか悟空 日付:12月22日(土) 10時43分

■赤城山頂演奏
 赤城山の裾までは当時の愛車である2サイクル単気筒のハスラー400で行き、登頂は群馬のHさんに同行してもらって2時間程度で登れたような記憶がある。山頂はことのほか平面で、演奏は容易に可能。問題は一緒にやるメンバーと電源だ。悲しいかな人間国宝のメンバーである不破大輔と近藤直司は来たがらないので、サックスの早坂さちとベースの永田利樹を誘って来てもらった。もちろんアゴアシ(飯代と交通費)はオイラの負担だ。電源は発電機をレンタルで借りた。

 1985年8月14日-----催行当日、どうやって持って上がったのかは忘れたが、ドラムセットや発電機、ウッドベースやアンプも準備したことを考えると、ケーブルカーは有ったのだろう。意外と発電機とアンプにパワーが無くて、ベースアンプの音が小さかったのを覚えている。

 その結果----、掲載されたのはジャズ雑誌のマイナーの雄、「ジャズ批評(スイング・ジャーナルは潰れたが、ジャズ批評は現在も有るところがスゴイ!!)」に1ページだけで、有名になるために大して役には立たないイベントだった。だが、これは月末に予定している富士山頂演奏のための単なるリハーサルに過ぎなかったのだ。



■富士山に2度登頂
 この富士山頂演奏のイベントのために直前に2度登頂した。
1度目は山梨県側で2度目は静岡県側からだった。2度とも往復5時間程度だったので決行可能との実感を確信した。知人ミュージシャンの多くに声をかけたが、殆どは尻込みをしたり、笑って相手にしてくれなかったりで、最終的に参加してくれたのは、原田依幸(p)、山本遊子(p)、緑智英(sax)、早坂さち(sax)、永田利樹(b)をだけだった。もちろん「アゴ・アシ・まくら付き(食費&交通費&宿代)」は主催者のオイラがギャラ代わりに負担し、オマケとして録画のビデオをダビングして配ることにした。

つづく・・・

★写真は1985/4赤城山頂/撮影=堀越さん



5554.野中の野人/その38------富士山頂演奏で日本一! 返信 引用

名前:のなか悟空 日付:12月23日(日) 13時5分

■1985年8月24日決行

 オイラは愛車のボロクソ・ワーゲンのバンにピアノを積み、友人たちと5合目に向かった。途中ボロクソ・ワーゲンの調子が悪く、何度もエンコした。そこで車内の原田依幸さんが言った。
「よぅ、野中ぁ、今なら中止してもいいんだよ。こんなお馬鹿な企画をして裾野まで来たんだから、途中で撤退したとしても誰も嗤いはしないよ」。さすがは原田さん、温かい言葉だった。この言葉は今も忘れてない。

 下調べしていたのだが五合目にはブルドーザーがあって、大きな荷物は全部それで運搬できるようになっている。オイラたちの機材はピアノやアンプ類、ドラムセットなどは全部それで運び、メンバーの殆どは歩きで頂上を目指した。
 まず初日は高度順化のために8合目の小屋に泊まり、翌未明に登頂を開始する手はずになっている。オイラちと原田さんはブルで登って来たので、わざわざ歩いて8合目の小屋まで降り、メンバーと宿を伴にした。悲しいかな、サックスの緑智英は高山病のため横臥したまま起き上がれない状態。ここまで来て残念だが、翌朝の山頂演奏は無理だった。ありがとう! 緑くん。

 明朝、オイラたちは御来光に照らされながら、日本一のコンサートを開催できたのだ。みんなありがとう!!


■フライデーに掲載されて
 この記事が当時ミリオンセラーの写真週刊誌だったフライデーに掲載されたのは周知のこと----これでオイラは文字通り日本一のドラマーになり、有名になった----これでライブの客もじゃんじゃん来て、念願の「音楽でメシが食えるぜ」と思ったのだが・・・世の中そうは問屋が卸さない。ライブの客は相変わらずパラパラで増える予兆など皆無だった。

