野中の野人/第3巻  2012/11中旬よりフェイスブックにて連載開始

2013年

5588.野中の野人/その50/CD録音悲(秘)話 返信 引用

名前:のなか悟空 日付:1月7日(月) 18時26分

■初めてのCD発売
 ご存知のように我が「人間国宝」は、初代の「川下・不破・野中」の時代にはレコードもCDも出してない。それが二代目の「近藤・不破・野中」の時代になって、やっとこさ録音をしてCDを出そうという動きがあったのだが、いかんせんワシが録音のための演奏がイヤだった。



■然るべき局部に然るべき自己オペを・・・
 実はそれもあったのだが、当時、自分の肉体のある部分に、改造を自ら施していた。というのも男は生まれながらにして持っているもんだが、それは体重や腕力と違って、どーんなに努力をしても伸びないもの、ま、身長みたいなもんだわな-----それを自らの殻を破るべく、カミソリや千枚通しを使って、改造していたのだ。
 
 結果----暑い時期ということもあって、その部分が無残にも膿んでしまって痛かった。



■叩きたくない、行きたくない
 そんな時、それでなくても録音はイヤなのに大和市の「足穂」でのライブ録音が決まっていて、スタンバイ出来ているとのこと。たが・・・ワシは行きたくなかった。ライブが近くなるとオイラは全く電話に出なくて居留守を使った。どうしてもライブ録音をボイコットしたかったのだ。

 すると----わざわざ都内から松原東大教授と近藤直司が大宮の我が家にやって来たのである。
「のなかちゃん、頼むから来てくれよ」
「イヤだ。行きたくない」
「叩かなくていいからさぁ。行くだけでいいんだよ」
「じゃ、叩かないよ。行くだけだよ。」

 というやり取りがあって、オイラは2人に連れられて大和市の「足穂」に足を運んだ。だが・・・そこにはしっかりとシブサの吉田社長が録音機材をスタンバッて待ち構えていた。

つづく・・・

★写真は平成元年当時の「吉田社長・不破大輔・近藤直司」


5579.野中の野人/その47 返信 引用

名前:のなか悟空 日付:1月4日(金) 0時32分

■どこまでやれば中途半端じゃないのか----。
 富士山頂で演奏し、アジア大陸を横断し、その成果として処女作の著書を上梓した。それでもまだ我が「人間国宝が」観客を動員できないとあらば、自分のやった事がまだまだ中途半端なのだと認識したオイラは、いっそのこと身命を賭してアフリカ大陸をドラムを担いで横断すれば、いくらなんでもライブの客が増えるだろうと、新たなるドラム旅を画策した。

 とまれ----ここで奇天烈なことばっかしやって肝心のドラムの練習はどーなっとんじゃい? という叱責を受けそうだが、案ずるなかれ。人一倍才能に恵まれない無学な駄馬のようなドラマーではあったが、それなりに練習だけはコッテリやっていたし、体力の錬成にも余念がなかった。それこそ1週間連続ドラムソロでもやっちまおうか、というくらい心身ともに充実していた。


軍資金はギャラの先貰いとカンパと弾き語り
 新たな目標に向けて、ライブ活動を続けながらも、ナイトクラブでの弾き語りとキッチンのチーフを兼ねたアルバイトが始まった。この当時、小学生の子供が2人いたので生活が大変で、いくら身を粉にして働いても貯金は貯まらず、当時の妻に至ってはパートを3つも掛け持ちしていたほどだから、随分と迷惑はかけた。
 結局・・・アジア大陸横断の前と同じで、睡眠時間を削ってまで働いて、働いて、働き抜いたのだが貯金が出来ないので、「生涯ギャラはいらないので、ギャラを先にください」ということで、地方のファンや知り合いの会社経営者、友人等々にカンパを募って、100万円以上の金額を集めた。


■予防注射を十数本打ち込んで
 アジアの旅の二の舞にならぬよう、アフリカに旅立つ前の予防注射は用意周到だった。コレラ2本、B型肝炎2本、A型肝炎1本、狂犬病2本、黄熱病1本、破傷風3本の合計11本をブチ込んでアフリカ横断旅へ出立したのである。

 旅立ちの前には「元祖・人間国宝」が、初めて出演させてもらったピットインに大勢の客が来てくれた。
「今夜死ねない奴はアフリカでも死ねぬ」
「疲れたと思ったら腕にナイフをぶっ刺す!」
との覚悟で腰にナイフを携えてまで頑張って叩いた-----ほれ、だから25年ぶりに発売した「アフリカ探検前夜」のDVDにてその鬼気たる臨在感が垣間見れたはずだ。


 帰国の暁には、今度こそ我が「人間国宝」にライブの客が大挙して来てくれるだろうとの期待とともに、飛行機への積載量をはるかに超えたドラムセットを持ち込んで、当時最も安価で積載量にルーズだったパキスタン航空でナイロビに向かって飛び立った。
機内ではリュックの中にドラムのスタンド類ばかりを入れているのが発覚してひと悶着あったが、もう飛び立ってしまったからはどうにもならない。そこいらはオイラの勝利だった。笑。

★写真はアフリカに持っていったドラムの特注ケース2個。この中に18インチバスドラムのセットと、キャンプ用品などががぜーんぶ入っているから重い。


 
5580.野中の野人/その48 返信 引用

名前:のなか悟空 日付:1月4日(金) 22時10分
■アフリカ音楽探検記
 アフリカ音楽探検をフェイスブックにアップすると、入力が膨大なので省略する。詳細は情報センター出版局の「アフリカ音楽探検記」に書いたので、著書を買ってもらうか、Amazonで中古本を買って読んでもらうしかない。
 3~4ヶ月にも渡るアフリカドラム探検を数行で書くとしたら
*キリマンジャロのとっペんで叩いた(この最中に昭和天王崩御)
*マサイ族の村で雨乞いのドラムを叩いた
*ピグミー族の村で叩いた
*ザイール川を2~3週間ほどかけて下った
 いずれにせよ滞在した村々では必ず1度はドラムを叩くなり、セッションをするなりしたドラム旅だった。

 旅の終焉の頃には同行したカメラマン役の弁慶がマラリアになり、オイラはウイルス性赤痢になってしまい、アジア横断のドラム旅に輪をかけて過酷な旅だったのである。


■げに「刷り込み」は恐ろしい
 ライブの集客のために・・・それこそ身命を賭しての起死回生の旅ではあったが、アフリカから帰国しても、我が人間国宝(近藤・不破・野中)のライブの客は増えず、小岩の「おーむ」を除いては殆ど一桁だった。

 普通ならここまでやってダメなら、バンドの方向性を再検討するのだろうが、オイラはそうは思わなかった。それは何故か・・・? 
 全ては連載の初期に書いたように、初めて聞いたマックス・ローチの「WE INSIST」にあり、上京して初めて聞いた山下トリオ(坂田・山下・中村)にある。

 田舎からドラマーを志した紅顔の青年が初めて耳にしたものを「ジャズ」だと思い込んでしまう、あたかも卵からかえったヒナ鳥が、初めて目にする動く物を親だと思い込んでしまうように(これを「刷り込み」という)、オイラも彼らを「ジャズかくあるべき」と思い込んでしまったのだ。
 だから方向性を変えるなどとは思いもよらない。自分らの「人間国宝」が山下トリオになる。あわよくば「取って代わる」ほどの意気込みだった。


■新たなる旅 
 アジアを横断してダメで、アフリカを横断しても集客が出来なかったオイラは、まだまだ中途半端との自己判断を下し、新たなる旅、「中南米10カ国」をドラムを担いで武者修行してみよう! と思い立った。
 直球一筋。ドラムと旅の第三弾である。これでもダメだったならとは思わなかった。きっと我が「人間国宝」のライブに、必ずやライブの客が押し寄せてくる・・・そんな期待を持ち続けていたのだ。
つづく

★アフリカの記事は下記にある。
http://homepage2.nifty.com/nonakagoku/gekkan/


5587.野中の野人/その49/「アフリカ音楽探検記」出版秘話 返信 引用

名前:のなか悟空 日付:1月6日(日) 20時16分
■昭和から平成にかけて
 アフリカのいっと最初にキリマンジャロのとっペンでドラムを叩いたもんだから、それが以降ドラム旅の冠キャッチコピーになった。

 訪れる国々、町々、村々で、まずうそぶくのだ。
「キリマンジャロ知ってるか?」と俺。
「当たり前だ、知ってるよ」と現地人。
「俺はそのとっペンでドラムを叩いた男だ」
「へぇ~すごい!」と現地人が驚く。
 じゃあいっちょそのアフリカのナンバー・ワン男がドラムを披露すっべ。ということになってあちこちでドラムを叩きまわったワケだ。


■本を出さないと「腹を切ります!」
 帰国したのは4月の中旬、まるまる4ヶ月近くのアフリカ横断の旅だったが、原稿を書き上げるのは早い。なんせ喋る速度で文章を書けるもんだから、帰国して1-2ヶ月後には原稿を完成させて出版社に入稿を済ませた。

 ところが・・・モタモタするのが出版社の得意技で、連中は二言目には「いま、バタバタしてて」と定型句をのたまうのだが、ちーっとも出版の運びにならない。こっちは伊達や酔狂でアフリカを横断したのではない。命懸けのドラム旅だったのだ。

 そこで前出の自作宣伝カーで都内の出版社前まで繰り出して、「早く本を出せコール」をやった。笑。どーせ出版するのなら、早い方がいいし、オイラにも早く印税が入るのだ。

 それでも・・・ちーっとも出ないまま、年の瀬を迎えてしまった。
そこで業を煮やしたオイラは件のH・編集局長に、
「今年中に出すように手はずを整えないと、俺は腹を切ります!」と宣言した。

 それから数日後、俺は下腹部に味わったことのないほどの痛みを覚えて救急車を呼んだのだが、それが急性盲腸。担ぎ込まれたその日に盲腸の手術で腹を切ることになった(これがアフリカ横断中の急性盲腸でなくて良かった)。