 どうすればいいのか?どうやればライブの客が増えるのか・・・ずっと考え続けてきたが、ある事に気がついた。中途半端!! そうか!!中途半端だったのか。たかだか島国の日本一の富士山がナンボのもんじゃい!! だったらチョマランマのとっぺんで叩いてみいや!! ってことなんだよね。そっかぁ・・・じゃあ、次はチョモランマに挑んでみるかぁ・・・そのためにはアジア大陸に渡る必要があるわな。ということは・・・バスポートの取得とビザの取得だ------ということでもうひとつ高い大きなステージを目指して有名になり、今度こそライブに観客を動員するのだ、という大目標が出来た。

★写真はデイリーアンに掲載されていた頃の田口画伯によるイラスト。




5556.野中の野人/その39----テレビとプロレスを味方に大企画集!! 返信 引用

名前:のなか悟空 日付:12月24日(月) 13時10分
■テレビとプロレスを味方に!!
 島国の日本一の富士山がナンボのもんじゃい!! だったら次はチョモランマに挑んでみるかぁ・・・そのためにはアジア大陸に渡る必要があるわな。そのためにはまずは軍資金----よしっ!! ということでそれからは連日、昼間は工事現場のガードマンとして日銭を稼ぎ、夜はパブで苦手でキライなピアノの弾き語りをしつつ、爪に灯を灯すような生活をしながら、アジアの旅へ向けての準備が始まったのである。そこいらの詳細は「日刊アルバイトニュース」に連載されていたので、下記にまとめてある。もちろん連載記事を書くことも、アルバイトの一環である。
http://homepage2.nifty.com/nonakagoku/arubaito/


■大のプロレスファン
 さて、オイラは大のプロレスファンである。だがあくまで新日本プロレスのアントニオ猪木派で、ジャイアント馬場の日本プロレスは嫌いだった。その度合いとは-----馬場のかったるい試合を見て嫌気がさし、ブラウン菅を叩き壊したのが2度、テレビを道路に放り投げて壊したのが1度ある。

 というわけでこよなくアントニオ猪木をリスペクトし、ドラミングも猪木氏の生き方に少なからず影響を受けている。同様の意味で故・植村直己氏をも尊敬している。彼の著書は全部読み、彼の足跡を自らの足で確かめたいとも思っていた。

 そんなジャズのドラマーならどういったドラミングを展開したらいいのか------考えるまでもない。富士山のとっぺんで叩いたら、次なる目標はアジア大陸横断であり、チョモランマを躍らせることである------ということでオイラはライブ活動と弾き語りのアルバイトの傍ら、企画書を作って大企業の協賛を得るべく会社訪問が始まったのである。

 まてまて、、、その前に字が下手くそだから企画書は活字で打たねばならん。ということで安価なワープロを買ってキーボード入力の練習から始めたのだった。そのワープロもなんだかんだと中古を4台くらいは買ってオシャカにした。


■フジテレビと新日本プロレス
 訪れたテレビ曲とプロレス団体は下記。サスガは当時ミリオンセラーのフライデーに掲載された効果は絶大で、どの担当者もちゃんと対応してくれた。

フジテレビ⇒@来夏の富士山頂コンサートへの中継と協賛依頼
フジテレビ⇒A新宿駅前アルタでの演奏と中継依頼
*上記2つとも「自分自身でスポンサーを見つけて来ればOK」との回答。

新日本プロレス⇒来夏は新日プロレスを富士山五合目で開催し、そばでオイラがドラムを叩く。
新日本プロレス⇒猪木の試合のリングサイドで、猪木の試合展開に応じてオイラがドラムを叩く。
*上記については、猪木の試合ビデオを見ながら、ドラムを叩いたビデオを持参するようにとの回答。結果、ビデオ撮影が面倒なので行かなかった。

 さて、ガードマンと弾き語りでは、妻子を養いつつの貯金はままならない。そこでオイラは尊敬する植村直己を真似て、企画書を持って企業巡りにも精をだしたのであった。
つづく・・・



5558.野中の野人/その40----企業巡りでスポンサー探し

名前:のなか悟空 日付:12月25日(火) 9時34分
■企業訪問と結果
 富士山頂演奏で日本一になって写真誌に掲載されたオイラだが、自身の中途半端さに気付いた。そこでアジア大陸をドラムを持って演奏しながらの横断を計画し、それに賛同してくれるべくスポンサー探しに企業廻りをすることにした。下記が訪問した企業の一部だ。