 後でH・編集局長が言ったとさ。
「悟空って奴は劇的に『有言実行』な奴っちゃなぁ。しゃあない、年明け早々出版にかかるか」と----。


5588.野中の野人/その50/CD録音悲(秘)話 返信 引用

名前:のなか悟空 日付:1月7日(月) 18時26分

初めてのCD発売
 ご存知のように我が「人間国宝」は、初代の「川下・不破・野中」の時代にはレコードもCDも出してない。それが二代目の「近藤・不破・野中」の時代になって、やっとこさ録音をしてCDを出そうという動きがあったのだが、いかんせんワシが録音のための演奏がイヤだった。



■然るべき局部に然るべき自己オペを・・・
 実はそれもあったのだが、当時、自分の肉体のある部分に、改造を自ら施していた。というのも男は生まれながらにして持っているもんだが、それは体重や腕力と違って、どーんなに努力をしても伸びないもの、ま、身長みたいなもんだわな-----それを自らの殻を破るべく、カミソリや千枚通しを使って、改造していたのだ。
 
 結果----暑い時期ということもあって、その部分が無残にも膿んでしまって痛かった。



■叩きたくない、行きたくない
 そんな時、それでなくても録音はイヤなのに大和市の「足穂」でのライブ録音が決まっていて、スタンバイ出来ているとのこと。たが・・・ワシは行きたくなかった。ライブが近くなるとオイラは全く電話に出なくて居留守を使った。どうしてもライブ録音をボイコットしたかったのだ。

 すると----わざわざ都内から松原東大教授と近藤直司が大宮の我が家にやって来たのである。
「のなかちゃん、頼むから来てくれよ」
「イヤだ。行きたくない」
「叩かなくていいからさぁ。行くだけでいいんだよ」
「じゃ、叩かないよ。行くだけだよ。」

 というやり取りがあって、オイラは2人に連れられて大和市の「足穂」に足を運んだ。だが・・・そこにはしっかりとシブサの吉田社長が録音機材をスタンバッて待ち構えていた。

つづく・・・

★写真は平成元年当時の「吉田社長・不破大輔・近藤直司」




5589.野中の野人/その50/CD録音悲(秘)話/そのA 返信 引用

名前:のなか悟空 日付:1月9日(水) 16時11分
■勝負は1度だけ!
 オイラは近藤直司と松原東大教授に連れられて、イヤイヤながら大和市の「足穂」に行った。

 ライブをやるのはいいのだが、目的が録音だとイヤなのだ。目的がライブでたまたま録音するのなら構わない。どっちでもいいようだが、オイラにとってはどっちでも良くない。

 だってさ、録音だとテイク1だとか、テイク2だとかあるじゃん。
それがヤなの。オリンピックの100メートルだって、フライングしたり転んだりしても失格かビリだ。だけどよ、それさえも含めて4年間の鍛錬の結果だろ?だから、それもOKな訳なのだ。
 「あっ、いまフライングだったからもう1回スタートお願いします」ってのはゼッタイに嫌なの。


■前に出てれば負けたっていい!
 昔、富士桜っていう鼻のひくい相撲取りがいた。
彼はゼッタイに下がらなかった。彼にとっての相撲は勝ち負けの問題ではなく、前に出る相撲だったかどうかだけが問題なのである。したがって前にさえ出ていれば勝負に負けたとしても、本人の価値観としては相撲には勝っているのである。

 俺もそうだ。
演奏なんてどーでもいいのだ。間違ったってズレたって、失敗したって構わない。自分の気力が充実してさえいれば、いつだって100点満点の演奏なのである。ステージから降りる時に、足がフラつくほど気合十分に叩けば、それでOKーなのである。演奏の内容なんて結果だし、後で付いてくるもの。気持ち良く叩ければどーでもいいのだ。


■などとは普段ワシののたまっていること
 だが・・・そこには録音をスタンバってい厳格な顔をした吉田社長が待っていた。
「な、のなかちゃん、お客さんも来ていることだし、一度だけでいいからさ。叩いてよぅ・・・」
「じゃあしょーがない。1曲だけだよ、1曲だけ」

 ま、ワガママといえば極端なワガママ。でもポリシーと言えば、ポリシーで求道者的なポリシーでもあった。

つづく

★写真は左、悟空号。右、不破号


5593.野中の野人/その50/CD録音悲(秘)話/そのB 返信 引用

名前:野中悟空 日付:1月10日(木) 12時53分

■え゛え゛~!!録音できてないって??
オイラはイヤイヤながらドラムのイスに座った。
客が10人前後来ているから、演奏しないわけにはいかないが、1曲だけの約束で叩くことにした。曲名は川下直広のチチトだと思う。
 そりゃあ股間の痛みに耐えながらも、ヤケ糞で叩きましたとも!
ふぅ~!やっと1曲、約30分ほどか?頑張りましたよ。

 ところがねところが、だ!!
吉田社長いわく、「あれっ?録れてねぇや!」----だと!!
やだやだやだ~~そんなの。
一生懸命、叩いたのによぅ~、録れてないって、いったいどーいうことよ。


■ブッ切れて全速力!
 ここでワシはキレたね。
結果的には----いい意味で。
だってさ、人間、走る時だって普通に頑張って走るよりは、ライオンに追っかけられれば早いわな。そこをだ、フツーにドラムを叩くよりは、ブッ切れて叩く方が速く叩けるわな。
 そこいらを利口な吉田シャチョウが見込んで打った作戦なのか?その真意は今となっては不明だが、容易に邪推できなくもない。