*ヤマト運輸⇒電話だけで断られる。
*佐川急便⇒電話だけで断られる。
*AGF⇒演奏後の山頂で御社のコーヒーを飲む⇒回答保留
*ヨコハマタイヤ⇒もし車でアジア大陸を横断する場合はタイヤの提供を⇒OK
*コニカ⇒カメラとフィリムの提供⇒OK。以降何度も提供していただく。
*リヤカーのメーカー⇒リヤカーの提供⇒OK
*石井スポーツ⇒衣類、リュック、テントの提供⇒OK。以降、何度か提供していただく
*フライデー⇒記事の掲載⇒面白ければOK


■富士重工へ
 たまたまだがオイラが当時スバルの軽の中古に乗っていて、故障なしで10万Kmを走破したのを機に、写真を撮ってスバル本社を訪問。ついでにアジア大陸横断時には車両の提供をと願い出て了解を得た。ついでにスバルグッズのリュックサックやその他もろもろを頂戴して満足!!

■三井商船
 富士重工から車両の提供があった場合、インドシナ半島かまたは(政治情勢によって異なる)インドのボンベイまでの輸送費(当時で約20万円)をタダで⇒NO

■大塚製薬
 アジア横断に関しては金銭での援助は不可能だが、商品の提供は快諾。すぐになんと!!ダンボール17箱分のカロリーメイトが自宅の玄関に届き、狭い玄関はカロリーメイトで溢れた。これだけあればアジア横断の食料としては不足は無いが、ドラムセットも持って行くことだし、物理的に持って行くのは不可能だった。とはいえ、以降帰国コンサートの折など、いろいろと協力してくれた。大感謝!!


■肝心の金策
 こうやって企業訪問を着々とこなし、テレビ曲や企業にもいろんな対応があるのだというのを勉強した。だが・・・車や食料は提供を受けたとしても、肝心の現金が出ない。かといって自分の貯金は睡眠時間を削ってまで、働いても、働いても、働いても、貯まらない。いったいどうすればいいのか?? オイラはまた新たに作戦考えた。


★写真はPhilippine/mindanaoのずーっと南/jolo island/2002-5撮影悟空
ホロ島の女性たちと後ろに広がるスルー海。


5560.野人の悟空・番外編/今だから明かすあの秘密/出入り禁止の店(敬称略) 返信 引用

名前:のなか悟空 日付:12月26日(水) 10時15分
■花火を焚いて・・・ 
 あの夜・・・あれはオイラが富士山でやる前後のことだ。詳細は日記帳を探せばあるだろうが探すのがめんどくさい。

 あのころのオイラは盛んに演奏中に「紙吹雪」を多用していた。しかもアケタの店ではその紙吹雪を真似するプレヤーも出てきたため、店の清掃係には不評で、店では「紙ぶぶき禁止」の張り紙が出したほどだ(笑)

 紙吹雪では満足しなかったオイラは秘密兵器として別に、「爆竹」と「花火」を常備していた。使用するかどうかはそのTPOにより、考えていたが、たまにハズして不評を買ってしまうこともあった。


■バスドラムに花火の花が咲く
 そんなこんなで、たしかアケタトリオでの演奏だった。
ドラムが俺で管楽器のゲストが2人ほどいた。松本おさむか?

 オイラのドラムソロの時のことだ。オイラが秘密裏に持っていた花火と爆竹を見つけた管楽器奏者が、花火に火をつけてバスドラムの穴に差した。オイラは構わずドラムソロを続けたが、花火はバスドラムの穴に刺さったまんまドラムソロに華麗な色どりの火花を咲かせていた。

 さすがに誰かが見かねたのか、花火の刺さっているドラムに向かってコップの水を何杯かかけて消したのだが、そのバスドラムはファイバー製のため水濡れOKで問題はなかったのだが、床がビチャビチャになってしまい、オマケに撒かれた紙吹雪がそれに絡まって、床が無残な汚れを呈してしまっていた。


■火災報知器が鳴り止まず・・・
 そんな時、店のあるビルの中では火災報知器が鳴ったらしいのだが、管理者が不在なのか、報知機のスイッチを切る場所がわからなかったのか、報知機のけたたましいベルが鳴り止まなかったらしい----というのだが、地下1階の店の中にいた我々はドラムの音に消されてそんなものは聞こえるはずもない。噂では消防車が駆けつけて来たの来なかったのと言われているが、定かではない。


■奥さんと2人で庄屋に飲みに行って・・・
 その夜、とうとう火災報知器事件を知らないままライブを終えたオイラは、アケタの奥さんと近所の「庄屋(かどっか)」で、ライブの打ち上げをしていた。

『アケタと悟空の組み合わせは楽しいから、今後も組んでやればいいじゃない』との話を聞きながら祝杯を重ね、お互いにホロ良い気分で盛り上がっていた。

 当時は原田依幸(ピアノ)と望月英明(ベース)との絶倫本舗もやっていたが、シビアな絶倫本舗に比べてアケタとのコンビは癒し系で楽しいバンドになることは、これまで何度か共演してきたことからオイラもノリノリで応じた。


■突然の出入り禁止措置
 以降、なぜだかオイラはアケタの店ではブッキングを組めなくなった。それはオートマチックで絶倫本舗のドラマーも出来なくなったし、ミュージシャンがオイラをドラマーに選ぶのも不可能になった。

 ある時などは韓国から来たパクというピアニストのライブでさえも、ドラマーとしてオイラを指名してくれたにも拘わらず、出ちゃダメと言われ、他の店で演奏をしたのだった。


■真実は2人の心の中だけに???
 というわけで、今更30年も近く前の花火事件による出入り禁止処置が解けないというのも、もはやどーでもいい話であるが、オイラが勘ぐるに、出入り禁止はその事件そのものではなく、「庄屋で2人で楽しく飲んだ」−−−−ことにあるんじゃあるまいか・・・と、思っているわけである。

 ことに身から出た錆ではあるが、当時のオイラはアケタによって「ジャズ界の三浦和義」と呼ばれ、女性関係について良からぬ印象を持たれていたため、必要以上の憶測をされたためではないかと信じて疑わないのである。

(あの絶倫の悟空が、ホロ酔のいい女を放って置くはずがない)
との邪推が生じたとしても不思議ではない。ま、いずれにせよ、遠い遠い30年近くも昔の話なのであり、真実は2人の心の中にだけ刻まれているのである。


5561.野中の野人/その41=新たなる旅 返信 引用

名前:のなか悟空 日付:12月27日(木) 11時12分
■あらたなる旅
 富士山頂での演奏を終え、アジア大陸横断ドラム旅を計画したまではいいが、いくら企業訪問をしても協賛金の獲得は全く手応えがなかった。かといって自分自身の金は睡眠時間を削ってまで、昼はガードマン、夜は弾き語りをしながら、働いても、働いても、働いても、ちーっとも貯まらない。いったいどうすればいいのか・・・かつて音楽学校へ行くための月謝を稼ぐためのアルバイトと、練習時間の狭間で悶々とした日々を再び過ごしていた。


■叩き語り??
当時、オイラは叩き語り??もした。
なんじゃ?その叩き語りちゅーのは??とお思いだろう。実はピアノの弾き語りだったのだが、ピアノの弾き語りは活気がなくて面白くない。そこでオイラか考えたのは、ピアノの反対側にドラムセットとカラオケセット(今のような有線ではなく8トラックテープだった)を置き、ピアノを弾くのに飽きたら、くるりとイスを回転してカラオケテープを入れ、その歌に合わせてドラムを叩く-----というスタイルを考えついた。笑!

これが千葉県の野田市のスナックでは(埼玉から千葉までバイクで通っていた)大受けで、ピアノの伴奏で湿っぽく歌うよりは、カラオケを伴奏にしてナマのドラム伴奏が加われば臨在感があっていい、とのことから近隣で評判になり、客が大挙して押し寄せたのである。
 しかも、しかもだ。隣市の柏市のパブからもオファーが来て、週に何日かはバイクで柏市までも通うことになったから私自身は大変だった。


■もらった支援金50万円!!!!!を靴底に入れて
そんなこんなで深夜まで楽しく叩き語りをしながら、その仕事を終えると深夜から朝にかけて町工場で車の部品作りに携わっていた日々、世の中には神様が必ずや見ていてくださるものだ-----野田市のスナックに来ていた常連のある社長が、「悟空ちゃん、そんなんなら私が出してあげるよ」と言ってポンと1万円札を50枚、出してくれたのである。

 生まれてこのかた、大枚50枚なんて持ったことがないオイラは、バイクで通っていたので、途中でヤンキーどもとけんかでもして無くしてしまったらコトだ。そこで丁寧に25枚ずつをそれぞれ片方ずつの靴に入れ、その夜は特に安全運転をして自宅まで帰った。