 だから、ワシは叩いたよ。
そこで吉田社長と近藤直司、不破大輔、松原東大教授が
「野中ちゃん、いいよ、すごくいいねぇ」
これで調子に乗っちまったオイラは、次の曲もその次の曲も次々に演奏しちまったチューワケ。ま、馬鹿はおだてりゃ木に登るの図だわな。
 ま、結果的に出来上がった「JOLLY」のCDを聞くと、ドラムがやたらに速い。ま、そう言う意味ではいいCDにはなったんだけどね。


■野蛮ギャルドのレコードしては富士山の高さと同じくらい売れた?!
で、その「JOLLY」っていうCDなんだけどさ。
その月の新星堂のレコード売上では、国内のジャズの部門で2番目だったんだわ。当時と前後して元・山下トリオの故・武田和命氏が逝去記念に出したCDだかレコードだかよりは売れたんだからスゴイことだよね。

 その枚数は3700枚!!
フリージャズとしてはスゴイと思う「人間国宝」のパワーだと思うわ。
で・・・これがも自分で販売したら・・・1枚で1500円儲けたとしても・・・555万円丸儲けで、1人平均180万円、ぐふふふふ・・・になるはずなんだが・・・印税は1人数千程度。涙。資本主義の近世の流れと社会機構はよぅワカランわ(;_;)。 



5595.野中の野人/その51/アフリカ横断の次にくるもの 返信 引用

名前:のなか悟空 日付:1月11日(金) 13時27分

■次は中南米だ!
 アジア大陸をドラムで横断し、アフリカ大陸をもドラムで横断もした。雑誌にもさんざん出たし著書も2冊目をだした。だが、相変わらずライブへの客は来ないし、CDは売れたとはいえ実質数千円しか実入りがなかった。

 それにしても・・・よくよく考えても見よ、アジア横断とアフリカ横断の旅の著書がそれぞれ1万部売れたとして、合計2万部。CDの客が3700人として・・・総合計2万3700人が、ドーッとライブ会場に押し寄せてもいいはずであろう。
 いや、話半分としても1万人少々。否、話10分の1としても二千数百人がライブ会場に来てもいいはず。ところが・・・実際にライブの客は相変わらず10人前後。広告をうってチラシをばらまいて大きなライブハウスでもせいぜい100人少々。(;_;)

 そこでオイラは考えた・・・それでもまーだまだ中途半端なのか?だったらドラムを担いで中南米10カ国くらい回ってみっぺ。そうすればライブの客も増えるだろう。



■山下洋介だって断らないよ
 そんなこんなで中南米行きの手配を整えつつあり、写真担当として写真週刊誌FOCUSのカメラマンである梅さんに、ロサンゼルスまでの飛行機代往復を負担することを前提に同行を願った。それで梅さんは了解をしてくれ、その写真誌をやめて出発の準備にかかった。
 そんな時だ----あの全国組織の団体で有名な○音という芸能全般のマネージメントをしている会社の人が2人我が家を訪れた。

 話の内容はこうだ-------数ヶ月先に東アフリカの楽団と民族舞踏団を招聘して国内の六大都市でイベントを行う予定が既に決まっている。ついては「のなか悟空」にゲストとして同行してもらい、その東アフリカの楽団とセッションをして欲しい。

 そりゃあ、行きたい。行きたいですとも!!
行けばギャラも高いだろうし、オイラの名前も少しは売れて、念願のライブへの集客も多くなるはず。
 けどね、その仕事を受けてしまえば、既に写真誌に退社届けを出してしまっている梅さんはどーなるの? 梅さんに後半年待ってもらえば可能ではあるが、そのかん梅さんはどーすればいいの? また写真誌に半年だけ復職させてもらうのか? そういうわけにゃイカンでしょう。
 いったん「行く!」と決めたら「行く!」のが男の道。目先の餌に釣られて決めたことの延期はデキマセン。というわけでその仕事、断ってしまった。

 後日、この話を有名なジャズの評論家に話したところ、
『野中クン、その話はホントに勿体無いねぇ。そんないい話だったら山下洋介だって断らないと思うよ』-----と言われた。ゴモットモです。つづく    



5596.野中の野人/その52/次は中南米10カ国 返信 引用

名前:のなか悟空 日付:1月12日(土) 11時24分

■軍資金の調達
 アジア横断に始まり、アフリカ横断を果たしたものの、まだまだ中途半端との認識を抱いたオイラは、お次は中南米10カ国をドラムを担いで旅することにしたのだが、問題は軍資金だ。

 学齢児2人を抱え、妻は3つほどのパートタイマーを掛け持ちし、オイラは相変わらず弾き語りをしながらガードマンのバイトをし、その間もライブ活動を続けていたが、金だけはちーっとも貯まらなかった。


■ギャラの先もらいと印税の先もらい
 この手もアフリカの旅の時に用いたのだが、1口10万円の義援金を受け、多い人では50万円をポンと頂いた。その合計額は約150万円弱。