■ガソリン満タン、出発準オーケー!!
 それまでのオイラの貯金は20万円未満。それに50万円を足して70万円。70万円もあれば数ヶ月アジア大陸横断をして、且つ留守の家族のために生活費を置いても行ける。よしっ!!!ということで支援者(その他、小口ながらも数万円は支援金が集まった)に大感謝をするとともに、いよいよ訪れる国、まずは中国のビザの取得から始めたのであった。つづく・・・


5562.野中の野人/その41-2/笑える裏話 返信 引用

名前:のなか悟空 日付:12月28日(金) 8時18分
■叩き語りがライブをしたら
柏市では評判の叩き語りだったため、店のママからいちど自分のバンドでライブをやらないかと言う話が持ちあがった。そこでバンドのメンバー1人につき1万円ずつ位のギャラをもらって、ライブをやることになった。

メンバー
ギター/津村和彦
サックス/近藤直司
ベース/不破大輔かまたは永田利樹
ドラム /のなか悟空

 以上の面子でやったのはいいが、所詮フリージャズ。うるさいことこの上ない。いくら営業先でいつもおとなしい演奏していたとしても、ことジャズのライブとなると、手を抜かないのがオイラのポリシー。
 店のママにうるさいから音量下げてくれと何回もジェスチャーで合図されたが、絶対に音量を下げなかった。おかげでその店でのドラムの叩き語りは、その日を境に仕事を断られてしまった。


■中国のピザはどこに入っているの?
アジア横断となればまず訪れる国は中国。
当時中国のビザは個人では取れなかったため、ビザの取得をある旅行会社に依頼した。

旅行会社からの封筒にはビザを取得したとの手紙と共にオイラのパスポートが入っていたのはいいのだが、封筒の中をいくらかき回しても肝心のビザが見当たらない。そこであわてて旅行会社に電話を入れ、ビザが封筒の中に入っていないとのクレームつけた。旅行会社曰くビザはパスポートの提示にスタンプで押してあるとのこと。ここでオイラは赤っ恥を書いてしまったのだった。



■社長をライブに呼んだら
50万円もカンパをいただいた社長にも恩がある。アジア横断の旅を終えての初ライブは小岩の「オーム」だった。

メンバーは
近藤直司 /サックス
不破大輔/ベース
のなか悟空/ドラム

 そりゃあアジア横断の旅を終えての初ライブだから気合が入りまくり。客だってそれは同じ。それこそ大騒ぎ中の大騒ぎの中、その社長は借りてきた猫のようにちっちゃくなって片隅で震えていた。以降二度とライブに来てくれることがなかった。


■毒薬か劇薬か?人間国宝の演奏
こうやってオイラは我が「人間国宝」の演奏のおかげで、叩き語りの職場を失い、大社長からの支援もカットされたのであった。
 我が「人間国宝」の演奏には妥協はなく、中道もなく、ただひたすらブッ飛ばしあるのみなため、殆どの人々に極端に嫌がられ、ごく希なるマニアにのみ受け入れられる演奏だったのである。

 したがって安易な薬などではなく、かといって毒でもなく、毒薬か劇薬かのカテゴリーに入る演奏なのである。妙なジャンルを何十年も演奏するハメになってしまったが、コレが生業なら今さら変更は出来ないのである。


★写真は2003-4フィリピン/カリエド付近の川沿いにて/パッシグ川はまるでインドのガンジスのよう。汚水も汚物も庶民の生活もすべてを包み込んで流れていく。岸辺は共同トイレなのである。




5569.野中の野人/その43
♪フリマで買った「高杉晋作」を読み始めたら止まらない。まだ年賀状も全く書いてないというのに・・・。

■野中の野人
 アジア横断の旅で行った国と演奏した場所
*中国
... 上海⇒黄甫公演
北京⇒万里の長城/天安門広場
西安⇒大雁塔
チベット/ラサのポタラ宮前/小学校/川のほとり/定日
*ネパール
カトマンズ/広場/モンキー寺
*インド
バラナシ/ガンジス川
ニューデリー/ガンジーさんの銅像の前
*パキスタン
ペシャワール/アフガン・キャンプ
*イラン
イラン・イラク戦争中のためドラム叩けず
*トルコ
イスタンブール/ガラタ橋のほとり

以上、詳細を語ると長くなりすぎるので省略。以上は情報センター出版局の「バチ当たり」に書いてある。が、絶版である(アマゾンにたまに出品されている)。


■隔離病棟に入れられて・・・
 3-4ヶ月後に帰国した時は・・・心身の疲労で体重が十数キロ減っていたため、妻が見間違えたほど。どれくらい体力が低下していたかというと、階段を手すり無しには登れないほど。帰国の1-2週間前に頃には食べ物が喉を通らず、かろうじて日々生卵を2個程度飲むだけの食事だった。

 健康が優れないので保健所に電話したら救急車が迎えに来て、そのまま隔離病棟へ入れられ、精密検査を受けることになった。その時に面会に来た妻子は防菌服と防菌帽子を身につけて、ビーニールの向こう側から面会をした。なんとも侘しい家族との再会だった。


■1ヶ月間の入院中、病床で次なる展開を考えていた
*花火大会との音比べ
*モトクロスとの2時間耐久演奏
*ジャズ祭りに殴り込み
つづく・・・


★2003/4フィリピンの電気屋さんは、ゴム長靴、ゴム手袋などの防具ナシで鉄のはしご。電圧は200V。こわいよぅ~!!/撮影悟続きを読む



5570.野中の野人/その44 返信 引用

名前:のなか悟空 日付:12月31日(月) 11時31分
■隔離病棟の中で
 精密検査の結果、肝臓のナントカいう数値は健康体の1000倍だったと医師は言った。劇症肝炎の一歩手前だったらしい。そんな中オイラは「アジア横断ドラム旅」の活動がまたまたミリオンセラー週刊誌の「フライデー」に掲載されたが、まだまだその程度では中途半端だと思い知らさせた。

 しょせん小市民が命懸けでアジアを横断したとしても、一億人以上いる国民にとっては、蚊に刺さされたほどの刺激さえもないのが現実なのである。

 これじイカン----新たなる作戦を立てて話題に登りライブに集客をして、オイラのドラムを聴かせるのだ!!そう再奮起して、病床で新たな作戦の遂行を考えていた。


■その候補と反応
★花火大会との、音比べ
 2-3の大会に電話して探りを入れたが、そばでドラムを叩くなんてと、問題外の扱いをされた。

★モトクロスとの2時間耐久演奏/その@回目
 友人がモトクロスをやっていたことから実現可能。2度やった。
1度目はオイラと近藤直司、不破大輔のトリオ。
ご存知のようにモトクロスの音はデカイ。しかも2時間耐久レースで数十台が走り続けるとなると、その喧騒は太古の巨大ハエか何かが群れをなして飛んでるかのよう。

 それでもワシらはモトクロスのコース脇にセットをしてバリバリに演奏したのだが・・・まずはベースのアンプが飛んでしまった。サックスもドラムもモトクロスの音にかき消されて全く役に立たず。


★モトクロスとの2時間耐久演奏/そのA回目
 普通のアンプじゃ役に立たないし、また壊れてもしょうがないので不破大輔は棄権。そこでオイラは一計を案じ、ボロクソワーゲーンの屋根にステージを作り、巨大スピーカーを取り付けて宣伝カーに改造した、
 そして屋根の上にドラムセットを載せ、近藤のサックスにはマイクを付けて2時間耐久演奏に挑戦した-----これで難なく面白い企画は成功したが、次なる敵はバイクの巻き上げるホコリに悩まされたことだ。写真と動画はあるはずだが、探すのが手間なので割愛する。

つづく・・・


野中の野人/その44のA 返信 引用

名前:のなか悟空 日付:1月5日(土) 22時15分
話が44話に付随するため44-2としました。

■アジア横断ドラム旅、「バチ当たり」出版秘話

■東大の学園祭(1987.11/22)東京大学学園祭
 わが「人間国宝」のファンである、東大の松原教授の計らいで東京大学の学園祭に招かれることが決まった。それをサックスの近藤直司に
『今度、東大の学園祭に招かれたよ』と告げると、
『えっ?東洋大ですか?』だと−−−。
... 『ちがうよ、東大だよ』
『東海大ですか?』
東海大の出身の近藤には、東大と言ってもピンと来ないか、冗談だと思ったようだ。
『違うってば。東京大学だよ』
というと、信じられないという返事が帰って来た。
 ウチら『人間国宝』は、学園祭などにはトント縁が無いのに、いきなり東京大学だもんね。高卒のオイラには、とてつも無いことに思えてしまった。