 さらに出版社からは、留守にしているあいだ、毎月十数万円の振込を留守宅に受けるようにしてもらった。というのもアフリカ横断後の出版が、実際は旅を終えて半年以上も経過してからというのでは、帰国後の食に事欠いても困るということから考えたオイラの作戦でもあった。   

■企業にも
 サンヨー、コニカ、大塚製薬、Kブレーン、石井スポーツ、リヤカーの会社など様々な企業に商品の提供を受けた。おかげでカメラ類やフィルムを買わずに済んだことは大きい。もちろん雑誌に掲載されることを想定して、企業のステッカーをドラムのケースに貼り付けて、写真に写るよう工夫して恩返しとした。


■ただし・・・これで最後
 このとき自分の中では「他人の懐」をあてにする旅は最後にしようとと思っていた。というのも大きな旅は今回で3度目。佛の顔も3度という。それに自分のやりたいことをやるのに、他人の懐を当てにするなんざ愚の骨頂だとのやましさが自分の中にあった。

 自分のやりたいことは自分でやれよ-----至極、当たり前のことである。だが、その当たり前のことは睡眠時間を削ってまで働きに働いたが、無理だった。それはゼロに100万を掛けてもしょせんゼロになるのに等しい。

 だが・・・4回目からは何としてでも自分の甲斐性でやらねば申し訳ない。著書をどっさり売るか、CDをどっさり売るか、ライブにどっさり客を呼ぶかして、とにかく自分のやりたいことは自分の甲斐性で解決せねばならぬ。でなければ支援者にも申し訳が立たない。

 -----との思いが強く、じっさい支援を受けてのオイラの旅は、この旅が最後になる。以降、何度か数ヶ月単位のアフリカ旅にも行ったが、一切の支援は受けていない。当たり前だ。そうじゃないと俺は単なる「夢を切り売りする」乞食芸者になってしまう。


■中南米10カ国ドラム武者修行の旅へ
 出発し6ヶ月間、スペイン・ポルトガル語圏をドラムを叩きながら旅をして、リオのカーニバルにも飛び入りしたり、現地のサッカー場開催の国際音楽祭りに飛び入りしてドラムソロを披露するなどして、楽しい旅を続けた。
 次回、その模様を少しだけ披露しよう。

★写真は「アマゾン音楽漂流記」、アマゾンドットで中古本が安く売られている。




5597.野中の野人/その53/思い出のアマゾン国際音楽祭 返信 引用

名前:のなか悟空 日付:1月13日(日) 11時1分

サムライ・ドラミング
 アマゾンの船旅で「近い」と言えば、船で数日以内のことを言う。
そんな旅に慣れてブラジルのマナウスからパレンチースは2-3日は船上でハンモックに揺れていた。

 たまたまだが、そのパレンチンスに着いた時のこと、近くのサッカー場で音楽祭があるというので、馬車をヒッチハイクしてドラムセットを持っていった。

 会場は数千人は収容できそうなサッカー場。
そこでスタッフたちが慌ただしく立ち働いていたが、その中でもエラそうなスタッフに声をかけた。
「ドラムを持って旅してる日本人だけど、今日叩かしてくれない?」
「じゃ、叩いてみな」
そんなら、とドラムをセットして叩いてみたら大ウケ。

 彼は別のスタッフを呼んで言った。
「このセニョール面白いドラムを叩く。ほれ、もう一回叩いておくれ」
そこでオイラ、またまた叩く。するとまた大受け----で、またまた別のスタッフを呼んで、
「またまた叩いておくれでないかい?」
と、いうことでまたまた叩くオイラ。なぜかスタッフに大ウケである。
 ま、日本人ってことなのでサムライの日本刀よろしくチャンパラみたいなドラムミングにしたんだけどさ。


■国際音楽祭に出演OK
その国際音楽祭はブラジルは元より、 近隣諸国からミュージシャンが大挙して来ている。そこへ突然飛び込みで行って出演の快諾を得た。

 じゃあ、どう出演するのか?
そこでオイラは先ほどステージでリハーサルをやっていたジャス系のフルバンドを指名し、ある曲の中でクそこのドラマーとドラムバトルをやりたいとの旨を告げると、ドラマーがやんわりと拒否。じゃあしょーがないから音楽祭のオープニングでドラムソロを20-30分お願いしますと言うことになった。

 で、ワシはステージにスモーク(煙効果)の上がる中、アマゾン川の村で食べたイノシシの毛皮を着て、我夢中でドラムソロを演じたわけだが、ステージの逆光ライトで客席は見えなかったが、「ワーっ!」とも「どーっ!」ともつかぬ地鳴りのような声援を聞いた。


■人間国宝を呼びたいが・・・
 演奏を終えるとプロデューサーが言った。
「ゼッタイ面白い! 君のバンドを日本から呼びたいがギャラは幾ら必要か?」
そこでオイラは人間国宝3人分の飛行機代と、機材運搬費と、宿代、船代を計算して、「200万円ほどはかかる」と答えた。
 プロデューサー氏、しばらく考えていたが、予算が出ないと言うことになった。

 帰国後、この話を近藤直司にすると、
「馬鹿だねぇ、全く勿体無い話だよ。3人で100万円だって行っちゃうよぅ!」と、言われてしまった。が----実際のところ3人で100万円なら、儲けもソンもしない、トントンのところだろう。アマゾンは遠いよ・・・・。

つづく

★写真はリオのカーニバルに殴り込みの図



5599.野中の野人/その54/ブラジルからフランス領へ 返信 引用

名前:野中悟空 日付:1月14日(月) 11時37分

■ブラジルからフランス領へ
 リオのカーニバルを終えて、アマゾン河口のベレンの町で当時流行っていたランバーダを踊りまくった後、いよいよブラジルを出国してフランス領のギアナへ向かった。
 この時はドラムセットをサンヨー系列の現地会社のS社長に2000ドル(当時のレートは1ドル130円ほど?)で買い取ってもらっていたので、ドラムセットの運搬はなく、ホイホイの旅だった。


■ギアナはフランス
 ここで驚いたのは小国のギアナで人種は殆どが黒人国家。とはいえ、一応はフランスなので物価が驚くほど高い。それで数日滞在しただけで、小型機で西隣のガイアナへ逃走。


■2000ドル没収??
 アマゾンの川風に煽られながら8人乗りの小型機はやっとこさ隣国のガイアナへ到着。ここは以前イギリスの植民地で殆どが黒人の国。
 この国の税関で問題になったのはデクラレーションフォーム。かつてアフリカ諸国で苦労した出入国のシステムで(今もあるかは不明)、入国時の金品の申告と出国時の金品の申告が異なれば、没収されてしまうというものだ。

 そこでオイラはブラジルで売ったドラムセットの2000ドルを申告せずに密かに腹巻の中に隠していたのだが、それが発覚した。が、オイラはその2000ドルを書類にて申告していないわけだから、「存在しない2000ドル」と言うことになる。
 審査官(といっても軍服の軍事政権でとってもコワイぞ!)は、
「おい、この2000ドルは存在しないカネだな。」と、オイラを見据ながら、机の引き出しに入れてカギをかけながら言った。


■得意の泣き落とし作戦発動
 (こりゃマズイ!!)
そこでオイラはこれまで何度か国境通過のたびに難癖をつけられた時の回避作戦である、「泣き落とし作戦」に打って出た。そのために幼い子供2人の家族写真を持って歩いているのだ。

「閣下どの、そ、そんな殺生な!その2000ドルはこの国では大金ですが、日本へ帰国すればものの1ヶ月で家族が食いつぶしてしまう金額なんです。それが無くなってしまえば、私の子供たちは飢え死にしてしまいます。お願ぇですからアッシの子供たちを助けると思って、是非とも返金をおねげぇいたしやす」-----オイラは手の平から火が出るかのようにこすり合わせて、怖い形相をした軍人を拝み倒した。結果----返金。よかった・・・・。


■スリナムの次は
 スリナムを抜けてベネズエラ、さらにコロンピア、そしてさらにコスタリカへとオイラの一人旅は続いたがドラムセットを持たない旅は気楽なもんだった。

つづく





5600.野中の野人/その55/ブラジルから帰国途中のコスタリカにて 返信 引用

名前:野中悟空 日付:1月15日(火) 8時38分

中南米の思い出/キャベツの味噌汁/コスタリカ

■50ドル返してくれ!
 カリブ海に浮かぶコスタリカ領のサンアンドレス島から、首都のサンホセに飛んだ。サンホセの空港の出口で100ドル札を出して50ドル分両替と言い、おつりを50ドル貰った・・・つもりだった・・・。

 市内に出て安宿を確保した時、「あれっ?50ドルおつり貰ってねぇや!」と気付く−−−慌ててタクシーに乗り込んで空港へ走る。両替する場所の担当のおじさん(本人かどうかは覚えていない)に、両替のレシートを見せて言った。

『2時間ほど前100ドル札を出して50ドルを両替した者だけど、つり銭の50ドルを貰ってないのを思い出したから来た!』
と、必死の形相で言った。

 さて、これがフィリピンなら絶対に無理。アフリカの行ったことのある国々でもまず無理。中米諸国でも無理だろう。それでもその時のワシは必死だった。ワシの下手なコトバと勢いに気圧されたのか、意外とスンナリと50ドルを返してもらった。

 こんなミスでもつり銭が帰ってくる可能性のある国は・・・まず最初に「日本」、次が「タイ」か?他の国々は多分ムリだろう。


■コスタリカでの味噌汁の味
 中南米を10ケ国ほどドラムを持って旅をして、ブラジルでドラムセットを売り、身軽になって帰国の途にあった。ブラジルのベレンからフランス・ギアナ、スリンム、ガイアナ、ベネズエラ、そしてコスタリカ領のサンアンドレス島から首都のサンホセに飛んだ。

 6ヶ月にわたる旅で、ワシの心はボロボロに疲弊していた。
疲弊の原因のひとつは言葉の問題もあるが、「チーノ口撃」もあった。そのチーノ口撃というのは、中南米を旅する日本人が誰しも経験する人種差別発言で、東アジア人と見ると意味も用事も無く、「ヘイ、チーノ!」と侮蔑的に投げかけてくるのだ。