■不破大輔は幼児をバスドラのケースに入れて
 アジア・アフリカ研究会から招かれて、アジア横断の旅の様子を2時間のトークの後、人間国宝で30分ばかし演奏することになった。
 この時、不破大輔は2歳ほどの娘を連れてきたのだが、さも当たり前のように子供をバスドラの空ケースに入れてセッティングを開始した。学園祭には似合わないシュールでアバンギャルドな光景だった。

 セッティンを終えても何の曲をやるかもなーんも決めていなかったが、セッティングの最中に近所の校舎からチャラチャラしたせせっこましいバンドの音が聞こえてきた。ここでオイラはブチっと切れた。
『おめーら、まだワカランのか。黙らっしゃい!』
とばかり、川下直広の名曲、『血血闘』を、30分1本勝負でブチかますことにした。


■馬鹿という才能では東大生より偉い!!
『オレ達ゃバカを売っんだから、バカという面ではオメーら東大生より利口だぜ!どかーん!!!』

その瞬間、他の校舎の窓を一斉に閉める学生の姿が見えた。俺のライブは客が少ないのが通例だが、東大の階段教室とて例外じゃない。果たして−−−ワシらの5つ星の激辛演奏を最後まで聴ける骨のある奴は、何人いるか?

 少ない聴衆の中に、俺の運命の鬼才、情報センター出版局のH局長の姿があった。後で知ったことだが、H局長は先日オイラが持ち込んだ「アジア横断ドラム旅」の原稿をテイよく断ろうとして、その口実を探しに来ていたらしいのだが、この時の激辛演奏を聴いて感性を射抜かれ、原稿に目を通してさえもいないのに、出版にゴー・サインを出したというから、H局長もエライ。

 いずれにせよ、この時の我が「二代目・人間国宝(近藤直司・不破大輔・のなか悟空)」の演奏は大したもんだったと、自画自賛しているのである。

http://www.youtube.com/watch?v=0G7RvKCSA1g



5576.野中の野人/その45 返信 引用

名前:のなか悟空 日付:1月2日(水) 12時59分

■ジャズ祭に出演打診
 オイラは当時の人間国宝のメンバー(川下or近藤・不破・吉田と俺)を国内最強(狂)バンドと自認していた。それがなんでどーして各地の有名ジャズ祭に呼ばれないのか不思議でしょうがなかった----ならば自分から応募してみようと、ジャズ雑誌に載っていた有名ジャズ祭に片っ端から電話をかけたみた。

 ところがその主催者の多くは----自治体が多いのだが-----彼らはジャズについては全くの無知で、その自治体から依頼されているプロダクションによって出演ミュージシャンを選んでいるというカラクリが分かった。
 ならば----とそのプロダクションが分かった事務所だけ電話で聞いたが、担当者不在だとか、今年は既に決まった、だとか言い逃れをされてしまい、オイラが本当に出演したいのだという熱意はいつの間にか削がれてしまった。



■右翼の事務所に電話 
 ならば----右翼の凱旋カーを借りて、その屋根で演奏して殴り込みじゃあ!と、電話帳で右翼の事務所を調べて問い合わせてみる。
「私は悟空というドラム叩きですが、ジャズ祭に殴りこみ演奏をしたいので凱旋カーを貸してください。ガソリン代は負担しますが、謝礼はできません。」

 だが・・・それもダメだった。
どこの馬の骨か分からぬ太鼓叩きに政治団体の名前が入った凱旋カーをタダで貸して、自分たち政治団体のマイナスになっちゃあイカンという思惑でも働いたのだろう。どいつもこいつも守りに入ったケツの穴の小せぇ連中だ、とオイラ腹を立てた。



■自分の宣伝カーで殴り込み!
 ならぱ止むなし----ちょっとショボいが、自分の宣伝カーの屋根にドラムを乗っけて、守りに入ったジャズ祭に殴り込みじゃあ!!