 サンアンドレスの市場に行けば安いオカズを買える。だが市場の人ごみで「ヘイ、チーノ!」とやられると頭にくる。だがそれに耐えてキャベツやコメを買う。それを持ち帰り、ベニヤ板一枚で隣室を隔てる1泊が300円ほどの安宿に泊って、日本食を自炊するのが唯一の郷愁と孤独感と疎外感に耐える唯一の時だった。

 コメは1合ほどをキャンピング・ガスで。キャベツを刻んで味噌汁を作る。キャベツの味噌汁は好きじゃないが、適当な具がキャベツしかなかったからだ。だから今でもキャベツの味噌汁を作ると、あのコスタリカで孤独感に黄昏た日々を回想するのである----ちなみに、自室で煮炊きをしていたというので、すぐに宿を追い出されてしまったのだが。



■豪華でエレガントな靴/コスタリカ
 「チーノ口撃」にほとほと疲弊していたオイラは、その原因のひとつが履物にあると知っていた。なんせ中南米では、『足元を見る』というコトワザそのままで、例えパンツは破れていようとも、靴さえピッカピカならば一目置かれるという習慣がある。

 コスタリカまではボロい安全靴を履いたり、ゴムゾーリを履いていたりしていたオイラたが、いわれも無い差別発言でストレスを感じるよりは一丁特別にいい靴を履いて、「チーノ口撃」から身を守ろうと思った。

 そこで「チーノ!」と意味も無く呼びかけられたその足で、とっとと靴屋の前に立ち、ショー・ウインドーに並んでいる靴の中で一番カッコ良くてゴージャズでエレガントな革靴を買って履いたのである。なんせドラムセットはブラジルで2000ドルもの高価で売ったからフトコロ具合はいいのだ。

 古いゾーリを捨てて買った靴を履いた。その足で再び市場に引き返すと、先程「ヘイ!チーノ!」と声を掛けてきたインディオのオバチャンがオイラの足元を見て絶句した。そう、中南米では高級な靴は水戸黄門の印籠ほどの価値があるのでアル。

★フィリピン/ルソン島北部/サガタの田んぼの風景には郷愁をそそられる。勤勉な農耕民族が住んでいる。


5601.野中の野人/その56/サンバとリンガラ、いい加減にせんかい!! 返信 引用

名前:のなか悟空 日付:1月17日(木) 8時5分

■ブラジルのサンバ
 ブラジルはサンバ・カーニバルの始まる1ヶ月ほど前から、近所もマスコミもサンバだらけになってしまう。オイラはサンバが好きなので生のサンバに触れる事を大いに喜んだはずだが・・・宿の窓を開けてもどっかでサンバが聞こえてくるし、テレビを点けてもどのチャンネルもサンバ、サンバ、サンバ。もうこうなると拷問に近い。
 逆に『んもぉ~いい加減にせんかぁ~!!』とぶっキレそうになってしまった。


■リンガラも然り!
こちらは東アフリカのケニア・ウガンダからザイールの旅。
初めて聞くリンガラ音楽は軽快で楽しくかったのの・・・・それが、いつでも、どこでも、なんどきでも・・・軽快なあのメロディーとリズムが聞こえてくる。しかもアフリカ横断のまるまる3ヶ月、そればっかし・・・・ここでも拷問にさえ感じた。
「いい加減にしろーっ!!」とぶっキレそうになったものだ。


■中南米の音楽に失望
 中南米のリズムには憧れるし、非常に洗練されている。それは置いといて・・・言葉がわかる範囲で理解するに、中南米の魅惑的なメロディーとリズムの向こう側には、「必ず異性が存在する」し、それ以下でもそれ以上でもない、「その程度のもの」という認識を持った。と思ったと同時に軽く失望した。
 だから中南米の10カ国の音楽旅から帰国した時は落ち込んで、多くを発言しなかった。


■だけどパーカッションはスゴイぞ!
ブラジルでは土産物屋の兄ぃがタンバリンを上手に叩く。片手だけで速い16分音符なんてチョロイ!しかも16分音符のケツにアクセントを付けるのだから驚く-----で、その途中に自分の背中に投げ上げて、転がって落ちてくるのをサッカーボールのように足のかかとで蹴り上げて、また左手に受け取って、16分音符だ。

 これにゃ度肝を抜かれた。
以降、軽々に「パーンカッショニスト」の呼称はしないことにしている。タンバリンひとつとっても、パーカッションをナメたらイカのだ。



■都はるみに一安心
 6ヶ月間に渡る中南米の旅からナリタ空港に着いた時、どこからか都はるみが聞こえてきた。あんなに忌み嫌った演歌だったが、6ヶ月ものあいだ聞かずにいると、逆に郷愁を覚えた。旅のあいだ米飯とウメボシは欠かさなかったが、
(やっぱ俺って日本人なんだなぁ・・・)
と、痛感した。

つづく

★写真は30年ほど前、故・高木元輝と故・ダニーデイビスと私とで山形市駅前の画廊に演奏に行った時の打ち上げのひとコマ。





5604.野中の野人/その57/三大大陸行きの末に 返信 引用

名前:のなか悟空 日付:1月21日(月) 9時53分

■三大大陸行きの末
 なんだかんとドラムを担いで三大陸を縦横断した結果、見えたものは・・・特になし。笑。

 ここまでやればいくらなんでもライブの会場は満員になるだろうと思ったものの・・・それもハズレ。笑。

 ということで、多大なエネルギーを消耗したにもかかわらず、オイラの目論見は結果的にことごとくハズレてしまったのであるが、それもやってみなくちゃワカラン訳で、ジンセイと一緒でどーせ死ぬときゃあゼロ、元の木阿弥、ちゅうワケだ。