で、行ったのが台東区の某・ジャズ祭。
出演メンバーはどいつもこいつも聞いたことのあるジャズマンやグループで変わり映えのしない、守りに入った、もはやジャズじゃないジャズ祭で、格好のターゲットだった。

 その会場外の路上でオイラはアジった。
「諸君!もはやジャズとは言えない、守勢にたったジャズと言われていたものを演奏する人々と、それを信奉している人たちよ。そんなもんを演奏したり、聴いたりしてどーするんだ!ワシら人間国宝を聞きなサイ!」


■自分でジャズ祭を開催
 ってなもんだが、これでオイラはジャズ祭に呼ばれるどころか、ますます疎んじられていくハメになっていった。
 だが、構わない。
ジャズ祭に呼ばれなかったら、自分でジャズ祭を開催したらええやんけ----ということで、タイミングよく「バチ当り」という本が出版されたのを機に、出版社に主催してもらって「オールナイト湾岸ジャズ祭」を開催したのである。

■主催/情報センター出版局
■ブレーン/松原隆一郎東大教授
■出演/のなか悟空&人間国宝
フェダイン
早坂さち、永田利樹
■ゲスト
カン・デ・ファン(韓国)
沖至

 イベントは会場費やミュージシャんにギャラを払っても赤字ではなく、ほんの僅かながら利益も出たので、主催の出版社や松原東大教授と分け合った。

つづく・・

★写真はボロクソワーゲンの屋根に自作の宣伝カー。屋根に「パチ当たり」のノボリを立てて都内を凱旋行脚/松原東大教授(中)と俺(左)



5577.野中の野人/その46 返信 引用

名前:のなか悟空 日付:1月3日(木) 10時35分
■出る杭は無視され
 オイラはライブに客を集めるために、手段として「富士山頂ライブ」をやり、「アジア大陸横断ドラム旅」をやり、ジャズマンには珍しく著書も出版した。

 だが・・・それでもライブの客が増えないのはどういうわけなのか?そのメカニズムがどうにも分からなかった。それで思い通りにならない世間に業を煮やして、宣伝カーを駆ってジャズ祭でアジ演説をやった。

 自画自賛するのもナンだが、ビンボーで無学な自分ではあるが、よく頑張った。だが、これだけやっても「人間国宝(近藤・不破・俺)」の客は増えなかった。それは何故なのか??



■馴染みの居酒屋で無視される
 当時、西荻窪でライブの後によく打ち上げをやっていた顔なじみの店があった。オーナーはオイラのライブ活動に理解を示してくれていたのでそれが嬉しかった。
 それがだ----、処女作である「バチ当たり」を持参して、
『おかげさまで処女作の出版が出来ました』
と報告すると、プイと横を向いてしまって、こちらに近寄らなくなってしまった。

 なぜ?どーして?
今思えば、得意満面になっていたであろうオイラの慢心が嫌味として相手に作用したのかとも思われる。が、兄貴分であるはずのオーナーが祝ってくれるほどの心の広さがあってもいいとも俺は思う。

 だが、人間の心は簡単には割り切れない。
昨日までは同じ穴のクリエイターだった者同士でも、一方の杭が出てしまうと、それがジェラシーになってしまい、無視してしまうという行動に出てしまうこともある。



■新たなる旅立ちを画策
 従って、杭が出るためには数センチ、数十センチ程度出ても、どーにもならぬ。どーせなら今の渋サ知らズのように、何十メートルも突出してしまわねばならぬ。だが、当時の俺にはそんなことは分からない。

 とにかく自分のやった事が、まだまだ中途半端だと再認識し、「アジア大陸横断」した程度ではライブの集客はままならぬ。ええい、いっそのこと本気で身命を賭して、アフリカ大陸をドラムを叩きながら横断してしまえば、いくらなんでもライブの客が増えるだろうと、新たなるドラム旅を画策したのである。

つづく

★写真は当時、「人間国宝」のレコーディングのために神奈川山中の梁山泊で、近所の神社に詣出たひとコマ-----当時、不破大輔が人間国宝のレコーディングを前向きにやってくれてはいたのだが、当時の俺は『レコーディングのための演奏』は嫌いで、どうにも感情移入して叩けなかった。
 そのため、この梁山泊に行く途中、不破大輔の先導する車からわざと自分の車を遅らせ、迷ったふりをして逃走することを考えてトロトロ走っていたら、先導車から近藤直司が降りてきて、「叩きたくないからワザと遅れてるんだろう!」と、叱られてしまった。そんなマイナスの思い出がある(;_;)写真だ。結局、録音はしたのだがレコードにはならなかった。撮影は吉田社長。