 が、行動派のオイラの哲学から言えば、結果ではなく、やることに意義がある。したがって大きな結果も実も金にもならんかったが、それはそれで良かったのである。

 願わくば、オイラがドラムで「ドン!」と叩いた時は、その一発の音の向こう側に、アジア大陸なり、アフリカ大陸なり、中南米の国々の風景の片鱗が聴こえてきたなら、「うう・・・ん、なるほど」と、音の裏側を聞き取って欲しいと思うものである。


■人のフンドシも取りおさめ
 この3つの大きな旅に関し、多くの友人やスポンサーからの支援を得た。こりのことに関し、オイラは「仏の顔も3度」と自ら戒めを公に発令し、今度、「自分のやりたいことをやるのは、自分のみの甲斐性で」というルールを作った。

 したがってこれ以降の海外のドラム旅は、当然のことながら全て自分の甲斐性で自己完結した旅にしている。ま、当然といえば当然。当たり前のことである。

 ただ、最後に某トラクターのメーカーと提携して、18年ほど前に「日本列島トラクター縦断2000Km」というイベントを打った。この話は次回に述べよう。
つづく・・・。


5606.野中の野人/その58/腹を切るぞ!! 返信 引用

名前:のなか悟空 日付:1月22日(火) 10時37分

■約束に血判と腹キリ!!
よくあることだが、利益優先の企業や出版社というものは、平気で言葉を翻し、九分九厘決まっていた約束を反古する。俺はそんな憂き目に何度も遭って来た。だからそんな連中許せない。

 で、オイラの最後のイベントである、「日本列島縦断トラクター2000Km」というのを18年くらい前にやったのだが、そのイベントの直前になって、某主力企業が下りたいとの旨を伝えて来た。ワシはキレた。

 そこでその会社の担当重役に面談し、彼の目の前でカミソリで自分の指を切って契約書に血判を押した。
「ことここに来てもし約束を反古にするというのなら、オイラは貴社の玄関前で腹を切る。写真誌に知り合いの記者もカメラマンもいるで、掲載されれば御社の信用に関わるはず」。

 もちろん俺だってトラクター日本縦断を公言していたわけだから、催行しないとなると、とんだウソツキになってしまう。ここは本当に腹を切ってでも約束は実行するのだ。それが男というもの。


■計画実施
 そこで担当の重役は飛んで本社に帰って報告したのだろう。オイラの計画は元通り実行されることになった。
(ワシが市井の一個人だからってナメたらいかんぜよ)
オイラはいっちょ前にサムライになりきっていた。


■これが最後の他人のフンドシ
 以上のような経緯もあり、他人のフンドシで相撲を取る---すなわちスポンサーを探して、自分のやりたいことをやる、といった卑しい計画はこれを最後に終えることに決めた。

 日本縦断自体は楽しいイベントであり、行く先々で喜ばれ感謝もされたが、テレビなどにも取り上げられるのでスポンサーイメージの関係上、悪いことはできない。立ちションさえも出来ないがんじがらめの野獣は、窮屈なことこの上なかったが、それ相当の協賛金を貰ったので、その間は家族が貧困に喘ぐことはなかった。

つづく



5607.野中の野人/その59 返信 引用

名前:のなか悟空 日付:1月23日(水) 12時2分
■戦友たちの35年後
 さて、これまで「野中の野人」を59回まで連載したわけだが、ちょうど59回目はごーくぅーに通じるので一区切りとして、60回目からは100年前に遡ることにする。

 そこでこの59回目に当たり、27歳から荻窪の「グッドマン」で、ライブを始めて以来、川下直広と不破大輔という戦友を得て数年間の活動を続け、それからそれぞれ各個の活動に入ったわけだが、それを童話に例えてみた。


■3匹の子豚/ブーフーウー
 もし我々3人ブーフーウーで有名な「3匹の子豚」に例えるならば、誰がどの子豚に該当するのだろうか?
ま、敢えてオイラが言わずとも、ブーは○○で、フーが××で、ウーが△△だというのは、賢明な読者諸氏ならお分かりだろう。笑。


■北風と太陽
 我々、各々の生き方・演奏活動方法を北風と太陽にも例えてみよう。果たして・・・北風スタイルだったのか、太陽スタイルだったのか?
ま、俺の場合は北風一辺倒で殆どの客を追っ払っちまったけどな。爆!それでも屈強な残党が僅かにいるのが心強いが。笑。


■「こう生き続ける」
 ま、ジンセイは結果が見えていれば生きてる意味がない。結果が見えないから五里霧中、暗中模索、一攫千金、で面白いのだ------というわけで、問題は「結果」ではなく、「どう生きたのか、どう生きるのか」と言うことに意義がある。
 余命もそう長くは期待できないが、このままズルズルと「こう生き続けて」で終わっちまうんだろうね(^O^)。